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ご冥福、ご愁傷様、R.I.P.・・・・・・野暮を寄せ付けないネットでの弔意の伝え方

 公の場で弔意を伝える機会はインターネットが普及するまでそうそうなかった。SNSやニュース記事のコメント欄で気軽に感想を「公示」できるようになった現代は、世界人類・七十億総弔意時代と呼べなくもない。すると当然、表現の細部にツッコミを入れる声が増えてくるわけで…。

「ご冥福をお祈りします」に目を光らせる半可通

 Googleの検索ボックスに「ご冥福」と入れて半角スペースを入力すると、関連ワードとして「間違い」や「キリスト教」という単語が出てくる。これは、ご冥福という言葉の使い方に不安を抱いている人が少なからずいる証拠だ。

 訃報に接したときによく使われる「ご冥福をお祈りします」の直接的な意味は、故人が死後の世界で幸せになることを祈ります、ということにとなる。前提にあるのは仏教をベースにした日本古来からの死後観だ。だから、死によって原罪が赦されて天に召されると考えているキリスト教徒には使ってはいけない、などと葬式のガイド本に書かれていたりいる。そういう本を鵜呑みにしてか、ネット上でも追悼コメントに「だから、プロテスタントにご冥福は間違いですよ」なんて返信がついているのをよく見かける。

 もう、限りなく野暮だ。それを言うなら、「安心」や「自由」みたいな仏教用語由来の言葉は他宗教の人の前では全部言い換えなくてはならなくなる。定型化した言葉の原義を蒸し返して汎用性をそぎ落とそうとするのは、世の中に面倒事を増やすのに等しい。馬鹿げている。

 とはいえ、野暮を根絶やしにするのも、また難しい。

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アイメッセージは防御力が高い

 ネットで訃報に触れて、何かコメントしたくなったとき、野暮な指摘の標的にされないようにするにはどうしたらいいのだろう?

 手っ取り早いのは、表現の置き所を自分に留めることだ。

「ご冥福を~」「安らかに眠れ(R.I.P.)」のように故人に向けた表現は、どうしても死後観を押しつけてしまうので避ける。「ご愁傷様です」のように遺族を思いやる表現も、確実に遺族に向かう場面でないときは白々しく捉えられるリスクがあるので控えたい。

 それらに対して、「お悔やみ申し上げます」のような謙虚に自分の気持ちを表現する言い回しは、世界観の押しつけもないし、特定の受け取り手も求めない。突っ込みが入れにくく、とかく無難で使い勝手がいい。

 一般的に、相手に気持ちを伝える「ユーメッセージ」(例:○○してくれて、ありがとう)よりも、自分の気持ちを伝える「アイメッセージ」(例:○○してもらえて、助かったよ)のほうが否定されにくいと言われる。弔意を伝える場でも似たような効果があると思われる。

 とはいえ、かしこまった場で使う定型文のままでは、カジュアルなネットの空気から浮く心配もある。

 できれば、自分の感情を謙虚に語る方向性は残しつつ、表現を崩して普段の口調に寄せるところまで突きつめたほうがいい。「ただただ悲しい」でも「驚きでまだ何も言えません」でも、なんでも構わない。そこに本気の弔意や故人への気持ちがこもってていれば、それが最適解だと思う。

ネットは供養よりも追憶のほうが馴染む

 そもそもネットがない時代、弔意を表明する機会は、せいぜい葬儀に参列したときや電話口で訃報に接したときなどに限られていた。それがいまでは、有名人の死去を報せるニュースをコメントつきでシェアしたり、SNSで回ってきた知人の訃報に何かしらのアクションをとったりすることが普通になっている。弔意を表す場が劇的に増えたわけだ。それを昔ながらの少ない定型文で乗り切るのは土台無理な話。できるだけ早めに自分の言葉で弔意を語る習慣を身につけたほうがいい。

 英国の死生学研究者であるトニー・ウォルターは、来日した際のとある講演で東洋と西洋の弔い方の違いを説いた。いわく、東洋は供養の意識が強く、西洋は追憶の意識が強いそうだ。

 それに照らし合わせると、ネットの世界はとても西洋流だと思う。供養する=故人の冥福を祈ってお供えしたりするのは向かないが、追憶する=故人の思い出を語り合うのにぴったりの場はいくつもある。それはいまの日本社会にもよく馴染む。

 大切な人が亡くなったら、自分の言葉で弔意を伝えて、その人との思い出を語ればいい。そういうコメントがたくさん集まれば、多くの人が触れた故人の様々な側面が補間されていって、多面的な追憶が可能な場が生まれる。

 そこまでいけば、野暮の虫はつかないはず。理想論ではあるけれど。

※初出:『デジモノステーション 2016年11月号』掲載コラム(インターネット死生観 Vol.6)
※『死とインターネット』にも収録

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