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歴史の終わりと中世の終焉

現代の国学
「やまとこころ」と近代理念の一致について
第一章
人間と宗教と啓蒙の歴史

歴史の終わりと中世の終焉

 

ドイツ史を見直していけば自明なことであるが、日本と似ているのはプロイセンであって、ドイツではない。ドイツが日本と似ている点は、自動車の性能を追求する姿勢くらいだろう。日産のスカイラインGTRはポルシェ 911 Turboをライバルとして、そこから多くを学び、その上で走りの機能美を磨いてきた科学技術的な文化作品である。

だが、明治憲法はプロイセンに学んだものであってドイツに学んだものではない。明治時代の日本には「東洋のプロイセン」という言霊が存在していたが、藩閥政府は「東洋のドイツ」などとは自称していない。

ドイツが日本と似ているといったこの間違った言説は、ナチスが日本を政治利用するために広めたプロパガンダなのだろうか? なんであれ、日本はプロイセンに学んで近代化に成功したが、ドイツと同盟を結んだ結果として破滅を迎えることになったということが歴史的な事実である。

そもそも、日本においては政治家が宗教を利用したことがあっても、ドイツのように神官が政治そのものを牛耳れた時期は殆ど存在しない。寺社勢力は朝廷や幕府に統制される側の立場であったことが殆どであって、時の中央政府に政治権力として割り込める程には強くなかった。それが故に、神聖ローマ帝国の「カノッサの屈辱」のように、政府よりも宗教指導者が政治的な力を示すこと事件が日本には殆ど存在しない。

更に言ってしまえば、仏教や神道はキリスト教のように観念的真理を求めることもなければ、政教一致を強硬に唱えるような宗教でもない。仏教はその開祖が王家からの家出を試みたのだから、政治から遠くてもそれは当然のことだ。とはいえ、戦国時代の本願寺や現代のミャンマーのような例外も存在してはいる。

古代日本においては政祭一致というものが存在していたとしても、それは一神教の政教一致社会と同一視する事は不可能だろう。国家神道というものも所詮は官製の神話であって、維新の元老が天皇制を政治的に利用するために作ったものでしかない。事実として、この官製の神話を作る際に古神道の伝統が破壊されてしまったと南方熊楠は批判している。結局のところ、日本では政治は常に宗教よりも優位な立場に存在していたのであって、日本の文化は近代文明に繋がる素質を有していたと言えよう。

一方で、ドイツでは国家を成立させるだけの世俗的な感性と知的な文化が存在せず、妄想を愛する彼等は実体への認識を共有できないが故に、常に分断状態という様であった。人種や宗教への信仰、民族主義という疑似宗教、観念的なイデオロギーは跳梁跋扈する様であって、こうしたヴァーチャリズムを使って国家擬きを作ろうとした結果として、ナチスドイツという全体主義社会が生まれたのだ。

現代のドイツが中華と友好的であるのは、どちらも「上に倣え」の権威主義を徹底的に好んでいるが故にだろう。「各人には各人のものを」がプロイセンの標語であったが、ヴィルヘルム二世のドイツ帝国は民族主義であって、そしてナチスが取った政策は「強制的同一化」という全体主義であった。

現代EUの惨状について叙述した、「ドイツ帝国が世界を滅ぼす」というエマニュエル・トッドの著書が流行したことは記憶に新しい。だが、彼は、権威と権力、平等と公平、野放図な無法地帯と自由な法治国家の区別がついているのか極めて疑わしいと筆者は考えている。ノルマン的権力主義とゲルマン的権威主義は、誰がどう見ても別物なのだ。

現在でも一次大戦でも二次大戦でもドイツには国家主義など存在しておらず、法治と有形力を重んじる帝国という統治体系が彼等に存在するはずもないのだから、「ドイツ宗教が世界を滅ぼす」という表現の方が適切であると言えよう。神聖ローマ帝国は「宗教的であっても、ローマ的でなく、帝国ですらなかった」のだし、ドイツ帝国もその名に反してドイツ的ではなかった。通貨をマルクからユーロに切り替えることによって、彼等はビスマルクの現実政治を完全に放棄してしまったのだろうが、勤労カルヴィニズムというドイツ宗教は、ドイツ以外の場所でも広く信仰されているものであることを忘れてはならない。

ドイツ宗教の一種であるナチズムは、National Socialismの略語であり、国家社会主義を示す言葉とされている。だが、ナチスにはローマ帝国のような国家主義が殆ど存在せず、その代わりに民族主義が存在していた。その上、Nationとは国家制度というよりも民族文化を示す言葉なのだから、ナチズムは国家社会主義ではなくて、「民族社会主義」と訳すべきである。だが、宗教的誇大妄想に狂った野蛮人達には、社会と呼ぶべきものや文化と呼べるものが存在しないことも確かだ。

実は、ビスマルクの政策はState Socialismと呼ばれているが、こちらが国家社会主義と訳すべき言葉である。死んだ文字ではなく生きた音で考えないならば、言霊を見失うだけだろう。

「飴と鞭」という言葉はビスマルク時代を示すものとして有名であるが、ナチスの統治は「阿保と無知」であることは疑いようがない事実だろう。ビスマルクは社会主義政策を取りながらも在野の社会主義者達を抑圧したと評価されるが、彼が抑圧した社会主義運動家の末裔が民族社会主義のナチスであったということなのだ。ビスマルクの大きな政府は国家の繁栄を目的としたものだが、ヒトラーの大きな聖堂はゲルマン民族以外の弾圧を目的としたものに過ぎない。

国家とは左右の政治思想や民族・人種を超えて、統合と融和を果たす人間の世俗的な集合体であって、本質的には国家主義と民族主義とは全く別のものだ。国家主義においては「法の下の平等」が一定以上には存在するが、民族主義では「内か外か」が基本的なスタンスとなる。

