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「死のポルノグラフィ」化はネット時代に加速した?

 「牧歌的な地域社会が崩れて扇情的なコンテンツが台頭した」なんていわれて百余年。情報化社会の現代は扇情的なコンテンツも桁違いになっているけれど、死をもてあそぶ感じは比例して増えているのかな。

死生学でよく語られる「死のポルノグラフィ」論

 日本語が飛び交う場面での殺人や自殺の動画が珍しくなくなっている。前回はその理由を掘り下げたが、思索の過程でもうひとつ思い浮かんだことがある――SNS時代になって「死のポルノグラフィ」化も加速しているんじゃないか?

 死のポルノグラフィ(The Pornography of Death)は、イギリスの人類学者であるジェフリー・ゴーラーが1955年に雑誌に寄稿した論文で生み出した言葉であり、死生学の文脈でいまでも頻繁に引用される重要なキーワードとなっている。

 第一次世界大戦後の欧米社会では、西部劇や推理小説、SFといったフィクションのなかでショッキングな死の場面が頻繁に登場するようになり、ゴーラーの目には死が娯楽の道具として消費されているように映った。

 地域の儀礼に従って粛々と喪に服すような「古き良き」時代の死の伝統が失われつつある。そのなかで、近頃はなんだか性的興奮を起こさせるポルノグラフィのような死の扱われ方が妙に目立つ。それってどうなの? という問題提起が論文の主旨だ。

 ここでゴーラーが指摘したような社会の動きは、実のところ、現在の日本のほうが桁違いに強まっていると思う。

 高度経済成長の時代から都市への人口流入が続いたことで地域の伝統は薄れているし、一世帯あたりの平均人数が2.33人(2015年国勢調査より)の社会では同居人の死に接する経験もなかなかできない。一方で、メディアを通して流通する扇情的な死は、デスゲーム系コンテンツを例に出すまでもなく健在だし、情報量は比べものにならない値になっている。まして、冒頭に挙げたとおり、最近は臨場感のある死の現場がSNSで拡散する事例が増えている。

 自分ごととしての死はどんどん遠くなっているのに、インパクトの大きな他人ごとの死はどんどん飛び込んでくる。いまの日本は、まさにポルノグラフィと化した死の洪水が起きているといえそうだ。

全部ポルノグラフィ化したら世の中大変

 けれど、肌感覚に立ち返ると、正直そこまで先鋭化している感じはしない。脚色の入った大げさな死がたくさん流れたからといって、死に対する世の中の認識がどんどん現実から乖離しているかといったらそうでもない気がする。

「ありがとう・・・ガクッ」「ご臨終です」みたいに、末期がんの人が意識を失って即座に亡くなると信じている人は一定数いるかもしれないが(実際は意思疎通できなくなった後、昏睡状態が1日以上続いてから息を引き取る流れが多い)、自分が死んだらRPGの世界に転生すると確信していたり、断崖絶壁から落下して行方不明になった事故の報道を見て「生存フラグが立ったな」と本気で思ったりする人は今も昔も普通ではないだろう。

 未経験ゆえに死に対する誤解や理解に及ばないところは多々あるし、凄惨な事故死や殺人事件に気持ちが引っ張られて恐怖心が増すという動きは多少はあれど、メディア上の死が与える影響はそこまで増えていないように思える。少なくとも情報量に比例はしてない。

 たとえばインターネットに限っても、2000年にアップされたデータの年間総量は2017年の1日分といわれている。死に関する情報もそれくらい指数関数的に増えているなら、過激な死後観を喧伝する新興宗教が跋扈したり、マンガのように猟奇的な殺人事件が急増したりしても不思議はないが、やっぱりそんなことはない。

 おそらく、コップの水がとっくにあふれているんだと思う。世の中に出回る情報量がいくら増えても、受け取る側のキャパシティには限りがある。受け取られなかった情報は何も意味もなさない。

 それに情報があふれていると、人は好みの素材を選ぶようになる。いくらポルノグラフィな死が大量に転がっていたとしても、見る人は見るし見ない人は見ない。興味のない人でも、世間を賑わすレベルの大事故や炎上案件の死の情報は無視できないだろう。しかし、次から次へと押し寄せる情報の波によってすぐに流されていくはずだ。そう考えると、もしかしたら1955年頃よりも現代のほうが「死のポルノグラフィ」効果は薄くなっているのかもしれない。

ポルノグラフィ化しているのは何も死だけじゃない

 もうひとつ、“ポルノグラフィ”のバリエーションが増したことで、メディアのなかの死の存在感が相対的に薄くなった可能性もあると思う。メディアはもちろんネットを含む。

 ちょっと前に、人気YouTuberのファンが「好きなんだけど、ちょくちょく「奥さんがいたら家事全般丸投げすんのにな」みたいな冗談を入れてきてキツイ」といった趣旨の投稿をして1万件以上の「いいね!」をもらっていた。これは、日常のちょっとしたイラつきや違和感を共有し、皆で「そうだ! そうだ!」と盛り上がることで高揚感を得ている。いうなれば「違和感のポルノグラフィ」ではないかと思う。

 ほかにも、「正義感のポルノグラフィ」「意識高いのポルノグラフィ」「カワイイのポルノグラフィ」「ポルノグラフィのポルノグラフィ」などなど、死の~のライバルがいろいろ頭に浮かんでくる。そのなかで埋もれないようにするのは大変だ。

 かくして、死のポルノグラフィがSNS時代に台頭するということはなさそうだと思い至った。

 とはいえ、ゴーラーの時代よりも現在の日本のほうが身近な死に触れにくいという事実は変わらない。人生100年時代と言われ、なおかつ核家族化の先の単身世帯化が進む日本。身近な人の死に接する機会が遠ざかっているのは確かだ。経験不足のままメディアを通してフィクションの死や他人事の死に触れる状況は傾向は増えていくだろう。

 その変化をできれば余裕を持って面白がりたい。昔は良かったと現在を憂うような姿勢はちょっと苦手なので。

※初出:『デジモノステーション 2019年9月号』掲載コラム(インターネット跡を濁さず Vol.40)

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