貌

Karte #16 貌 <1>

「貌無し病?」
耳慣れない単語にアンドラスは本から視線を上げる。
その先にいるのは先ほど隣町まで買い出しに行っていたソロモンだ。荷物を下ろしながら彼は続ける。
「ああ。隣町で聞いたんだ。そういう”病気”が流行ってるって」
「ふうん。正式な病名ではないんだろ?見たことのない奇病を一般人が勝手にそう呼んでる……そんなところかな。”症状”は?たとえば、顔が真っ平らになってしまう……ということではなさそうだね、ソロモン?」
いつも通りの微笑みを浮かべながら彼に問う。当然ソロモンならば、詳しい話を聞いているだろうという確信がある。彼は、人々が困難に直面しているとき見て見ぬ振りをすることができない性質がある。そして、アンドラスはソロモンのそういった性格を好ましく思っていた。
「……ここではいいけどさ。でも、その呼び方はいい加減控えてくれないかな……外で呼ばれて、また騒ぎになったら困るしさ」
ソロモンは苦笑して応える。

ここはヴァイガルドではない。
ある時——それがいつのことなのかは今は語ることができないが、恐らくは後顧の憂いがなくなった時であろう——全く突然に、彼らはこの世界に飛ばされて来た。
決してそれまで繋がることのなかった、メギドラルでもハルマニアでもない異世界にソロモンと、その元に集うメギドたちは放り出されたのだ。その世界は果てのない球体の世界。名を、地球と言った。
散り散りになった彼らはしかし、少しずつソロモンの元に集い、いくつかの生活拠点を置いて連絡を取り合いながら暮らしている。
ヴァイガルドに帰る方法を探しながら。

……最初に名前が問題になった。
メギド達はヴァイガルドに於いても災厄の悪魔として伝承が伝わっていたが、その固有名までもが広く知られていたわけではない。
しかしこの世界では、メギドの固有名は古くより伝えられ、中でもバラムが認識していた72体の追放メギドの名は『ソロモン72柱の悪魔』として広く知られていたのだ。
……そう、『ソロモン』だ。
その王の称号はヴァイガルドでは知るものにとっては大きな意味を持ったが、一般のヴィータたちもがそれを認識していたわけではない。少なくとも、メギドラルから直接メギドが侵略してくるまでは、そうだった。
だがこの世界においては教養を得たものであれば恐らくは誰もがその名を知る。
それは古代の偉大な王の名であり、それに付随する伝説として72柱の悪魔があった。
だから、この世界に来たばかりの時、自らの名を名乗った彼らがどのような視線をその身に浴びたのかは……語るまでもないだろう。
ゆえに、今はこの世界で通用するよう、あるものはヴィータとしての名を名乗り、あるものは新たな通りの良い名をこしらえた。
……ただ。
「そうかな?キミだって俺をヴィータの名では呼ばないだろ」
「だって、お前はもうそこら中に名前が知れ渡ってるじゃないか、『ドクター・アンドラス』」
一部の者を除いては。

まだこの世界に来て間もない時期に、メギドとしての名を用いたまま人々の記憶に残るなにかを成してしまったメギド達がいた。……アンドラスもその一人である。
それを詳らかにするのはまた別の機会にするとして、『医者』としての彼の噂はあらゆる場所に広がっていた。
「まあそうだね。……それで?その”症状”…あるいは”現象”について聞こうじゃないか」
最後に、ソロモンの元の名を付け加えて。アンドラスはソロモンを見た。

「——表情が、なくなってしまうらしいんだ」
「表情が?……精神を病んだ時、そう言った症状が出ることはあるが……
しかし、『流行る』というのは変だな」
「ああ。……いや、正確には、表情がなくなるなんてものじゃなくてさ。
『みんな同じ顔になってしまう』んだよ。その上で、一切喋ることもなくなってしまう」
「へえ。それは確かに異常だね。うん、病というよりは現象に近いな。それで、キミは実際にその『患者』を見たのかな?」
「……うん。話を聞いた人の一人が、会わせてくれた。
……妹さん、らしいんだけどさ。今は家で面倒を見てるって」
「すると、介助が必要な状態なんだね。キミから見て彼女はどんな感じだった?」
「うーん……何ていうか、『同じ顔』って部分は他の人も見てみなきゃわからないけど、それでも異質な感じがした。……人形みたいっていうのかな。すごく整っていて、人間らしくないというか……」
アンドラスは、考えるように指に唇を置く。
「続けて」
「……多少、反応は見せるんだ。声をかけられれば顔を上げるし、立ち上がらせようとすれば立ち上がる。でも、本当にそのぐらいで、自発的に動くことはないみたいだった」
「………なるほど、それで食事や就寝の際に介助をしているってワケか」
「ああ、そう言ってた。でも、食事は……口がうまく開かないらしくて。診療所で点滴は受けさせたらしいけど、限界があるから近々入院させたい……って言ってた」
「興味深いなぁ……死者は出てるのかな」
その声に楽しげな響きが混じるのを感じ、ソロモンは眉を顰める。
「あのな。そりゃお前は見たことがないような病気のヤツを解剖したいだろうけど、」
「真面目な話だよ。それは俺だって奇病の患者を解剖することに興味がないわけじゃない。でも、原因を深く知るアプローチとして有用なことは確かなんだ。それだけで一気に事態を解明することだってできる」
「………わかってるよ。お前は悪趣味だけどそういうとこは真面目だもんな。
…俺が聞いた限りでは、死者は出てない」
「ふぅん。……妙な話だ」
「それで……アンドラス」
「解ってるよ。キミが俺にただの世間話でそんな話をする筈がない。
患者を見に行こう。大方、もう約束は取り付けてあるんだろう?」
「……ああ。悪いな、助かるよ。ユフィールは都合がつかないようだし、バティンは管轄外だって言うしさ」
「未知の事象に対して俺に頼るのは悪くない選択だよ、ソロモン。
俺なら何だって『解剖』できる」
準備をしようか、と言って立ち上がったアンドラスの目は未知への期待に輝いていた。

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