最初に融和という基盤が存在する国家主義においては、国家の外との融和である国際協調も成立しうるし、在留外国人の権利も保証し得る。だが、そもそもが内向きで排他的な民族主義においては、国際協調を成立させることは徹底的に難しい。

現代アメリカのグローバリズムも自分達の宗教だけを肯定する思想であって、これはモンロー主義以上に自分達以外を無視する妄想観念でしかない。グローバリズムというイデオロギーは、市場原理主義を狂信することによって世界中の国家を否定するものであって、これは国際協調主義の対極なのだ。

市場原理主義の中核には神の見えざる手という観念が存在するが、これは政府の介入なく運命的に全てが上手くいくという信仰である。実は、神の見えざる手という観念は、アダム・スミスが運命予定説から派生的に造り出したという説が存在していて、これが事実ならば市場原理主義の起源は本当に宗教であったというわけだ。

新自由主義のフリードリヒ・ハイエクもグローバリズムに強い影響を与えた人物であるが、彼がヒトラーと同郷の出身であった事実は注目に値する。国家権力の実体を否定して政府を捨てろと唱えるグローバリズムは、極めてアナーキズム的なイデオロギーであって、ピューリタンによる革命騒動と完全に同じものだ。そもそも、世間で自由主義と呼ばれるものの大部分は、野放図を肯定するだけの無法であって、ルネサンスの人間主義からは程遠いものが殆どでしかないが…

現代においては、イスラム過激派が国家や世俗法よりも宗教を重んじると言われるが、少し前にはプロテスタントの過激派こそがこうした存在であって、現在では市場原理主義という形でその革命運動が継続している。こうした歴史を考えれば、アメリカ人が唱える自由とは、法律を否定するための道徳でしかないのだろう。

実体的な法治がイデオロギーや宗教によって破壊されることは、公共社会の破滅以外の何物でもない。宗教やイデオロギーに走ると人間はどこまでも現実を無視する行動を選ぶものであって、一応は世俗派であったイラクのフセイン大統領がどう考えていたかはわからないが、アメリカのブッシュ前大統領はイラク戦争が十字軍戦争であると発言していた。彼は、民主主義のために戦争を遂行したのではなく、単に勤労カルヴィニズムの信仰に突き動かされただけだったのだろう。

そして、結論から言ってしまえば、イラクはアメリカにとっては異教徒であったとしても利害関係上の敵でもなんでもなく、十字軍らしく戦争は完璧に失敗に終わった。戦略なき意思決定を押し通し、目的も持たずに気分で国家の軍隊を動かすことにしたブッシュ大統領は、民主制権威主義を重んじる敬虔な信者であったが、彼には民主主義を守るつもりなどは存在していなかったと言える。このプレッツェルに殺されかけた男には、経済政策においても見るべき点がまるでなく、正直なところ現在のアメリカの問題の多くは彼の愚かさに由来しているのだ。

ブッシュ大統領はその名の通りに藪をつついて蛇を出しただけであって、イラクに存在していたのは大量破壊兵器ではなくてフセイン大統領に抑圧されていたイスラム原理主義者達であった。といっても非白人のイスラム原理主義達は人間扱いされず、あくまで兵器に分類されるのであれば、イラクに大量の破壊兵器が存在していたとも言えなくはない。

昨今のヨーロッパの難民も、元を突き詰めればイラクの崩壊にその原因が存在している。難民問題の根源はアメリカの十字軍に由来するが、問題の原因のアメリカも問題の結果となるドイツもプロテスタントが主流である点は同じなのだ。教典至上主義と政教一致を唱えるプロテスタントは、現実実体よりも宗教観念を優先するために、実体を無視して社会の破滅を引き起こす。

そして、アメリカにおいては誤射をしようが神を信じていれば全て上手くいくという思考停止が根強いため、どんな社会問題も当然のように無視される。運が悪かった者は選民でなかったとされるだけであって、信仰に篤い彼等は社会福祉に不熱心なのだ。

ドイツ人もアメリカ人も常に強迫観念に苛まれて、道徳的正当化と権威への迎合を繰り返し続けている。それは、自らが問題解決に挑みに行くことではなくて、単に自らが救われたいということしか考えられないが故にだ。

「自らが正しい存在である」という思い込みによってでは、実体に基づいた意見を構築することも、反省することすらも、絶対に不可能な状態に陥る。彼等のように権威に承認されることを求める小心は、己に信を持つ英雄の心性から最も遠い。

アメリカ人が抱いているのは揚々たる英雄願望ではなくて陰鬱なる選民願望でしかなく、ナチスに同調したドイツ人であっても本当の英雄とは最も遠いところにいる存在でしかなかった。愚かなアメリカ人も軟弱なドイツ人も、権威と権力を疑う独立自尊の英雄的精神をまるで持っていないのだから、蒙昧による統治と権威による支配以外を何も成立させることが出来ない。知性を尊ぶヴァイキングの王や気概を重んじるプロイセンの哲学者とは、彼等は同じ肌の色をしていても完全に別の存在だろう。

アメリカやドイツのように自己正当化に自己正当化の上塗りを重ねることは、実体へのアンガージュマンを拒絶するだけの臆病でしかない。客観性、中立性、公平性、実体性、といった公共判断の軸を持たないドイツやアメリカは、観念と気分と印象と権威主義的な迎合で選択を決めることになる。彼等は自らの欲望と権威に怒られるかどうか以外の基準を持っておらず、まるで赤ん坊そっくりだ。

教科書的にはアメリカには政教分離が存在するとされているが、勤労カルヴィニズムに基づいて成立したアメリカは、実体としてはソ連以上の政教一致のイデオロギー国家でしかない。トランプ前大統領は聖書を片手に「法と秩序」という言葉を述べていたが、現代においてもアメリカでは政治とキリスト教は当然のように結びつけられる。彼はその任期の最後に選挙の結果を破壊することを試みたが、この「法と秩序」という言葉は世俗法を意味するものではなくて、神権政治の「勝てば選民」を意味するものであったのだろう。

