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あさのあつこさんの「バッテリー」を手に取ってしまったが故に

最初にこの本の感想を「痛み」や「疼き」として書き留めるのは、この本の登場人物と作者への私なりの尊重の表現です…が、盛大に貶している「あの人」に余計な事言ったら、息子たちにとって大事な人であっても、私は齧るかもしれません。
……
 私は野球が、本当は嫌い。
テレビの前で野球観戦をしながらだらだらと過ごす人の姿が嫌い。引っ張られて溶けていく私の時間が嫌。よちよち歩きの我が子と共にお散歩に出たのに、我が子に語りかけもせず、我が子に目も向けずに少年野球の試合に目を奪われていた人の姿が嫌い。思い出す度に鮮烈に嫌い。
他所の、しかも児童の、ストライクゾーンにボールが入るのすら、えっちらおっちらで、飛んだボールを拾って投げるのすら、つながったりつながらなかったりする。うちの子ならば、心の寄せようもあろうけれど、知りもしない子の上手くもないだろう試合が…面白いか?と聞いてみたことがある。ひたむきにボールに向かい合ったり、いまいち向かえなかったり、その様が面白いとその人は言った。腕の中の我が子が、風に揺れる木の葉を、落ち葉の下にいる虫を、生えている草を見て一々驚き感動する様には興味ないのですか?物知り初めし感動を共に味わう気はないですか?はぁ…そうですか。
子を抱き上げるときは、体幹を支えてやってください。すぐに、苦しくなって降りたがり、そして、私が抱き上げる事になる。
世を知り初めし感動に疲れ、感情が乱れた我が子と、その感動に付き合うことに疲れ、抱っこに疲れ切った私が、振り返っても、飽きもせず他所の子の野球を見つめる…ただ広いだけの背中がある。疲労にイラッとする。暗転する視野、回る足下。ぐずる我が子。それでも、かまわずに、振り返る事もない。「ママが良いよね」じゃないよ。今でも、思い出すだけで鮮烈にイラッとする。

同じ学生スポーツでありながら、練習場所も指導者もろくに持たず孤独に自分を追い込むしかなかった数多くの競技がある。それを押しのけ、文化部のそれはそれで深く豊かな世界を持つブラスバンド部の予定すら左右して当然のような雰囲気の野球ってスポーツは全く…ほんとに。見ていて胸の奥がざわつく。
あさのあつこの「バッテリー」。この本を手に取った理由はそれでもこの中に、今の私のかわいい息子たちの姿が刻まれているような気がしたから。昔、多分高校の図書館で斜め読みして、その後漫画にアニメに映画化もされた、この名作を今になって手に取ることになったのは、「野球少年の母」という私の今の境遇故のこと。

物語の舞台はおそらく1990年代の岡山県の山間地で私の育った京都府綾部市の四季の風景にも街の規模にも何かぴったりとはまる気配がある。山の色、木々のささやき、風の感覚に身に覚えがあり、短いお話ではないが一気に読み終えた。児童文学でもあるし。
同じ野球と語ってはいけない気がする。30年の時代の隔たりがある。
それに、ここ名古屋には機会も環境も望めば有り余るほどある。毎週末の試合、球数制限、それでも痛める肩や肘。毎回変わるグラウンド、学年毎に区切られたチーム。大人の関わる要素が多く、子ども自身が悩み、自分自身の手で思いを紡ぎ、言葉を編み上げる余裕は、今の環境にあるだろうか?それは、豊かすぎる環境ゆえ?強くなるためには、その方が良い?もちろん、きっとその通り。子どもの「子ども自身が考える道すがら」に寄り添う知識も、時間的な余裕も私にはない。野球という世界、文化、それは大きすぎて、複雑すぎて、どこから手を付けて良いかすら私にはわからない。そもそも、嫌いだし。あの人の、青春時代を野球を、テレビの前で口を開けて眺めて過ごし、口を閉じることすら忘れて貪り、吸収した…その蓄積した知識に勝てるとは思わない。同じように過ごしたいとも思わないし。私には私の紡ぐべきものがあり編み上げるべきものがある。日々の糧を得る仕事も、安全で健康な生活の場を守ることも手が足りず必死なのに。

