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[滝坂道]駒場野公園から淡島まで

〆切地蔵(駒場地蔵尊)を越えると目黒区から世田谷区に入ります。


筑波大学附属駒場中学・高等学校

滝坂道(淡島通り)の南側にある筑波大学附属駒場中・高等学校(筑駒)の所在地は世田谷区池尻4丁目です。ところで、何で東京に筑波大学(茨城県)の附属高校がそもそもあるのかという疑問を世界の8割の方々は抱くのではないでしょうか。これは、筑波大学の前身である東京教育大学の附属校であったためです。東京教育大学は1978年(昭和53年)に閉校され、附属施設が筑波大学に移管されました。筑駒はこの年に東京教育大学附属駒場中学校・高等学校に改称されました。

そもそも、この土地は1891年(明治24年)騎兵第一大隊が置かれた場所です。明治以降、兵営は皇居周辺の大名屋敷だった場所に置かれていたものの近代戦ではより広大な練兵場が必要になったため、この駒馬野が選定されたといいます。騎兵第一大隊中隊長は日清・日露戦争に従軍した秋山好古で、駒場学園高校から南に進んだ「騎兵山」に石碑が残されています。この辺り、駒場のから池尻にかけて日本の一大軍事拠点でした。

騎兵第一連隊址
世田谷区立池尻見晴らし広場
馬神の碑
この石碑の反対側の斜面に騎兵第一連隊の戦病没者の慰霊碑がある。

第二次世界大戦後、軍事施設は国有地となりGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により学校や病院施設などの公共施設に限り利用が許可されたという背景があり、駒場から太子堂までは学校や病院が建設されました。

淡島通り(滝坂道)沿いにある駒場学園高等学校も旧陸軍獣医学校跡に設立された学校で、その前身は日本装蹄学校でした。

駒場学園高等学校
前身は日本装蹄学校だった

滝坂道は北沢川に向かって下っていきます。

都営代沢一丁目アパート前から淡島方面に向かう下り坂

淡島交差点の手前に斜め左に向かう細い道があります。これが元の滝坂道です。
この道を進むと北沢川緑道と交差します。

淡島通りを直進すると梅丘通りと交わる淡島交差点。その手前に斜め左に入る道が滝坂道。

北沢川は世田谷区上北沢を水源とした河川でしたが、江戸時代に玉川上水から分水され北沢用水として流域の田畑を潤したと言われています。しかしながら都市化が進むに連れ水質が悪化し、1980年代には暗渠化、下水道化されました。
一方で 1994年(平成6年)から住民参加で北沢川のせせらぎを復活させる運動がはじまり、現在では東京都下水道局落合水再生センター(下水処理場)で、水質を向上させた高度処理水が流れる北沢川緑道として親しまれています。

北沢川緑道と大石橋
北沢川は池尻の騎兵山南側で烏山川と合流し、目黒川になる。

北沢川緑道を過ぎ、梅丘通りと交差する五叉路に着くと地蔵堂があります。

淡島の厄除け地蔵

お堂の中には左側に庚申塔、右側に四角い厄除け地蔵があります。お地蔵様がどうして四角いかというと、戦災で失われたために現在では石柱となったとのことです言い伝えによると、代田村には東西南北にそれぞれ厄除け地蔵があり、淡島の厄除け地蔵は代田村の東で、村の平穏と疫病を防ぐために造られたと言われています。

お堂の外、左側に三界萬霊塔があります。三界萬霊とは、仏教で欲の世界(欲界)、物質世界(色界)、精神世界(無色界)の三つの世界のことです。この塔は生死を繰り返す世界(輪廻)で、生きとし生けるもの全ての霊を宿している塔です。1700年から1800年代に造られたものだと考えられています。

お堂の右側には日本廻國供養之石塔があります。
この塔は、1789年(天明9年)に先ほど渡った大石橋を架けた藤助という行者に対して、感謝の気持ちを込めた塔と言われています。この塔も戦争で失われてしまったものの、1952年(昭和27年)に再建されたと言われています。


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