バイデン大統領であっても就任式のスピーチは宗教的なものであって、アメリカには政治と宗教が不可分という社会構造が存在している。とはいえ、バイデン大統領はカトリック教徒であって、彼はアメリカの白人としては主流派ではない。

トランプ前大統領の場合は、ドイツ系移民でカルヴァン派でもあって、アメリカ白人の主流派のグループに入る。そして、彼の父親はKKKのメンバーであったという背景を持っているが故に、前大統領がナチズムと無縁でなかったとしても何ら不思議なことはない。

トランプ前大統領は拝金主義者であって、自らが所属する宗教的なセクト集団以外は信用せず、その外とは協力しない内向性を持っていて、勤労カルヴィニズムの性質を完全に体現していることは間違いがない。今回の議事堂への侵入事件というものも、一九二三年のヒトラーのミュンヘン一揆の模倣なのだろうか? 

ちなみに、トランプ前大統領に巨額の融資を行っていたのは、ナチスに協力したことで有名なドイツ銀行である。この銀行は、不祥事の多さにかけてはトランプ前大統領よりも有名だろう。彼等のような自分に都合が悪い事実を認知することが出来ないロマン主義者の行動は、理想主義を否定するゲルマン民族の性質が可視化されたものでしかない。

だが、筆者とは異なってチビであるナチス総統よりは、筆者とは異なって金髪であるトランプ前大統領の方が、ナチスが喧伝したゲルマン民族の容姿に適うことは確かだろう。実は、ドイツのメルケル前首相であっても、大衆迎合とプロテスタンティズムを好んだ点においてはトランプ前大統領と同じ政策をとっていた。このドケチな権威主義者達は兄妹のように似た顔をしていて、顔全体の輪郭は異なっていても、鼻や顎の形はそっくりである。大衆迎合を行ったプロテスタント教祖のルターの似顔絵も、トランプ前大統領やメルケル前首相と似た部分がかなり多いが、やはりゲルマン民族の血は争えないということなのだろうか? 

現代のドイツやアメリカだけではなくて、ルネサンス期のスウェーデンやイギリスにも、プロテスタントの影響が存在していたことは歴史的な事実である。だが、スウェーデンやイギリスでは、政府が政治的にプロテスタントを利用してバチカンの影響力を国家から排除しただけであって、これらの国家の宗教改革では宗教自体が目的とされなかった。

これらの国家では、宗教の影響を排除することによって国家権力が強くなると、農奴解放を実行する等をして国民の平等を保障する動きが発生した。キリスト教の下では世俗の平等という価値は実現し得なかったが、国家権力の下の平等は段階的に成立していったのだ。ルネサンスの影響を強く受けたイギリスやスウェーデンが国教を変えようとも宗教的な価値観が大きく変化したということはなく、これらの国家の宗教改革は単なる政争以上の何物でもなかった。

我々は、ノルマン的権力主義とゲルマン的権威主義は、根本的に別の価値観であることを見抜かなければならない。イギリスとスウェーデンがヨーロッパ最初の近代国家であると言えるが、プロテスタントは看板であって、中身はルネサンスの国家主義であったわけだ。

明治日本も国家神道という官製の宗教擬きを作ったが、これはイギリスやスウェーデンと同じような政策であったと言える。更に付け加えておくと、プロイセンのビスマルクも宗教を利用することがあったが、それは完全に政治を目的としたものであった。

こうした歴史故に、イギリスやスウェーデンのプロテスタントの信者達はバチカンという権威の統制ではなく国家という権力に帰属することになった。この動きは国家への義務意識を生みだして、そこから民主主義へと繋がることになった。

しかし、ヨーロッパには国家に統制されることを拒否したプロテスタントの熱心な過激派達も存在していた。アメリカとは、そうした過激派達がヨーロッパから実質的に放逐され、そしてその過激派達がネイティブ・アメリカン達をこの世から物理的に追放することによって成立した社会である。

アメリカの歴史を考えると、日本の憲法が国家と民主主義の防衛ではなくて、アメリカの勤労カルヴィニズムの十字軍のために改正される可能性があるということを危惧しなければならない。といっても、単に護憲を訴えるだけというのも、法律を戒律と考えて神聖視するだけの信仰である。

日米同盟というものは勢力均衡を意識した政治的功利性のためのものなのか、政治家の保身のためのものであるのかを考えるべきだろう。功利性を抜きにして、友好自体を信仰することは宗教そのものでしかない。筆者はアメリカと同盟を結ぶことには意義が有り得るとは考えているが、トランプ前大統領と同盟を結ぶことには有害性しかないように思っている。

そもそも、国家どころか人間個々人の関係においても群れるだけの友情には価値がなく、個々人が公共判断を行う意思によって成立する協働にこそ究極の意味が存在している。日本の政治家達が、日本を統治する国家意識よりもアメリカへの同化と迎合を重んじたり、それどころかアメリカ人への恋慕によって日米同盟が成立しているというなら、彼等は政治家というよりも宦官でしかないと言えよう。

この日米同盟というものは、日英同盟程に有益であったようには思えないが、そもそもトランプ政権時代のアメリカはQuadの集団安全保障にも興味を持っていなかった。功利主義に基づいた日米同盟を機能させ、世界の民主主義を守るというならば、日米豪印だけではなくて、イギリスの力も必要となるだろう。

アメリカ人がどう考えようとも、そのうちに中華は一国で世界を制圧出来る程の力をつけるかも知れないが、アメリカは一国で世界を制圧出来る程には強くはない。強者の中華が同盟戦略を重視する中で、弱者のアメリカが同盟戦略を軽視するのは、喜劇としてもつまらないものだ。

