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スキーマを広げる(7):ゲーム理論[補足]

※昨日アップした「スキーマを広げる(7):ゲーム理論」をお読みでない方は,お手数ですがまずそちらからお読みください。

「囚人のジレンマ」は「変則的な事態」なのか?

▼「囚人のジレンマ」は,ゲーム理論の中である意味,非常にセンセーショナルなものでした。というのも,「人間が合理的な選択を行えば,集団にとって利益が最大になる(パレート均衡)はずだ」という前提が覆され,個人の利益を最大化すること(ナッシュ均衡)がパレート最適と矛盾する結果になってしまうわけですから。そのため,囚人のジレンマは当初,ゲーム理論の中では変則的な事態として扱われていました。

初めのうちは、個別合理性が社会的合理性に結びつかないのは「なにか変だ」というわけで、囚人のジレンマは変則事態(アノマリー)と考えられた。囚人のジレンマは、ゲーム理論にとっては困った事態だったのである。
竹田茂夫『ゲーム理論を読みとく──戦略的理性の批判』(ちくま文庫),Kindle の位置No.141-143, 筑摩書房,Kindle 版

▼しかし,現実の社会においては,こうした事態は普通に存在するものです。以前,この記事で述べたように,当初意図したことと逆の効果を生み出してしまうことは頻繁に見受けられます。

▼また,民主主義的なプロセスにのっとって投票した結果,ナチスドイツのようなファシズムが生まれたという歴史もあります。

▼そう考えると,「囚人のジレンマ」のように,個別的合理性を追求した結果,社会的合理性が損なわれるという矛盾は,実は社会においては「変則的な事態」どころか「恒常的な事態」である,と考えるべきなのかもしれません。

ゲーム理論が描く人間像の限界

▼しかし,「囚人のジレンマ」というモデルも,非合理的な社会現象のすべてを説明できるわけではありません。また,そもそも,仮に「自分が黙秘して相棒が自白したら自分はより重い罪に問われる」ことがわかっていたとしても,たとえば個人的信条として「どのような罪でも引き受けねばならない」と考えるお人好しだとしたら,「自分=黙秘/相手=自白」という事態だって成立しうるはずですから,囚人のジレンマというモデルそのものが疑問に思われるはずです。

▼むしろ,この「囚人のジレンマ」を含むゲーム理論で想定されている人間の在り方の大前提に問題がある,と考えるべきなのではないでしょうか。ゲーム理論で描かれている人間像は,モデル化のためにきわめて単純化されており,必ず「合理的・理性的な」行動を行う,ということが前提になっています

▼しかし,私たちは必ずしも合理的・理性的に生きているとは限りません。むしろ,合理的・理性的に考えたら説明のつかない行動をとることがしょっちゅうあるはずなのです。酔っぱらって羽目を外す,という行動もそうですし,酔っぱらっていなくとも,「ついカッとなって」「衝動的に」行動をとることは頻繁に見受けられます。

▼この問題はいずれ別のところで詳しく触れることになりますが,「近代」という時代においては,「合理的・理性的」な人間像を前提として物事が進んできました。そして,ゲーム理論で描かれている人間も,まさにそうした合理的・理性的な選択を行う人間像が前提となっています。同時に,非合理的・非理性的な行動は「逸脱」とみなされてきました。

▼しかしながら,この「合理的・理性的な人間像」という前提そのものが間違っているのではないか,と私自身は思うのです。これまで哲学者たちは,人間の「理性」を担保してくれるものを追い求めてきました。しかし,そもそも「理性」なるものの存在こそが幻想ではないか,と考えることが必要なのではないでしょうか。

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