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ベンゾジアゼピン・コラム - 不確実性と科学性

僕の勤務先の減薬外来を受診される患者さんや、オンライン医療相談を利用して下さるクライアントの中には、過去に(多くの場合は我流で)断薬を試みたが失敗に終わった経験を持っている方々が少なくない。
そうした患者さんやクライアントと話していると、彼らが「必ず成功する断薬法」や「絶対に失敗しない薬の止め方」を所望しているように感じることがある。「絶対に~」や「~としか考えられない」は頻出フレーズだ。
断薬前の心身の不調は「絶対に」ベンゾジアゼピンの"常用量離脱"のためで、断薬後の不調は離脱症状「としか考えられない」。
ベンゾジアゼピンの明らかな不適切処方を延々と受けられていた患者さん・クライアントもおられるので気持ちはわかるのだが、そうした「0か100か」の思考法は、医学との相性が必ずしも良くない。

医療用医薬品であるベンゾジアゼピン受容体作動薬を服用していたということは、何らかの心身の不調があって医療機関を受診したということだ。その不調が十分に改善していない時期にベンゾジアゼピンを減らし始めてしまったのかもしれないし、ベンゾジアゼピンを止めたことで原疾患が再燃したのかもしれない。可能性の大小は個々で異なるだろうが、ベンゾジアゼピン断薬前後の不調を説明する他の理由がありうることは常に心に留め置くべきだろう。

いくつかの可能性を利用できる限りの根拠に基づいて選り分けて、患者さんが置かれている環境を評価し、ベンゾジアゼピンの服用を継続する必要性が低く、断薬の利が服薬の害を上回る状態である可能性が十分に高いと結論づけられた場合に、減断薬は開始されるべきだ。
そして「絶対に」断薬しても大丈夫なタイミングも、「必ず」誰もが成功する断薬法も知られていない(それらが「絶対に」存在しないと断言することはもちろんしない)。
減断薬に限らず、医療行為にはどうしても不確実性がつきまとうものであり、それは時に患者さんにとって酷なことだ。

「医者をほんとうに信頼することができないのに、しかも医者なしではやって行けないところに人間の大きな悩みがあります」(高橋健二編訳:ゲーテ格言集.新潮文庫、東京、1807:142)

【医師の基本的責務】A-7.医学・医療の不確実性と医の倫理

その不確実性に耐えられない当事者の一部が、「(教義に帰依すれば)必ず断薬できる」と説くSNS上のコミュニティや宗教、代替医療に惹かれるのはありそうなことだし、自己責任で収められるのであれば現世利益はあるのかもしれない(し、百害あって一利も無いかもしれない)。

そもそもがエビデンスに乏しい非科学的な精神科薬物療法――ベンゾジアゼピンの多剤 and/or 高用量 and/or 漫然投与によって依存や離脱症状に苦しむことになった当事者が、より非科学的な手法に救いを求めるのは悲劇でしかないと僕は思う。
だが真っ当な医療者にできることは、断薬の成功確率を少しでも高めるための情報を発信し、科学的妥当性が高い減断薬法を提供することに限られる。その範を超えて全ての人のニーズに応えることは、現実的には難しい。

患者さん一人ひとりの状況やニーズは異なり、断薬への道程は単純ではない。多くの場合、減断薬は様々な要素を考慮しながら慎重に進める必要がある。このような状況における医療者の役割は、個々の患者さんの状況を理解し、科学的根拠に基づいた効果的な治療方針を提示することだろう。
安っぽい共感や「寄り添う態度」と言った感情的な支援よりも、客観的かつ専門的なアプローチを通じて、それを受け入れてくれる患者さんやクライアントの問題を解決へを近づけるための援助を行うことが医療者に求められる対応であると僕は考えている。

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