実は、冷戦における強者であったソ連に対して弱者のアメリカが勝てたのは、ソ連も世界を相手に戦える程には強くなかったが故にである。レーガン大統領の「強いアメリカ」とは、単純な国力よりも、外交における強かさであったことを忘れてはならない。

仲を悪くする理由がない限りは仲良くしておくという関係は、利益を生み出す外交の基本である。だが、マウンティングを好む権威主義者達は騙し合いに慣れ過ぎて人間不信に陥っているが故に、仲良くしておく理由がない限りは仲互いしておくという選択を好む。

二次大戦後のイギリスが賢明だったのは、自らの力の縮小をアメリカによって埋め合わせることを考えられた点である。現代のドイツの外交は、EUを繁栄させることではなくドイツを利することしか考えていないものであって、見習うべき点はないと言っていい。

アメリカがどう考えようとも、近代民主主義国家の間で国際協調を造らない限り、世界は権威主義が支配することになるだろう。技術開発競争において、西側先進国の連帯を活かさない限り、アメリカは中華に屈服することになる。米ソの冷戦は終わったが、そもそも世界が民主主義となったわけでもないし、権威主義国家は冷戦中よりも随分と増えてしまったのが世界の現実だ。

実は、ナチスは日本よりも中華の国民党と同盟を結びたがっていた歴史を持っているが、ドイツと中華の同盟は現代に至ってとうとう現実となってしまった。民主主義と権威主義の戦いは米ソ冷戦の終結によって終わったわけではなく、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」などは単なる誤解でしかなかったと言えよう。そもそも、筆者は世界の全てに民主主義が普及したとしても、それは「歴史の終わり」などではなくて、「中世の終焉」といった程度のものでしかない。コロナ以後はコロナ以前と比べて人間の生活が劣化したように、宗教以後は宗教以前よりも人間の思考が劣化してしまったが、最大の問題は宗教に対する完全な免疫が未だに存在していないことだ。

現時点のアメリカの同盟政策は、他者と実体を認めずにアメリカの観念を押し付けるだけのものであって、彼等はこのままでは世界からの支持を失い続けていくだろう。お互いに信用できない関係性においては、裏切られるよりも先に裏切った方が得なのだから、アメリカが同盟を重んじるなどとは考えてはならない。

だが何よりも、力がないところでは人間の自由が守られることはなく、そして国家主義がないところにまともな軍隊が存在出来るわけがない。民主主義ではなくて人種主義によって成立する軍隊は、交戦ではなくて略奪と虐殺を主要な仕事とするだけの賊徒の集団以上には成り得ない。日本が武装するのは、日本と世界の民主主義を目的とするべきであって、白人至上主義的な世界観に基づいた殺戮のためのものであってはならない。

日本が見習うべきはアメリカの白人至上主義ではなくて、スウェーデンの独立精神に基づいた外交戦略とイギリスのバトルオブブリテンにおける防衛戦術だろう。後の先で上を取ったイギリス空軍に対して、ナチスドイツは数の有利を活かすことが出来なかったのだ。

「同盟においては、馬となるよりも騎手たるべし」とは、洗練された外交能力を発揮したビスマルクの格言である。日本はプロイセン王国の現実政治を見習って、同盟構築の主導権を握るべきであり、英仏を意識した民主主義の連帯を創り上げ、日独伊三国同盟の汚名を返上するべきだ。アメリカは歴史的には殆ど間違った外交能力しか発揮してこなかったのだから、彼等に世界戦略を任せてはならない。日本の真の独立には、国家を守るための独自の有形力のみならず、近代民主主義国家の同盟を主導するための哲学が必要なのだ。

国際政治のリアリズムを放棄して、アメリカの十字軍的な戦争をアメリカ追従という権威主義によって肯定するのであれば、同時にアメリカの白人至上主義も肯定することになってしまう。アメリカには二次大戦中には敵国からの移民であっても白人は収容所に入れなかったという歴史的事実が存在するが、一方で国連に人種差別撤廃を最初に訴えたのは日本である。ナチスのニュルンベルク法はアメリカの人種法を参考に設立されたものであったし、公民権運動が起きたのは二次大戦後のことだ。アメリカを善として妄信し、日本を悪として信仰する戦後日本人は、選民思想を肯定する人種差別主義者でしかないが、彼等は白人でもない癖に「白人であれば神に選ばれていて全てが正しい」と考えて世界の民主主義を破壊しているのだ。

トランプ大統領によってアメリカの偉大さが復興されるならば、次の戦争では核兵器や枯葉剤ではなく、どの様な兵器が実戦投入されるかという点において極めて興味が深い。おそらくはサイバー攻撃やコロナウィルスよりも、更に強力な新兵器が同時に併用されることになるだろう。

最新の遺伝子組み換え技術を使えば、特定の人種、特定の地域、特定の季節にだけ流行するように制御されたウィルス兵器を創ることも夢物語ではない。複数のウィルスが互いの殺傷力を高め合うように設計することも出来るし、そうしたウィルスに対してあらかじめワクチンを用意しておくことも可能なことだ。特定の人種にだけ免疫力を落とすタンパク質を製造する蚊を秘密裏にばら撒けば、ウィルス兵器の効力は更に高まることになる。だが、非致死性の細菌やウィルスでも、敵を無力化するには十分であることは確かだ。

物理的な衝撃による即効性の攻撃、生物化学的な遅効性かつ継続性の攻撃、電子的な妨害を使ったインフラシステムへの攻撃、これらを複合的に併用する先制攻撃を成功させれば、どんな敵国が相手でも最初の攻撃で継戦能力のほぼ全てを壊滅させることが出来る。敵が残存兵力を搔き集めて戦闘システムを再構築する前に、構造と機能を完全に破壊し尽くすことが可能なのだ。とはいえ、現在の米軍のコロナ対策を見ている限りは、彼等は細菌戦を遂行するだけの能力を有しているように思えないが…

