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ことだま

▼ぼくは「言霊」ということを信じている。
そもそも「言霊」とは・・・Wikipediaによると

一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。言魂とも書く。

となっている。

▼もちろん、口から出たり、書かれたする言葉には力があると感じる。
 人を励ます言葉
 人を勇気づける言葉
 人を元気づける言葉
 人を楽しませる言葉
 人を傷つける言葉
 人を不安にさせる言葉
 人を嫌な気分にさせる言葉
善い事も悪い事も…言葉に込められたものは相手に伝わる事が多い。

▼相手に伝わるかどうかは・・・思いの強さだけではない。
それに、常に伝わるとも、言葉が常に力を発揮するかと言えばそうではないとも考えている。

▼「言霊は信じるくせに、常に力を発揮するわけではない」
どうも矛盾したことだ。
もちろん、ぼく以外に…もっと強く、常に言霊を信じていて言葉を発している人の言葉はものすごい力を持っているかもしれない。

▼ただ、世の中に出回っている言葉がその通りになったとしたら・・・それはそれは恐ろしい世界になってしまうと思っている。
「あいつなんか死んでしまえ」という言葉そのものに力があったら…その通りになってしまう。
だけれども…そこまで力はなくても、言葉にはやはり魂が宿っていると感じている。

良くも悪くも、聞いた人・見た人が、発した言葉を受け取り、その言葉に気持ちが少しでも変化する。
それが言葉の力、言葉の魂の力ではないだろうか。
その言葉がたくさん集まれば…強大な力になる。

▼しかしながら・・・この30年ほどだろうか。「言葉狩り」と言っても過言ではないほど、受け取った側が「イメージが悪い」とすれば言葉そのものが消えていく場合がある。

もちろん、ひどい言葉を投げかけられたのなら、そう感じることは誰でもある。しかし、なんでもかんでもイメージが悪いということで通ってしまっては…言葉も文化もなくなってしまうのではなかろうか。

▼だからといって差別用語を使え、放送禁止用語を使えといっているわけではない。また、人を傷つける言葉を使え、とも考えていない。
人が使う言葉なのだから、時代によって変わっていく事も当然のことながらあるだろう。
だからといって、過剰に”言葉狩り”をしてしまうと…その言葉は元より、言葉の魂、文化もすり減っていってしまうように感じている。
話ことばにしても書きことばにしても…心に影響する。だからこそ、自分も、自分以外も…栄養と凶器を常に持っていると考えたい。

▼話を戻して。
言霊、ということを強く感じるのが、昭和天皇陛下のお言葉を拝聴する時だ。もちろん、上皇陛下、今上陛下のお言葉にも皇嗣殿下のお言葉にもやはり感じる。

言霊っていうのは、強い、純粋なお気持ちから出るお言葉だから感じるのであろうか。
自分が大好きな方々のお言葉だからなのだろうか。
反対に大嫌いな人たちの言葉であればなんでもかんでも嫌に感じるのだろうか。

▼ひょっとすると、人間だからそういう部分はあるかもしれない。
言葉を見たり、聞いたりする前に…その人の好き嫌いがあるのかもしれない。
ただ、最初から好きな人も最初から嫌いな人もいないはずだ。

我々は生まれてから今日まで色々な人の言葉を聞き、見て、生きてきた。
そうした言葉の積み重ねで好き嫌いが出てくるのではないか。

それは自分に利益があるように言っている人かもしれない。
自分の思想に沿わないことを言った人かもしれない。
自分の理解者かもしれない。
自分が好意を寄せる相手かもしれない・・・

▼「言葉」というものは人と人とをつなぐものだ。
だからこそ、「魂」があり、「力」が働くのかもしれない。
何故ならば、言葉は必ず、人の心に働きかけるからだ。

▼善いことも悪いことも言葉に力が宿るのであれば…
ぼくは発する言葉も聞く言葉も見る言葉も、善い魂を発し、受け取りたいと思う。

昭和天皇陛下、上皇陛下、今上陛下、皇嗣殿下のお言葉が、ご本人ではなく常に国民の事を強く思われた、「私心(わたくしごころ)」のないお言葉だからこそ、多くの人々に善い言葉として受け取られ、御心が伝わるのだと思う。

▼ぼくは「私心(わたくしごころ)」を完全に消すことはできない。少しでも消そうとは試みる。
ただ、やっぱり…うまくはいかない。

とはいっても…できないならできないなりに…このコロナ禍の中で少しでも、この文章やぼくの発言を見てもらって、善い方向で心を動かしてもらえるように、善い思いをもっともっと強くしていこう。

舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!