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デジタル遺品にみる、物質の処分が不要という奇跡

 立つ鳥跡を濁さずとはいうけれど、人は死ぬときいろいろな物体を残していく。身体も持ち物も物体である限りは後片付けが必要だ。けれど、デジタルデータの遺品は物質としての処分は必要がない。その特性がどんな効果を生むのか思索した。

「負動産」や「墓じまい」はライフスタイルの変化で生まれた

 葬祭業の現在の管轄省は経済産業省だが、半世紀前までは厚生省(現・厚生労働省)だった。かつてはサービス業としての側面よりも遺体や遺骨の衛生管理という面が重視されていたからだと思うが、実際のところはよく知らない。

 とにもかくにも、人が亡くなると遺体という物体が残るのは事実だ。身体だけじゃない。人は現世に多くの物体を残していく。そして、それは残された人達が適宜処理することになる。形見として引き継がれるものもあれば廃棄されるものもあるが、とくに厄介なのはどちらにするにも決めるのが難しいものだ。

 最近は「負動産」なる言葉を雑誌や新聞で見かけることが珍しくなくなった。地価の下落や遺産分割の難しさなどが理由で負の遺産と化してしまった不動産資産を指す言葉だ。売ろうにも郊外にあるなど理由で買い手がつかず、他の遺産もとろも相続を放棄するケースは珍しくない。手放すこともできずに空き家化しているケースも年々増えており、2018年10月時点で全国の空き家は約846万軒、全戸数の13.5%を占めるまでに膨らんでいる。

 実家と同じく、お墓の扱いに困っている人も増えている。お墓の引っ越しを「改葬」と呼ぶが、そのなかでも継承不要なタイプのお墓に移したりすることを俗に「墓じまい」という。寺院や霊園には墓じまいの相談が多く寄せられ、「新規の墓石建立よりも墓じまいの依頼のほうが多い」とこぼす石材店は一軒や二軒じゃない。

 戦後に都市への人口集中が起き、生涯を地元で暮らすライフスタイルが主流ではなくなっている現在、実家や先祖代々のお墓と離れて暮らすのは普通のこととなっている。となると、将来それらが自分の所有となったときに遠隔管理が必要になるわけで、維持するのになかなか骨が折れるのは想像に難くない。

 先代から残されたものは、大切にしたくても、現在や将来のライフスタイルにフィットしない部分がどうしても出てきてしまう。マイナーチェンジで対応できればいいが、どうにも手が打てない場合はいつか処分することになるだろう。関係者たちの思惑がぶつかって宙づり状態になったとしても、いずれは何かしらの判断が求められるはずだ。

 いやはや、形あるものというのは手放すのが面倒だ。

 そんなことを考えていたとき、ふとデジタル遺品が脳裏をかすめた――「あれらには形がないな」、と。

10テラバイトのデータの質量はゼロ

 デジタル遺品の多くはデジタルデータやオンライン契約といった非物体だ。

 SNSに10年間毎日写真をアップしていても、1万人の友達とつながっていても、ユーザーの物理的な空間は一切圧迫しない。HDDに数テラバイトのファイルを保存したとしても、質量自体は空っぽのときと変わらない。スマホやパソコンは物体だが、物理的なサイズは冷蔵庫や洗濯機には遠く及ばないし、処分するルートもそれぞれで確立されており、処分の難しさは家やお墓、クルマのような大物よりはるかに低い。

 つまり、デジタル遺品は物体としての処理をほとんど考えなくていい遺品といえる。引き継ぐとくにはそれほど目立たない特性かもしれないが、遺品が“お荷物”とみなされる局面となったとき、大きな強みになるんじゃないだろうか。

 断捨離や生前整理のテクニックのひとつとして、アルバムにため込んだ紙焼き写真をスキャンしたりデジカメで撮影したりしてデジタル化するというものがある。本棚や押し入れを占拠していた大量の“原本”は丁重に処分して、空間を圧迫しないデジタル写真として保持することで、思い出の維持と所持品の整理が両立できる。一時期流行った、蔵書を自らスキャンして電子書籍化する“自炊”も同様の効果がある。

 もちろん、非物体であることのデメリットもある。デジタルデータは紙焼き写真のようにそれ単体で中身を鑑賞することはできない。スマホなりパソコンなりのビューワーを通す必要があるから、十分な環境が揃っていないと実体が把握できないし、ITが苦手な人にとっては遠い遺品となってしまう傾向がある。数10年先には現在存在しない機器がデジタルデータを扱う主流になっている可能性も高い。

 また、一般的にコピーが容易なので、元データを削除しても元通りのものがどこかに残っているという疑念をゼロにするのが難しいという側面もある。情報の秘匿性を守るという意味では、従来の遺品よりも警戒すべき要素が数段多いのは確かだろう。

 デジタル、あるいは非物体なりの面倒も抱えているわけだ。ただ、何事もクセというのはうまく扱えばさほど害悪にならないだろう。

物体的な面倒くささがないならそれは良いことだろう

 遺品を語るとき、故人と残された人のポジティブな思いに着目して展開したほうが人を傷つけにくいし批判も受けにくい。けれど、人の思いも関係性も百人百様。遺品に対するネガティブな思いも当然ある。「あいつの遺品なんてもらい受けたくない」みたいな、積極的な拒否の感情を抱く人もいるだろう。しかし、おそらく大多数の人が抱くのはもっと消極的なもの――「面倒くさい」といった感情じゃないかと思う。

 仮に遺品にまつわる面倒くささが解消されたら、ネガティブ要素がいくぶんか軽くなって、結果的にポジティブ要素が占める割合が増えるのではないだろうか。デジタル遺品によって物体処理の面倒が減るのなら、それは多分良いことなんじゃないだろうか。

※初出:『デジモノステーション 2019年11月号』掲載コラム(インターネット跡を濁さず Vol.42)

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