焼夷弾に枯葉剤、放射性廃棄物をまき散らす様々な銃弾爆弾砲弾の野放図な使用によって、息が出来ない世界を創り出すことがアメリカの伝統である。権威主義的なカルヴァンは火炙り処刑を行っていたが、火炙りによる死因も焼死というよりは窒息死だ。他者を窒息させることによって自らの優越選民性を証明することがカルヴァン主義の信仰であって、アメリカもカルヴァンに倣っているだけなのかも知れない。

こうしたものは目的のために犠牲を出すというよりも殺戮のための殺戮であって、つまりは非権威の下を痛めつけるための力であり、敵を殺す能力であると言えるかは相当に怪しい。何の目的もない無法の力に奢るだけの自己顕示欲では、他者の心情も困窮者の境遇も実体の構造も理解できる由もなく、それでは結果の創造など出来るわけもない。

実体をただ恐れて拒絶して、妄想的に自己肯定を行うために観念世界に自閉するという点において、勤労カルヴィニズムとドイツロマン主義はディズニーと同じようなピーターパン・シンドロームであり、これらは幼稚なだけの幻夢である。ディズニーは白人至上主義者であったとされるが、この点はヒトラーとの共通項であった。ディズニーは幻夢に基づいてディズニーランドを造ったが、ヒトラーのナチスドイツは悪夢そのものだろう。

実体に基づいた芸術家はエンジニアとなりうるが、観念に取り憑かれた彼等達は宗教家になることしか不可能だ。現代日本のオタク達も、子どものままで居ることへの信仰しているようにしか見えないが、この信仰の源流は実はアメリカやドイツに存在している。

カート・アンダーセンの「ファンタジーランド」でも指摘されているが、金と嘘に基づいて国を構築するならば、ソ連どころかディズニーランド以上に夢想的な観念化社会にしか成り得ない。産業革命を起こしたイギリスは「ルネサンスの理念と資本主義の功利」であったが、アメリカのグローバリズムは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義への信仰」という「空想的資本主義」であり、そしてドイツのナチズムは「プロテスタンティズムの倫理と全体主義の精神」である。イギリスは資本主義の成長と共に社会主義運動も勃興した国であって、単純な選民思想的な格差社会の国であるとまでは言えない。

アメリカンドリームと呼ばれている妄想の実体は、個人の経済的成功や地位の獲得、つまりは金と見栄だけを目指すだけのミーイズムに過ぎず、公共の繁栄を目的とする類のものではなく、単なる「空想的資本主義」に過ぎない。これは、単に自分がお金持ちになりたいという幼児が持つような願望であって、大人が持つべき公共への義務といった価値観は含まれていない。

アメリカンドリームであってもドイツロマン主義であっても、近代啓蒙思想からは最も遠いだけの妄想観念であって、これらは理想主義や実体的な美意識ではなく単なる欲望であり、「自らが全てにおいて正しい」という狂信でもあって、子どものままでいることへの執着でしかないのだ。

このアメリカンドリームは、勤労カルヴィニズムの選民思想の延長であるのだから、「空想的選民思想」と呼んでも問題はない。他人を救うことを考えず、自分だけが救われることを考え、選民思想を信じ、利権の独占と保身に全力を尽くす、拝金主義の冷血な富豪こそがアメリカンヒーローの実像である。トランプ前大統領やヒトラーは、民衆を豊かにすることには興味を持っていないが、彼等はそれが出来ると大衆に思い込ませる嘘を吹聴することによって、支持率を獲得していることは言うまでもないだろう。

彼等は治安を成立させるためではなくて、言論の自由を弾圧するために有形力を恣意的に用いることを、何よりも愛している。詐術によって個人利益をあげることが、公共性が一切において欠如した彼等の人生の全てであるが、嘘の愛情によって銭を儲ける彼等の事業は、まさに売春そのものである。彼等には公共判断を成し遂げる意思は一切に存在せず、人を騙す虚飾こそが人間の唯一の取り柄であると考えて居るのだろう。

トランプ前大統領やヒトラーを見る限り、ゲルマン民族は他者を騙しているということを自覚出来ない点において、真の意味での詐欺の天才であると言うことが出来る。だが、他人を騙していることを自覚出来ない程に愚かな彼等彼女等は、それは自らを騙していることを自覚できていないに過ぎない。こうした認知不全症こそが、ロマン主義や観念論といったゲルマン的キレイゴトを生み出し続ける要因であるのは、説明不要のことであろう。

演技を行うのであらば、造作することに全力を懸けるべきであるが、それすらにも真摯さと熱が足りていないというのが、ナチス総統やアメリカ前大統領の腑抜けた部分である。噓と逃避のゲルマン民族には、何事にも本気を出すことなど不可能であるということなのだろうか? 

蓄財を重んじる彼等は、商売で取り扱うべき内容についてはまるで無知であるが、一方で儲かるかどうかについては研究熱心であって、そうしたソフィスト的な態度がマーケティング手法というものだ。衆人の関心を集めて、ものを売ることさえ出来ればいいというマーケティングの価値観は、権威に評価されることが人間の全てであって、公平性や実体結果は取るに足らないという奴隷意思論と、完全に同じ観念であることは説明不要だろう。

マーケティングとは非営利の目的のための公領域を、商売のための媚び売りによってカスタマー向けの私領域に変化させ、それによって公領域を徹底的に破壊する手段である。高度な芸術性を有した文化を咀嚼し理解することと、実体性や論理性が伴わないオタク的なサブカルチャーを消費することは、完全に対極的なことでしかない。アメリカ人がどのような観念を抱いたとしても、公共社会と人間理念を守ることを否定し、自らの保身と強欲な蓄財しか求めないミーイズムは、単なる弱者の思想だと言い切っても問題なかろう。

