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Are you asking for it?

とあるジャーナリストによる政権批判

▼昨日,この記事がネット上で話題となりました。ジャーナリストの尾中香尚里さんによる記事で,緊急事態宣言の延長を決めた安倍政権に対する痛烈な批判が展開されています。

 政治は結果責任を伴う。緊急事態宣言の発令という大きな政治判断によって、全国民の私権をここまで強く制限した以上「国民に痛みを強いる分、私自身も結果を出す」と宣言し、汗をかくべきだった。自らが定めた「5月6日まで」という期間内に、何らかの目に見える結果を出すべきだった。結果を出せなかったのは「要請を守らない国民のせい」ではない。国民が要請を守れるような施策を準備できなかった政権の側に、より大きな責任があるのだ。
https://this.kiji.is/628873540773004385?c=39546741839462401
 ところがこの政権は、自らの失敗を省みるどころか、その責任を平気で国民に転嫁する。湘南の海に集まる人々や、営業を続けるパチンコ店に焦点を当てて「自粛に応じない」と嘆いてみせる。自省的ではなく、常に他罰的なのだ。
 なるほど、パチンコ店が現在の状況で営業を続けることに疑問を抱く人は少なからずいるだろう。だが、繰り返すが、この問題は「営業を続けるパチンコ店」以上に「パチンコ店が安心して休業できる環境を作れなかった政権」の側が責任を負うべきものだ。
 そうした自省の心は、この政権の誰からも全く感じられない。安倍首相は4月30日、「ある程度の持久戦は覚悟しなければならない」と記者団に語ったが、あえて問いたい。
 誰のせいで持久戦になってしまったのか。自ら決めた「6日まで」を守れず、国民にさらなる痛みを与えることへのおわびの言葉はないのか。
 緊急事態宣言は安倍政権にとって、はなから「国民を統制する手段」でしかなかったふしがある。だから「医療崩壊を防ぐためにPCR検査の件数を増やす」などの「政権がやるべきこと」でなく「外出自粛要請」などの「国民がやるべきこと」ばかりがやたらと強調された。ろくな「見返り」も用意せず、一方的に国民に義務と負担を求め、目標が達成できなければ「国民のせい」と言わんばかり。営業を自粛しないパチンコ店の店名公表(公表の権限は知事にあるが、各知事は政権と緊密に連携をとっている)などは、その最も分かりやすい例だろう。実際、西村経済再生担当相が4月27日の記者会見で、休業に応じないパチンコ店の事例に触れて「罰則を伴う強制力のある仕組みの導入」を検討する考えを示している。
https://this.kiji.is/628873540773004385?c=39546741839462401

▼補償無き自粛要請,法的根拠に欠けた行き当たりばったりの私権制限,PCR検査の準備不足,そして責任回避と責任転嫁…。また,記事には書かれていませんでしたが,不良品や価格や癒着疑惑など問題だらけの「アベノマスク」配布,星野源さんの動画を使った頓珍漢なメッセージ動画など,危機的状況にある人々の神経をこれでもかと逆なでするような,もはや「煽り」としかとれぬ言動の数々もあったためか,この記事をきっかけにTwitterの #安倍はやめろ タグが37万件以上もツイートされています(2020年5月3日2:45時点)。よく暴動が起きないな,と不思議になるくらいです(もちろん,起きてはいけないことですし,暴力的な抗議活動を起こしても事態は何も変わらず,むしろ民衆への締め付けが悪化するばかりで何一つ良いことがないのは過去の歴史が証明していますが…)。

▼確かに,おおもとの原因はコロナウイルスです。その意味で,今の状況は一種の天災でもあります。また,誰がどのような災害の対応をしようとも,多かれ少なかれ不満は生じます。全ての人を完全に納得させる解決策などありえませんし,安倍政権もきっと「全力を尽くしている」のでしょう(結果はともかくとして)。

