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札バン研究所「あずまりゅーた『僕の事情』全曲解析④

こちら、札バン研究所

札幌を拠点とするバンド、略して札バン。

その音楽を研究する今回は、バンドではなく、ソロアーティスト。アコギ一本で自作曲を弾き語る、1994年生まれ、あずまりゅーた。

彼のアルバム『僕の事情』に収録された全10曲から、最終回は、9~10曲目を解析する。


#9 夜に灯をつけて

ドアーズの「ハートに火をつけて」を思い出すタイトル。

これは「月とハイライト」のアンサーソングというか、前日譚ソングなのだろう。同じく煙草をモチーフにしているが、現在から回想するのではなく、恋人と別れたその時を描いている。

キィーはG。再びゆったりしたテンポの、フォークっぽいハネ系リズムに戻るが、それに捉われず、語るように歌うルバート。二つ目のBmがやけに新鮮に響くが、それは単に、このアルバムの曲でⅢmが殆ど使われていなかったからだろう。コード進行自体はごく普通の循環進行。構成もAメロ、Bメロ、サビ、とストレートだ。

1番が終わって間奏になると、この曲だけ短いギターソロが入る。ディストーションのかかったエレキで、低音弦を中心にしたプレイはしっとりと落ち着いている。

そしてこの後Bメロが繰り返されるのだが、裏に女声ボーカルがユニゾンしている。さらに途中で、音階にはない音を含むコードF#m7が唐突に現れ、驚かされる。このBメロはもともと、やはり音階外の音を持つEというコードが入っていて、厳密に言うと部分転調していたのだが、さらにF#m7が加わった二回目は、より転調感が強い。また、Eを使うのはよくある手だが、F#m7が出て来るのは珍しく、印象に残る。音楽理論的にはあまり説明がつかないが、ま、かっこいいからいいでしょ。

ちょっと理論の話なので、ややこしいという方は飛ばしてください。とはいえ、このF#m7の説明をつけるなら、Eを導き出すドミナントモーションのと解釈できるかも知れない。つまり、F#m7→B7→Eとなるべきところを、B7が省略された、いわゆる2-5の5が省かれた、という解釈)

歌詞も、AメロとBメロが「僕」の一人称、サビが「アタシ」の一人称と、女歌が挿入される。しゃくるようなブレス音が多用され、感情がどんどんたかぶっていくのも、「月とハイライト」を踏襲している。

 ♪ タバコを吸えば短くなるように

   君の命と前髪 短くなったね

という、時間経過、あるいは恋人を傷つけて、彼女の寿命を削ったことへの自責の念を表現。歌い方もニュアンス豊かで、役者のようだ。

 ♪ 値上がりする前に聴きにきてね 僕の歌も

と、煙草に引っ掛けた未練の表現。

対して彼女は、

 ♪ もう何本目? もう何回目?

   もう何度目の煙草に火をつけるの

と問うサビを、「何度目の女に口をつけるの」「何度目の夜に唄をつけるの」「何度目の朝に嘘をつくの」と変化させながら繰り返す。問い詰めるかのように。そして、

 ♪ ねぇもうやめて もうやめて もうやめて もうやめて

   アタシの事 唄にするの

と引導を渡す。

恋人を唄にする、というモチーフも、やはり「月とハイライト」から踏襲されている。

ラスト。これまでずっと女歌であったサビのメロディーに、「僕」の一人称が乗る。

 ♪ もう最後だね もう一度だけ

   もう最後のお願い

   タバコ買ってきて

このエンディングは、あずまりゅーたが、優れたストーリテラーであることを示している。

それにしても、過去をモノローグで振り返る「月とハイライト」がアップテンポなのに、別れの日を現在形のダイアローグでドラマティックに歌うこの曲は、しみじみとしたトーン。普通とは逆のようだが、そこがいい。世に無数にある別れの歌と一線を画す、独自の表現になっていると思う。