現代のマーケティング技術が生んだものは、肯定を求める承認欲求の具現化であるオタクアニメと、騙し騙されの詐術を明文化した自己啓発本という二つのものだ。だが、それらは実体に基づいた向上心である科学技術や政治哲学を否定する性質を持っているが故に、国家の繫栄のためには殆ど役に立たない。公共心を持たないマーケターと向上心を持たない客達によって、イノベーションが起きない社会が形成されたというわけだ。営利主義とロマン主義を合成して作られる麻薬的娯楽は、文化ではなくサブカルチャーでしかないということを忘れてはならない。

教育の本来の目的とは、子どもをオタクに育てないことだろう。オタクが認知できるのはものごとの表層だけであって、彼等が二次元を愛好するのは実体三次元の構造的な美を認知することが出来ないことが理由である。表層しか認知出来ないオタク達は、権威の観念的な煽動に永久に騙されることしか出来ない。何のテーマもないオタク向けのアニメから学べることは殆ど何もないが、柔道からは身体における科学技術を学べるが故に、末端の力みを抜き取ることが出来る。

脱力して頭と臍の奥の流れを柔らかく繋ぎ、腰で立ち、背で支え、体幹で踏むという身体工学の基幹は、あらゆる場面において役に立つが、「あらみたま」で動くには絶対に不可欠な術である。無駄な力を叩きつけることではなく、勢いを噛み合わせて突き刺すことが理解出来れば、空間範囲を視切るための「間合い感」が鋭敏になる。合理性を無視した力みで無理やりに体を動かすのではなくて、己の意思によって己の身体を操作することが重要な技だ。意識を研ぎ澄ますことが出来なければ構造を視ることも出来ず、「認知と制御と出力」によって身体を動かすことが不全化し、生活における全ての「観察と思考と行動」が分断される。

正解の暗記によって全てを解決しようという発想は、完全にクリーンでノイズも外乱がない状態でしか機能し得ないものか、あるいはそれでも機能し得ないものであって、これは観察と思考の放棄であるが故に、成長を起こさない力にしかならない。固定された不動の正解を求める心理は、流動的に動くことを否定するものであって、固定観念を疑う機能を殺してしまう。

行儀というものは、強制される正解の典型であるが、これ程に合理性に反した形式もなく、腰と背の「機能的な繋がり」を分断し、非実用によって不自由を成立させるための纏足に過ぎない。外に力を伝えることもなく、内に力を入れるだけの徒労は、己の身体を壊すことがあっても、創造的な結果は何も残さない。実体を無視して観念的な正解を求めることではなくて、機能を噛み合わせて制御することこそが、意思というものだ。脱力とは単に力を抜くことではなくて、有害性や無駄を取り、洗練を起こす、という進化を示す言葉であることも説明不要だろう。

政府という最も巨大な権力の行使について考えるためにも、自らの身体という最も身近な暴力装置の行使について考える意識が必要であって、戦うための力の否定とは文明の否定そのものだ。あらゆる人間活動において「認知と制御」がその基幹となるが、それは「科学と技術」という別名で呼ばれることもある。

武術とは「認知と制御と出力」の回転の加速であって、「理合い」という身体合理性を求める工学である。武術とは人体という構造を使いこなすシステムの力であって、これは本質的に機能美を求める哲学の一種である。硬直した力で止まることではなくて、流動的な力で動くことを意識しなければ、攻撃はまるで当たらない。体幹と間合いの先の空間範囲の「機能的な繋がり」を理解出来なければ、突き込んだところで力が伝わりにくく、攻撃の意味が失われてしまう。突破力の発揮にも空間的な防御にも槍の理合いが必要であることを理解しなければならない。もっと言うのであれば、実は射撃においても機械の操縦においてさえも、体幹と間合いの関係性を知ること、己のことと己以外のことの繋がりを視ることが重要であるのだ。とはいえ、完全な精密性の追求は、簡単に制御の不全化を引き起こすだけのものであって、全体の連動によって機能させることが重要であるとは付け加えておく。

科学と技術とは「解析して使いこなすこと」であると言っても問題ないが、探究精神こそが人間の強さの中核だろう。正解を求めることではなくて、観察して工夫する探究心が、科学と技術の源である。正攻法の強制とは、観念論と形式主義の混合物であって、新規性や向上心を否定する迷妄たる善意である。動物的快楽欲求しか持たない野蛮人の非合理な暴力は、実戦において役に立つはずがない。権威の言うことを聞くことだけを意識させ、自らの意思で構造を観察することを忘却させるために、正解という名前をした非合理が存在している。あらゆるヴァーチャリズムは構造を視誤らせる色眼鏡でしかないのだ。

現代において、オタク向けの広告が日本のあらゆる場所に野放図に張られているのは、営利を目的とした広告がまるで規制されていないが故に起きる現象だろう。公共社会を妄想のテーマパークにすることは、国家の幼稚化そのものだ。個人利益主義者達が望む観念によって実体構造の表層を書き換えることには、一切における生産性がない。そして、分かりやすさだけで世界を埋めるならば、漫画すらも本屋から消えてヌード写真集以外が全て消滅する日が来るだろうが、現代におけるオタク向けの広告も似たような惨状である。

大体の商品とは顧客個人のためのものであって、基本的に公共全体のためのものではない。顧客に合わせて社会が発達すれば、顧客という個人か若しくは売り手という法人だけの思考だけが蔓延し、公共全体のための思考が消えてしまう。何よりも恐ろしいことに、顧客が求めているのは実体的必要性や人間的探究精神ではなく、動物的快楽欲求を満たすことが殆どなのだ。「人民はパンを求めている」とはマルクスの言葉だが、「愚民はむしろサーカスを求めている」のが事実であるが故に、社会に何ら役に立たない商品と社会に何ら役に立たない思考だけが蔓延する。一億人の我欲を集合させたところでそれは公共性には成り得ないが、我欲についてしか考えられない社会は確実に滅ぶ。ケインズは金融市場のことを美人投票と述べたが、資本主義は選挙との間に類似があれど、それが民主主義との関連があるかどうかは定かではない。