「すべてコロナのせい」という思考停止からの脱却を

▼しかし,「すべてコロナが悪い」と決めつけてその先を考えないのは罪深き思考停止ですらあります。というのも,ウイルスの広がり方や死亡者の階級格差(特に米国),各種保障/補償に関しては,社会問題,とりわけ政治・経済の仕組みの問題であるからです。

▼ここに,興味深い本があります。

デヴィッド・スタックラー,サンジェイ・バス著,橘 明美,臼井 美子訳『経済政策で人は死ぬか?:公衆衛生学から見た不況対策』(2013=2014),草思社

▼ここに書かれている,2001年にタイで起きた出来事は非常に示唆的です。引用してみます。

  その数年前から、タイはソ連崩壊後のロシアに匹敵するような経済危機に 苦しんでいた。一九九七年以降、タイとその周辺諸国では東アジア通貨・金融危機の影響で貧困率が上昇していたのである。タイ政府は”最後の貸し手”であるIMFの緊急融資に頼ったが、その条件として、医療や社会福祉を含む政府支出の大幅削減を要求された。しかしそのような政策を実施するには最悪のタイミングで、バーツ下落に伴う物価の上昇により多くの人々が困窮し、特にカンチャナブリ周辺の農村・山岳地帯では何十万人もの農民が苦しい生活を強いられていた。このタイミングで政府支出が大幅に削られるということは、国の支援が途絶えることを意味する。そして実際、農民たちはこのままでは飢え死にするしかないという状況に追い込まれた
(デヴィッド・スタックラー,サンジェイ・バス『経済政策で人は死ぬか?:公衆衛生学から見た不況対策』)

▼こうした貧困にあえぐカンチャナブリの村から,バンコクの赤線地帯に身売りされ,売春婦として働かされた女性たちがいました。彼女たちは皆,HIVに感染しており,何年も放置されていたため症状が進んでいました。タイではこうした事例が数多く見られ,1998年ごろからの5年間で肺炎,結核,HIVによる死亡者数が5万人を超えました。この背景にあるのは上の文中の政府による大幅な支出削減です。

▼確かに,ウイルスそのものは天災かもしれません。しかし,今の日本で政権批判が高まっているのは,ウイルス禍が単なる天災ではなく政治・経済の仕組みともかかわる社会問題であるからに他なりません。勿論,先に述べたように,誰が対処しても多かれ少なかれ文句は出ますし,完全な解決策など存在しません。しかし,これまでの経緯がかなり杜撰で場当たり的であることで,信頼が損なわれてきたことは否定できないでしょう。

Are you asking for it?

▼受験生や学生・生徒が被る不利益も,ウイルスによる天災というよりむしろ社会の仕組みによるところが大きいはずです。学費の問題,入試や入学時期の問題などは,ウイルスとは直接関係がありません。たとえば,OECD加盟国の中で日本における教育支出は減少しており,平時ですら教育に割く資金が減少しているのですから,緊急時にいきなりどうにかしろといわれてもどうにもならないのが実情です。たしかに,いきなり全面的にオンライン授業に切り替えるということは想定していなかったでしょうが,日ごろからオンライン授業に向けて予算を組み,機器も充実させ,訓練を行っていれば多少は混乱が避けられたはずです。また,9月入学の話が急浮上していますが,大学についてだけ言えばこれまでにも既に議論されてきていたにもかかわらず,結局,問題を先送りにしていたツケが回ってきた,と言わざるを得ません。一体,過去の議論の蓄積はどこに行ってしまったのでしょうか?

2016 年時点で、一般政府総支出に占める初等から高等教育に対する支出の割合は 7.8%であり、これは OECD 平均を下回っている。2010 年から 2016 年の間に一般政府総支出は増加しているにも関わらず、公財政教育支出は減
少した。
(OECD『図表でみる教育2019年度版』https://www.oecd.org/education/education-at-a-glance/EAG2019_CN_JPN-Japanese.pdf

▼だから,今,教育を受けている全ての若者や子どもが不利益を被らぬように,大人は声をあげる必要があるのです。若い人も「すべてコロナのせいだ」などと言わずに,社会の仕組み,特に政治や経済の仕組みに目を向けてほしいのです。「こんな社会に誰がした?」と問われたら,それは私たちすべての責任です。まさに You're asking for it.(自業自得)なのです。