少年野球のマチズモな文化も本当に大変。少年野球の中で飛び交う言葉は、今の一般から見れば乱暴で、我が子が通う学童保育所では指導員を驚かせ指摘を受けるに至った。声を張った「おい」なんて呼びかけ方、他に聞いたこともない。これでも私は保護者会長なのだが、指摘を受けて心の底から謝った。そして、とても悲しい。狭い名古屋の都心の貧弱な学童保育施設では健康な少年が心を解放してぐっと身体を張るには狭すぎるのだ。情けないけれど。
息子たちは胸いっぱいに空気を吸い込む度に、音を立てるように細胞が膨らみ、分かれていく。おさまりきらないエネルギーを見る。鮮烈に。私の赤ちゃんだった子がいったいどうした?いつも不思議でならない。大きくなる強くなる心と体を乗りこなすその成長の場として、息子たちが望むなら、野球を選ぶのなら、私は何も言えるわけはない。
野球なんてと思いながら…私が息子について行くのは単に、いのちを取られてはたまらないからで、私が何を心配しているのかは近年のこの地域の夏の気温を参照して頂ければ察してもらえるかと思う。
ほんの10分、子どもの不調を見逃せば熱中症は軽症から中等度以上へと容易に進行するし、その気配を見逃さずとらえる為だけに…今の自分は一度脇に置いて、息子について回り始めたのだから。子どもの動きを見ている。いのちを守る為に見ている。日がな一日。
あの人はどれだけ言ってもかわいがりといじめの違いがわからずに子が泣くまで追い詰める人だった。子どもの心と体を守る為に私が止めざるを得ないのを、全部私のせいにされてきた。その場その場の欲望に流されて、やりすぎたりやらなかったりして信用を失って来たのは、自分自身の責任のはず。子どもの状況見て、やっとここまで生かしてきたのは私。いつも、真剣だった。
思春期の子どもが母親を離れていく時に、培った野球の知識と経験で子と新たな絆を結ぶのは、だから、本当に親になるための最後のチャンスで真剣勝負のはずなのだけれど、家の中には緩んだ姿しか落ちていない。
練習をさせたい人が、「やる気がないんか!」と追い詰める。「ミットを買わんぞ。」と追い詰める。本当に辞めて欲しい。愛おしい私の子から心も体も変えてしまうほどの夢中を奪うな。もうすぐ11歳になる少年は間近に迫ったの誕生日プレゼントに新しいミットが欲しいのだ。欲しいものや楽しみにしているイベントをネタに使って子どもをコントロールしようとするのは安易すぎる。過ぎると私みたいに、何が好きで何が嫌いか自分でよくわからない人になってしまう。そしてそれは、家父長という存在が安易な権力を生活の最小単位の場で振るうことを許すトキシックなマチズモの文化故のゆがみであると、フェミニズムは言語化したのではなかったかしら。男尊女卑的社会は女性の社会進出や自立を阻むだけじゃなくて、男性の成長すら阻害し、社会全体の停滞や劣化をすすめる。
…がそんな話をしたかったわけじゃない。
無為で怠惰な一日を怒るなら一旦座り直し、我が身を振り返り、正してからにすればいいのに。椅子は、尻で座るものであって背中で座るものではないのだ。尊大がずれて流れて滑稽な姿になっている。自分が今何をしているか、何をすべきか、客観視できないところ、その幼稚さ。息子のプレーの残念さを指摘するに至らないのではないか?試合中に集中して見るべきところが見られなくて、するべきことができずエラーし失点に結びつくのはそりゃ、親の子だから仕方ない。よちよち歩きの我が子を見ずに少年野球に目を奪われていた件、もう1度でも2度でもねっとり繰り返してやろうか?
またずれた。

小説「バッテリー」は30年前のお話である。完結するまでに10年以上かかっている。
ほんの1年の物語に10年以上かけて丁寧に鮮烈に刻んだ名作だと思う。今はバッテリーというセットで強く見ることはあるのだろうか?野球を通して人間的な成長を期待したり促したり、それは今も変わらないだろう。
当時、孤高の天才ピッチャーと描かれた巧君は、周りの事は一切無視している。自己中心的だし。今なら発達障害って言われるだろうし、その変わった部分を矯正されかねない。小説内の大人も放置しているわけではないようだが。でも、ああいう凸凹のある子もまた、ちゃんと成長する。少年は少年の中で。集団のスポーツには、その力があると、それは確かにそう思う。特に野球という豊かな文化は、きっとそれができるでしょう?
もう一人の主人公の賢くて優しい豪君は、それでも、ずっと揺さぶられている。全く。大変なことです。きっと必要なところまで野球をしきった上で彼は、2023年現在どこかで優しいお医者さんになって、専門医研修を終わって父の病院を継ぎに帰ってきているのかしら。このコロナ禍を思うと胃がキリリとする。

さなぎが羽化する時のパックリと身を裂くような痛みが小説の中にずっと流れている。早春の寒風のように。少年の、その羽化の鮮烈さを丁寧に切り取って苦悩して描写した、そんなお話しのように受け取った。
人の心を上下左右に揺さぶり、否が応でも成長を強いてくる野球というものは悩ましくて、そばで見ているだけでも苦しい。息子の野球について行き見ていると、子どもたちそれぞれが持てる力の全てで、ひたむきにゲームに向かい合ったり、イマイチそれができなかったり、その模索の中で、仲間と出会ったり、ぶつかったり、本当にまぶしいくらいに輝いている。
そして、それを切り取るだけの技術や知識がない自分が本当にふがいない。何が起こったのか、見ていても大抵わからないのだから。表現する言葉も、写真で切り取る技も持ってなくて。
この本を自分が読むのと平行して、息子たちに読み聞かせてみた。巧君のピッチングの表現に合わせて、息子たち二人が足を上げ、踏み込んで美しく腕を振る…この子たちの身体の中には私よりも鮮明に物語を楽しむイメージがある。確かに。

それは、名古屋の中区という土地柄もあろうか?とんでもない贅沢な事だけれど。身に覚えのある人たちが、本当に美しく送球をつないで躍動する様が息子たちの練習の合間に見られる。なんで、あんな場所からあんな球に追いつくの?すぐに無駄のない返球。「生きているような」という言葉の意味がわかるような、生々しいまっすぐな球が飛ぶ。そして…それは綺麗にミットに収まる。目を奪われる。心を持って行かれる。息をするのを忘れる。そして、はたと我に返って振り返る。何あれ?何あれ?何なの?あれ?今の見た?子どもに問うたときには、全ては大体終わっている。そのとき大抵休憩中の子どもたちは、子どもたちの興味と関心と必要の中で忙しくわちゃわちゃとしているのだ。大人も子どもも大変楽しそうなのだ。本当に。安易に私の心を持って行きやがって。
 ぎゅっと心臓を握られたままで、ずっと息苦しい。野球なんて本当に嫌い…。

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