働かないアリに意義がある

「働かないアリに意義がある」という本をご存知だろうか。
巣にいるアリのうち、7割のアリは働いておらず、さらに1割のアリは一生働くことがないことから、社会・集団の構造について迫る本である。

高校、大学いずれのタイミングか忘れたが、新幹線に乗る駅のホームで何となく目についたこの本を手に取り、衝撃を覚えた記憶がある。何故か、それは働いている残りの2割だけで巣を作らせた場合、さらにその中の7割が働かなくなり、1割はその後一生働かないというのだ。つまり、働かないアリは元々働かないような素質な訳ではなく、構造上そうなっているだけなのである。

この本に書かれていることは、私が所属していた大手企業でも似たような現象が起きていた。何をしているのか良くわからない年配の管理職社員、上司の顔色ばかりを伺って、実行系タスクは全て若手に任せる中堅社員、指示がなければ動かない若手など、種類は違えど能動的に動かない、若しくはほぼ仕事と言えることをしない人間が意外にも多数いるのである。これだけ見るとただの企業批判に見えるかもしれないが、冒頭の本の内容と合わせると、これはその本人が悪いだけではないのかもしれないと思えてくる。

唐突ながら、あくまでも私見だが、人には、自分の役割を察知する能力があると私は思う。日本において言えば、少なくとも義務教育を受け、何かしらの集団・社会に所属していたのだから、自分がそこでどういう役割を担っていたのか、ポジションにいたのかは理解しているだろう。

例えば、大人数の飲み会が開かれた際、率先して料理を取り分けたり、皆のお酒の量を気にかけて注文を促すようなタイプの人は、学級委員長タイプだなあと思う。誰かがやらなければいつまで経っても始まらない、若しくは終わらないようなことをまとめ上げ、良い方向に持っていく学級委員長。誤解を恐れずに端的に言うならば、「世話焼き」と言ったところか。決して揶揄している訳ではない。

逆に、飲み会であまり能動的に動かない人は、多数決で大概少数派についている人ではないか。私自身その気質があるのだが、長い物には巻かれることを嫌い、どこか社会や、常識を斜めから見ている人にとっては、料理を取り分けることや人のお酒の量を気にして、注文を促すという、一般的に「気の利く所作」と認められる行為全般は、「全て自分でできること」「誰かに頼らず、個々人で為すべきこと」としてしか映らず、むしろ「そんなことに気を遣い、心をすり減らすことは馬鹿馬鹿しい」と感じることである。

上述の二つの例は、それぞれの特性を褒めるものでも、貶すものでもない。人間が集まり、集団となった時、それぞれがこれまでの経験から無意識に自分を何かの役割に当てはめ、行動を始めているのではないか、という話である。

冒頭に記載したアリの話はあくまでもアリの話であって、知性・理性を持つ人間においては必ずしもその限りではないとは思う。ただ、集団というものの持つ性質において言えば、働き者の割合はたったの2割。残り8割を如何に働かせられるか、知性を持つ人間なのだから、それぞれのバックグラウンドを考慮しつつ、頭を捻って考えていきたい。

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