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【短編小説】蛍

2,816文字/目安5分


 花火の音は遠く、静かな夜を微かに温め、赤、青、緑と空を照らす。
 音を立てず通るぬるい風が、あちこちで鳴く虫の声が、わたしの心をざわつかせる。

 ああ、嫌だな。

 夏は嫌いだ。夜が短いから。
 こうしてベランダでただ外を眺めているのも、夏のせい。祭り囃子も浴衣も嫌いだ。
 わたしは世界に一人、置いていかれたような気分でいる。

 待ち合わせの時間は確か午後の四時だった。地元の祭は大きく、県外からも多くの人がやってくる。学生だったわたしは、その当時好きだった相手と一緒に行く約束をしていた。張り切って浴衣をレンタルし、髪の毛もちゃんとセットしたりして、今思えばかわいいものだ。その日をかなり楽しみにしていたのを覚えている。
 彼とはたしかその時が三回目くらいのデートで、彼からもなんとなくわたしへの好意を感じていた。合流した後は屋台を回って、花火までの時間を過ごした。一緒にいるだけで心が躍る。そんな人と花火を見るなんて、どんなに幸せなことだろう。そんなことを考えていた。
 花火の時間が近づくにつれ、人も多くなっていく。うまく歩けず揉まれるうちに、彼とはぐれてしまった。探しても見つけられない。携帯は圏外になってしまい、連絡も取れない。そのうち花火が上がり始める。こんなことならもしもの時の集合場所を決めておけばよかった。会場の入り口あたりでずっと一人でうずくまっていた。
 結局見つけられないまま花火が終わった。それが悔しくて悲しくて、帰り道電話が繋がった時に彼を責めてしまった。なんにも悪くないのに。すごく心配をしてくれたのに。電話越しに何度も聞こえた「ごめんね」が、今でもしつこくわたしの耳にこびりついている。それから彼と話をすることはなくなった。
 その時から、祭り囃子も浴衣も嫌い。そして、こんな昔のことを引きずっている自分が大嫌い。

 本当に、夏が嫌いだ。

 花火の音は激しく、空一面を明るく照らす。
 そろそろ終わりになるらしい。締めくくるように大きく一つ音が鳴ると、その後は完全に静かになった。
 思い出したかのように虫の声がまた聞こえ始める。さっきまで色とりどりに照らされた空も、すっかり真っ暗になった。
 わたしは一人夜に放り出された。

 毎年、夏が来るたびに思い出すのが、おばあちゃんちだ。
 夏休みになると家族で田舎のおばあちゃんに会いに行く。すぐ近くに山があって、よくたぬきなんかが下りてきて、小さな川があって、離れたところに大きな川もあって、田んぼが並んでいてとんぼが飛んでいる。わたしは毎年おばあちゃんちに行くのを楽しみにしていた。
 親戚には一人、歳の近い男の子がいて、小さな頃はよく遊んだ。元気で明るい、少し嫌なやつ。将来は社長になるんだとずっと言っていた。とんぼを追いかけたり、小さな川に葉っぱを浮かべて追いかけたり、そんなことをして過ごした。冒険だとか言って山道に入っていって迷子になりかけたりもした。
 部活やら進学やらでだんだんと会う頻度が減り、今では会うことがなくなった。働き始めてからはおばあちゃんちにも行っていない。みんな元気にしているだろうか。

 まばらだった周りの家の明かりがつき始めた。楽しそうに話す家族の声も聞こえてくる。花火から帰ってきているようだ。

 なんというか、いつからだろう。
 昔は楽しいことは純粋に楽しいと思っていたと思う。寂しい時は寂しい。悲しかったら泣く。嫌だったら怒る。
 いつからだろう。ちゃんとしなきゃって思うようになったのは。楽しいだけじゃだめ。寂しくても明日は来る。泣いてはいけない。怒ってはいけない。そんな風に外への自分と内の自分を分けるようになったのは、いつからだろう。
 それが大人になったということだろうか。
 小さな頃からずっと美容師になりたいと思っていた。
 髪は一センチ切るだけで印象がかなり変わる。髪を切りに行くたびに毎回違う自分になれた気がして、それがとても嬉しくて、その感動を今度は人に味わって欲しくて。そのための勉強もいっぱいして、必死で努力をして、憧れていたところで働くことができて、夢を叶えたはずなのに。

 いつからか休みの日を待つ自分になっている。もちろん今に不満があるわけではない。充実していると言えると思う。むしろ周りから見たら順調だとも言えると思う。指名も増えて、もらえるお金も増えていって、それはもう順調。
 でも、わたしの心はそんな順調さとは逆方向に進んでいたようだ。きっかけはなんてことない。いや、きっかけなんてないのかもしれない。旅行先で見た夜景がすごく綺麗だったとか、初めて食べたヒレ肉のステーキがおいしかったとか、そういうところから少しずつ積もっていったのかもしれない。
 だんだんと、いつも決まった時間に家を出ないといけないこととか、一日に何人もこなさないといけないこととか、そういうのが気になり出すようになった。いつしか、わたしは立ち止まっていた。どんどん半端になっていく。
 考えたくないのに、考えると自分に飲み込まれてしまう。飲み込まれた先にあるのは闇。

 ああ、本当に、夏は嫌いだ。

 それからしばらく経って、しばらくといっても、どのくらいの時間が過ぎたのかはわからない。外とも中とも言えないベランダが、今のわたしにぴったりだった。部屋に戻るのはなんだか現実に帰ることのようで、戻ったら明日を迎えないといけない気がして、ここから動けずにいた。
 明日が休みでよかった。こんな気分のまま外に出られない。あたりはもう完全に夜の中。ぽつりぽつりと立っている街灯だけがこの町を照らしていた。
 でも、そろそろ部屋に戻らないと。今のわたしはそう、少し疲れているだけだ。夜風で体も冷えた。お風呂に浸かってベッドで休めば、ちゃんと元通りの明日だ。ほら、だんだん眠くなってきている。
 ほとんど同じ体勢でいたせいで、少しでも動かすと体が痛い。軽くストレッチをして、ベランダの窓を開ける。

 その時に、ふとどこかから、蛍が一匹飛んできた。こんなところにめずらしい。蛍は淡い光を放って、ゆらゆらと飛んでいる。なんてことない、ただの虫。おしりがちょっと光るだけの虫。ゆらゆらとベランダの手すりの部分に止まった。その光がなんだか温かくて、このただの虫に見とれていた。
 どこから来たんだろう。どうして来たんだろう。迷子なのだとしたら、わたしと一緒だ。いつからか、どこからか、何かの拍子にはぐれて、世界に一人取り残されたような感覚。この蛍もきっと不安だ、どこにいけばいいかわからないでいるんだ。
 それでも蛍は一生懸命に体を光らせている。まるで自分のことを知らしめるように。暗いベランダを照らしている。

 明るいなあ。
 いいなあ。

 しばらく止まっていた小さな光は、ゆっくりと夜の中を、外の世界をまっすぐ飛んでいった。
 部屋に戻るのを忘れて、わたしは見えなくなったその光の先を、ずっと見ていた。

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