見出し画像

【にほんご日誌(23/4/8)】小学生の日本語指導、始めます。

4月、高校の日本語指導いまだ始まらず

noteの投稿を1年ぶりに再開し、バタバタと5回連投したところまではよかったのだけれど、3月9日以来更新する余裕がないまま、またもや1カ月近くが経ってしまった。

その1カ月間の3月半ば、高校の放課後日本語クラスは終了した。そして先日の始業式で、1年生だった私の生徒たちは2年生に進級したはずだ。

「はずだ」というのは、この4月からの新年度、日本語指導員としての契約について高校からはいまだなんの打診もないためだ。最後の授業をして以来、私は生徒たちと会う機会をうしなったまま、新学期はスタートしてしまった。

もちろん学校には、契約の切れた日本語指導員に対してなんの責任も義務もない。日本語指導を担当したのだから、生徒の進級について報告があってもよいのではないか? などと私が考えるのは筋違いというものだろう。

とはいえ、授業の都度、真剣に向き合ってきた生徒たちがその後どうしているのか、どのような気持ちで新学年を迎えたのかを知りたいと思うのは人情というものだろう。

私は当然ながら、2023年度も高校での日本語指導員を続けたいと思っている。希望しているからこそ、入学式や始業式が終わったいま、いまだに始動のめどがたたないことに居心地の悪い不安を感じずにはいられない。

ひとつには、昨年度の課題を改善し新たな取り組みをしてみたいという、自己都合の意思があるためだ。

それとは別に脳裏に浮かんでくるのは、日本語力が不十分な生徒が、先生が言っていることも、黒板に書かれていることも、教科書の内容もまったくわからないままに、教室に一日、ぽつねんとただすわっている情景だ。

ある意味、そのような状況を、見てみぬふりをしている何かに抗うために、私は日本語指導員をしているのかもしれないと思う。

日本語指導が必要な生徒たちが学校や社会のなかでどのような存在なのか、その年の総括として約1年前に以下の記事を書いたので、お読みいただければ幸いです。

小学生の指導、始めます

さて、そんな思いをかかえて少しウツウツとした気持ちでいるなか、住まいのある自治体の教育委員会から電話がかかってきた。

ある小学校で、日本語がまったくわからない(実際のところはわからないが)6年生の女子児童に日本語指導をしてもらえないか、というのがその内容だった。

私は日本語指導が必要な小中学生への日本語講師として、教育委員会に登録しているのだ。登録したのは3年ほど前だが、その依頼を受けたのは今回が初めてだった。

承諾の旨を伝えると、次に女子児童が入学した小学校の担任の先生から電話がかかってきた。

今後の進め方についての段取りも、指導内容についても、女子児童についての情報の共有もとくにないまま、私はその日のうちに、小学校での日本語指導を引き受けることになった。

これはまたなんというスピード感! 長期停滞中の高校と比較して、正直なところ私はあっけにとられてしまった。

かねてから希望してきた仕事でもあり、そのチャンスが巡ってきたことは素直にとてもうれしい。担当することになる女子児童との日々を考えると、心が温かくなるほどわくわくしている。

だが一方で私が感じているのは、高校のことも今回の小学校のことも、真逆の対応のように見えながら、じつは同じコインの裏表ではないかということだ。

海外ルーツの児童生徒の教育に関わることは、現在の日本の教育機関、そして多くの教員の方々にとっては、主要ではない業務なのだろう。放置したままであることも丸投げすることも、その根底にある認識は同じではないのか。マイノリティは別室のお客さんなのだ。

私の日本語指導員としての新しい年は、つい数日前までは予想もしていなかった小学生への指導から始まることになった。

私の見方が的外れな穿ちであり、noteに反省の弁を告白することになればいい。

女子児童に真に寄り添った指導の場が待っていることを、今は祈っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?