自粛警察と権威主義的パーソナリティ

▼また,今回の件は,政治・経済といったフォーマルな部分だけでなく,いわゆる「自粛警察」に見られる過剰な同調圧力などの社会心理学的な問題にも深くかかわる問題です。

▼昨日,こんなツイートを見かけました。ある飲食店に対して「営業を自粛せよ」と脅迫にも近い文章を送りつけてきた人物がいたとのことです。

▼戦時中の「特高警察への密告」を彷彿とさせる,実に陰鬱な気持ちになる話です。その時もきっと,こうした「正義感」を振りかざした人々が密告したのでしょう。あるいは,中世の「魔女狩り」も同じだったのではないでしょうか。

▼このツイート以外にも,ルールに従って営業している店舗に対し,誹謗中傷の張り紙や落書きなどの嫌がらせを行うケースが見られます。また,感染者やその家族,さらには医療関係者に対する誹謗中傷・差別も多発しています。

▼社会心理学の用語に「権威主義的パーソナリティ」ということばがあります。ドイツの社会心理学者,エーリッヒ・フロムにより提唱された概念で,権威者への絶対的服従と自己より弱いものに対する攻撃的性格が共生した社会的性格で,強者や権威を無批判に受け入れ,弱者,少数派を憎み,弾圧・排除する性格のことです。フロムはこの性格を,因習主義,反民主主義的性格を持つものとし,サド=マゾヒズムと結びつけました。

▼フロムは著書『自由からの逃走』の中で,ナチスドイツが成立した背景として,人々が「自由」から逃れるメカニズムの一つとしての「権威主義的パーソナリティ」を持っていたからだ,と分析しました。

▼第一次世界大戦が終わり,敗北したドイツは1919年のヴェルサイユ条約によって領土が大幅に削られた上に莫大な賠償金が課されました。その条約に対する民衆の不満をうまく利用して人気を博したのがアドルフ・ヒトラーでした。人々は自ら自由に考え,生きることを放棄し,ヒトラーが提示した「ドイツ民族の大ゲルマン帝国」という物語に飛びついたのです。

▼彼らが行った「ホロコースト」における「ユダヤ人狩り」では,人々の権威主義的パーソナリティが大きな役割を果たしたと言えるでしょう。ナチスの権威に盲従し,ユダヤ人を発見して密告することで権威との一体感を得て,「正義」に酔いしれたのです。これはある種の「承認欲求」とも言えるかもしれません。そして,そのことがもたらした悲劇は先日,ここに記した通りです。

▼「自粛警察」も,まさにこの権威主義的パーソナリティの具現化されたものと言えるでしょう。彼らは「国が自粛しろと言っている」と国の権威との一体感を求め,その「正義」を疑うことなく弱者へと矛先を向けます。感染者やその家族,あるいは医療従事者に対する誹謗中傷や差別も,ウイルスの感染を広げてはならない,という「大義名分」に基づいて「正義」を行使している,と勘違いしていると考えられます。もちろん,ウイルスの感染を広げるべきではありませんが,それならば自粛要請が出ていない飲食店やルールを守って営業している店舗に対して匿名でこそこそと脅迫するのではなく,実名で政府に堂々とその旨を要請すべきでしょう。もっともそれは究極的にはスーパーなどの食料品店を使うことも控え,皆で餓死することを求めることになりかねないのですが。

▼もちろん,こうした人々はごく一部に過ぎないのかもしれませんが,自粛期間が長引くほど,たまった鬱憤の矛先が弱い立場の人々に向けられる可能性が高まります。それを回避するためには,もちろん,ウイルス禍が終息することが最も望ましいことですが,それまでの間に政府が人々に手厚い補償・保障をし,多少不便ではあっても生活に支障が出ないように最大限の配慮をすることが急務でしょう。いくら政府が口頭で「差別してはいけません」と呼び掛けても,残念ながら何の効果も無いのです。

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