だが、公平性を否定する勤労カルヴィニズムにおいては、一身上の成功以上のことを目的とすることが出来ず、国家公共を重んじる人間は侮蔑される。出世して金持ちになって貧乏人を差別と搾取の対象にすることを目指すアメリカンドリームが存在するうちは、汚れ仕事をやらされるジョン・ランボーが救われる日が永久に来ることがない。

ランボーが戦ったベトナム・アフガニスタン・ミャンマーの全てにおいて、アメリカの政策は失敗した。冷戦後のロシアの民主化に関しても、アメリカは適切な政策を行っておらず、貧困化と専制という結果しか起こらなかった。「勝てば選民」に基づいて十字軍を繰り返す彼等も負け続けであるのだから、そろそろ自らが選民ではないのかも知れないという可能性を考えた方がいいだろう。

彼のような前線の兵士は歪なアメリカ社会の被害者でしかないが、アメリカ人にとってはヒーロー願望とは公共意識なき自己顕示欲であって、実体的な問題解決を求めない選民思想でしかない。軟弱なアメリカ人は英雄とリアルを求める事がなく、客寄せのためのアイドルと傍観するためのヴァーチャルにしか興味を持てない。己のこと以外を視ること考えることを否定するアメリカンドリームでは、槍の理合いを理解することは不可能だ。

アメリカの競争社会は、交渉や協働といった意識を否定して、他者を屈服させることを目的とした社会でしかない。これは、自らが他者に勝つことだけを考えてその先をまるで考えない、「万人の万人に対する闘争」で成立する社会である。文明の発展や結果の創造は否定され、独占と分断が信仰されるアメリカ社会においては、単に自らを押し付けて他人を黙らせ、そして足を引っ張ること自体が美徳とされる。人間は主観的な生き物であるが故に、主観に客観性を並立させる意識を持ち、己の意見と実体的な根拠を照らし合わせることが、議論において基本となることであるが、それが出来ないアメリカ人は、己の非を認めることが非道徳であるとすら考えているのだ。

アメリカンドリームとは、社会全体の向上を目的として政治を考えることではなくて、椅子取り競争で勝つという自己優越化願望でしかない。これは、黒人奴隷農場の主かアウシュヴィッツの所長に出世する程度のことを目指す個人利益主義であって、人間関係を搾取と略奪として捉えるだけのものに過ぎない。勝つか負けるかしか考えられない彼等には、他者を潰すべき相手としてしか認識出来ず、他者の心を理解することは絶対に不可能である。であるが故に、アメリカの社会は、甘えるだけの幼児、世間体を偽るだけの表層的な大人、権威主義的で冷血な長老、この三つの要素で構成されることになるのだ。

愚か者がどのような観念を抱こうとも、実体に基づいた社会的合理性と経済学における観念合理性は一致することはなく、それ故に市場原理主義とは虚構的な宗教でしかない。我欲と公益が一致しないことは、詐欺や強盗が社会を繁栄させないことから明らかだろう。権威主義者に支配された政府であっても、宗教的な市場原理主義であっても、金を得ること自体を目的とする私人的な営利に走ることは同じであって、結果として公共の福祉は徹底的に破壊される。

出世やら営利を目的とする個人利益主義においては、実体を認知する科学技術ではなくて、騙しのための宗教だけが発達するのは、費用対効果を考えれば必然のことだろう。公益を考えずに一身上の保身に走る態度は徹底的なまでに醜いが、アメリカでは蓄財に成功すること自体が選民として正当化されるが故に、こうした実体功利性に反する卑屈さも観念的論理によって賢さと認識されている。実体と乖離した思考によって、開発と生産と流通の「機能的な繋がり」を伴わない資本だけが無尽蔵に積み上げられ、価値創造ではなくて収奪だけが残される結果なのだ。グローバリズムとはアメリカンドリームの延長であって、拝金教に同調しないことを「隷従への道」と罵ることでしかない。

勤労カルヴィニズムのアメリカは、チャップリンが「モダン・タイムス」で批判したフォード社のような管理労働を生み出した。恐ろしいことに、フォードは労働者の私生活にまで逐一干渉すると言った有様で、デモ隊を射殺した経歴までも存在している。更に、フォード自身がナチスのシンパでもあったという事実までもある始末だ。アメリカでもドイツでも運命予定説と奴隷意思論が、人間を労働する歯車に変えるのだろう。これらは人間の精神を徹底的に否定するという意味において唯物論そのものでしかないが、実はヨーロッパでは唯物論とは利己主義を示す言葉として用いられることもあって、その点においても勤労カルヴィニズムは唯物論なのだ。

二十世紀前半までの世界には、国際法を守ることが一応の意識として存在していたが、そもそもそれは覇権国家のイギリスが法律を伴った国家であるが故にであった。アメリカとは勤労カルヴィニズムで統合されたカラーギャング的な「白の群れ」であるが故に、法の支配よりも人種主義が重んじられる。全権委任法を作って法治を否定したヒトラーも、イギリスのマグナ・カルタに見られるような社会契約よりも、人治主義を重んじていたが、ここには文明と野蛮の究極的な差が存在していると言えるだろう。

このような志向を持つアメリカが一九七一年の文化大革命の最中の中華と国交を結んだのは、国の西部で虐殺を行うことに関して宗教的な同志関係を見出したように見えるものだ。中国共産党によるチベットへの侵略をアメリカ的な運命論であるマニュフェストディスティニーと捉えたとしても、筆者はそうは違和感を覚えるところはない。だが、現代においてそれが一定に批判されているのは、やはり異民族の虐殺は白人の特権であると悔い改めたのかも知れない。