#10 アスファルトに立つ

聴く度に、泣けてくる、ラストソング。これをアルバム中、唯一のピアノ曲にしたのは、大正解。

キィーはB(途中から入るギターは、半音下げでC)。コード進行は時々サブドミナントがマイナーになる、循環進行。バラードよりは速い、ミディアムスローぐらいの4拍子。『レット・イット・ビー』型の楽曲だ。

メロディーが、本当にいい。「愛なんだ」に次ぐ、旋律美。メジャーの音階でありながら、哀切に満ちている。その点でも、『レット・イット・ビー』の正統な後継者たる楽曲だ。

後半、ボーカルとコーラスの掛け合いになる。コーラスというより、その場にいたみんながそれぞれに声を張り上げ、あるいはユニゾンで、あるいはハモって歌う合唱。レコーディングは、スタジオではなく、友人を集めて行ったようだ。ここでいつも、涙腺が崩壊します。

これは気まぐれな演出ではなく、歌詞の内容からきちんと導き出されたアレンジだ。札幌駅前に、大通り公園という、細長い公園がある。その起点にテレビ塔が建っていて、これは東京の東京タワーないしはスカイツリー、大阪の通天閣に当たるランドマーク。その下に集まり、歌う若者たちの夜を描いた曲だからだ。路上ライブの雰囲気を、録音作品として音的には整理しつつ、よく再現している。

冒頭の歌詞が、胸に刺さる。

 ♪ ねぇボク達 大人になったら

   どうなっちゃうんだろ

   ねぇアタシ達 子供になったら

   どうなっちゃうんだろ

「大人」は未来。明日への不安。これだけならよくある感慨。しかし続けて「子供になったら」と歌われるところが秀逸だ。

子供は過去である。しかし未来と同様、過去もまた不確かなのだ。

残っているのは記憶だけで、それって実は極めて曖昧なもの。未来と同じくらい、不安なもの。

そうした深い、哲学的な認識が、過去のことを「どうなるのか」と未来形で歌う文法的な矛盾に込められている。

じゃ、確かなのは?って言うと、それは現在だけ。いまこの時だけ。

それでも、積み上げてきたものがきちんとその先に繋がっていた時代は、過去にもまだ確かな手触りがあっただろう。でも、われわれが生きる平成から令和にかけての世の中はそうじゃない。右肩上がりが約束されなくなった時代の、確かなのはいまだけ、というリアルな共感。だから主語が、「ボク達」「アタシ達」なんだな。

そう、ここまで「僕の事情」を歌ってきたこのアルバムは、最後で「ボク達」「アタシ達」に普遍化する。

そして、仲間たちに対して、あずまりゅーたは約束する。

 ♪ 僕はなるべく ここに立ってるよ

   僕はなるべく ここに立って 唄をうたってるよ

「なるべく」という言葉がいい。必ず、とか、絶対、とか、出来ない約束をしない誠実さを感じる。

かくして人は集まる。テレビ塔の下へ。唄のあるところへ。

 ♪ 缶ビールをたくさん持って テレビ塔の真下で僕ら

   南風に吹かれながら シュールな夢をみていた

路上は、そこに唄があれば、ユートピアになる。札幌だけじゃない。東京でさえ、そうだった。深夜の吉祥寺、工事中だった新宿駅東口……不確かな過去の中でも、あれはやっぱり本当だった。確かにそこで、歌を聴き、歌を唄い、語らい、笑った。

 ♪ アスファルトに立つ光が 僕らを優しく包んだ

   朝になる前に帰ろう 今日はちゃんと帰ろうぜ

「ちゃんと帰る」のを、いまどきの若者の妙な冷静さ、と見る老人もいるかも知れない。ワシが若い頃は、後先考えず突っ走ったものじゃがのお、なんて。

しかしそれは、冷静さなんかじゃない。

またここで会おうという、持続への意志なんだ。

ちゃんと帰って、次の日の生活をして、そしてまたここで会おう、という約束なんだ。

テレビ塔がある限り、それが路上であっても、ライブハウスであっても、他のどんな場所であっても、あずまりゅーたが「なるべく」立っていてくれる限り、歌は止まない。

そしてまた、ボク達は、アタシ達は、シュールな夢をみるんだ。

みんなで、一緒に。


The end.


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