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ベンゾジアゼピン・コラム - 当事者性を失った彼らを見て思うこと [Free full text]

ワクチン(それがどのような感染症のためのワクチンであるにせよ)に関する意見や立場は人それぞれ異なります。このコラムの主旨は「反ワクチン」という主張を批判することではなく、情報発信の背景や「当事者性」の有無、そしてインターネットを通じた情報収集の難しさに関する私見を整理することです。

コロナ禍以降、従来ベンゾジアゼピンに関する情報発信を行っていたTwitter(現X)アカウントの一部が、反ワクチンの立場でワクチンの副反応や後遺症、利権問題などについて情報発信するのを目にするようになりました。

彼らはそれぞれの「ベンゾ時代」においては、自らがベンゾジアゼピンの離脱症状や医療者の無理解に直面する当事者であり、それを乗り越えるための情報をインターネットで集め、また自らの経験を基にベンゾジアゼピンに関する情報発信を行っていました。「自分でベンゾを飲んだことがない医者にこの苦しみは理解できない」という立場からの発言によって、「ベンゾジアゼピン・アカウント」は彼らのコミュニティ内で非常に大きな共感を得ることができていたし、その情報発信はリアリティと説得力を持っているように見えました。

しかし、ワクチンに関する情報発信にシフトした「ワク時代」の彼らの立場は、おそらく彼ら自身は気づいてはいませんが、「ベンゾ時代」のそれとは大きく異なっています。
反ワクチンのスタンスをとる彼らはワクチンを接種していないわけで、当然ながら副反応も後遺症も経験していません。
にも拘わらず彼らは「ベンゾ時代」のスタイルそのままにワクチンのリスクや問題点についての情報を発信しています。ワクチンに関する実体験を有さない彼らは、それを埋め合わせるために、アクセスが容易なオンラインメディアから、その真偽や背景を深く検討することなく情報を収集し、それを元にした発信を行っているように見受けられます。

彼らは今度は自分たちが「ワクチンを打っていないあなたに副反応や後遺症の苦しみは理解できませんよね」と言われる立場となっているのですが、そのことに気づいていないか、あるいはそれを深く受け止めることができていないようです。「ワク時代」になって彼らが発信する情報から当事者性が失われたことで、彼らの情報収集と咀嚼の拙さが露わになり、そのことでまた「ベンゾ時代」に彼らが発信していた情報の信頼性までもが疑問視されるようになってしまっているように、僕には思われます。

この変化から、情報の取得や発信、その背景にある「当事者性」の有無の関係について、大いに考えさせられるものがあります。ネット上には情報が溢れており、その中から正確で有益な情報を取捨選択することは容易ではありません。
彼らがワクチンに関する自らの情報発信の引用元とするのがもっぱらYouTubeやWikipedia、あるいは他の反ワクチン活動家のツイートやコラムであるのは興味深いところです。
もとより彼らは医療者ではなく、医学的知識についてエビデンスレベルが高い情報にアクセスし、そこからサイエンティフィックな理論を構築するスキルを持っているわけではありません。そのために彼らの「反ワクチン理論」は底が浅く、「どこかで見た・聞いた」ことがある二次情報・三次情報でしかないことがほとんどのようです。
してみると「ベンゾ時代」に彼らが行っていた情報収集や情報発信も実はそのレベルのものであったのだということに、妙に納得させられてしまいます。彼らが発信していた情報の説得力は、当事者性によって下駄を履かされていたということでしょう。

繰り返しになりますが、このコラムの趣旨は反「反ワクチン」ではありません。反ベンゾジアゼピンアカウントの一部が反ワクチンアカウントに移行するのに伴い当事者性を失うことで顕わになった彼らの情報発信の内容から、インターネットを用いた情報収集の難しさについて思いを馳せた次第です。

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