実は、同じ勤労カルヴィニズムであったとしてもナチスは「東方生存圏」を主張し、アメリカの場合は「西方生存圏」であったという差が存在している。アメリカとナチスの最大の違いとは、思想の方向性ではなく、侵略の方向性であったのだ。国家的目標を持つこともなく、民族主義的運命論によって、人種差別的な侵略に勤しむという点が彼等の最大の共通点であることは間違いがない。大日本帝国の八鉱一宇は人種差別的であったとまでは言えないため、アメリカとは侵略の方向性が一致していたとしても、思想の方向性は異なっていた。

中華もアメリカも社会基盤が宗教に立脚していて、そしてそれぞれの宗教は選民思想を帯びた低福祉国家という共通点を持っている。文化大革命の最中にはお茶が贅沢品として弾圧を受けたが、この茶への弾圧を見たアメリカがボストン茶会事件を想起して熱狂した可能性は、イラクに大量破壊兵器が存在していた可能性よりも高いように思えるものだ。

自分に同調しない者は完全に排除すればいい。気に食わない者は一切全て殺してしまえばいい。こうした不寛容は、実体性と公平性に反するだけではなく、功利性にも反することが殆どだ。だが、観察と思考を停止して、妄信の元に銃を発砲すれば全てが解決するという迷夢もアメリカンドリームであって、こうしたアメリカンドリームが高校での銃撃事件という悪夢を引き起こす。現状の国会議事堂への襲撃事件を見る限り、そのうちに現在のミャンマーのようなやり方でアメリカの大統領を決める日が来ることだろう。

妄想の中で生活していれば、北朝鮮のミサイルの実体は認知できなくなろうとも、頭の中のイラクのミサイルの観念だけを認識することが必然であるのかも知れない。無いことを証明することは不可能であるが、大量破壊兵器が存在するというのならば、大量破壊兵器の存在に繋がる痕跡の構造が存在しているはずだ。なんらかの機能や効果があるならば、そこに構造が存在していることが必然であって、人間はものごとの「機能的な繋がり」を追跡することによって、未知を追求することが出来る。

しかし、アメリカ人は実体構造を広く調べることよりも、悪の枢軸のイラクは大量破壊兵器を絶対に持っているはずだという善悪二元論を信じることにしたのだ。全肯定か全否定かの二元論しかなければ、あらゆる議論も交渉も批判も成立するわけがない。実体構造を観察することよりも、自らにとって都合のいい観念を妄信する反知性は、どんな大量破壊兵器よりも甚大な被害をもたらす。

そして、ミサイルの有無以上に大きな幻夢がイラク戦争には存在していた。フセイン政権を倒したはいいが、民主主義国家が簡単に成立するということこそがまさに最大の幻想であったのだ。開戦の決定以上にその後の占領政策においてこそ、アメリカの弱さと愚かさがこれでもかと言う程に発揮され、イラクはアメリカの傭兵企業による虐殺とテロリストによる反撃が繰り返される泥沼状態となった。

アメリカは大量破壊兵器を有している国を攻撃しないということが事実であって、大量破壊兵器を有していない国は攻撃されないという考えが幻想観念である。国連決議を無視してまでもイラクを攻撃したという事実は、この幻想を破壊するに十分すぎる証拠であろう。独善的で排他的な白人至上主義が骨の髄まで染み込んでいるアメリカは、「排除の論理」でしか纏まることが出来ず、弾圧しても反撃してこない弱い敵を常に求めている。彼等にとっての信条は、「敵を許せ」ではなく「敵を作れ」であって、これは実体公平性に適う理由もなく他者を攻撃することであるのは言うまでもないだろう。

そういえば、中華が豊かになれば民主化するというアメリカの予測も存在していたが、これも幻想に過ぎなかった。だが、中華のような言論の自由なき自由市場は、勤労カルヴィニズムからすれば最も理想とされる社会であって、それこそが人の言わざる口の奴隷意思論と神の見えざる手の運命予定説が同時に具現化された社会である。実際に、中華のような体制を是として、民主主義を否定するアメリカのリバタリアンも存在し、新反動主義者と呼ばれる彼等の中にはトランプ前大統領の熱心な支持者もいた。野放図な彼等は、社会主義と自由の組み合わせよりも、資本主義と不自由の婚姻を愛していても何ら不思議はない。民主主義が無くなった資本主義の世界では、民放も刑法もなくなり、奴隷制が跋扈することが必然であるが、勤労カルヴィニズムを妄信する彼等は奴隷制を何よりも欲しているということだ。

こうした事態を考えれば、やはり、アメリカにとっての自由とは、権威主義的エゴイズムを意味する言葉なのだろう。彼等は、権威に許されることだけを考えていて、結果の創造など最初から求めていないということでしかない。アメリカの貧富の格差が開けば開くほど、アメリカは権威主義国家としての性質をますます強め、最後には白人至上主義者が支配する全体主義社会へと変貌するだろうが、これは現在のロシアに近い社会であると言える。おそらく、冷戦の資本主義と共産主義の戦いは、人間主義と全体主義の戦いであったというよりも、権威主義と全体主義との戦いでしかなかったのだろう。

アメリカも中華も、公共理念になど無関心で、蓄財と選民思想にしか興味を持っていない。実体を議論することや創造を行うことには教育が必要だが、消費者であるためにはそれが必要ない。ものを造らずに何でも買えばいいという発想は、国民の思考と地球環境を徹底的に破壊する。こうした資本による不自由こそが、徹底した権威主義と蓄財を目指す勤労カルヴィニズムの本質であって、そしてアメリカが真に目指す社会であるのだ。

更に言ってしまうならば、アメリカの富豪は寄付を好むから貧富の格差が縮まるというのも観念でしかなく、彼らは節税による個人的な蓄財と観念妄想に熱心であった。そもそも、奴隷意思論と運命予定説を妄信する彼等は、仮に寄付を行うにしてもそれは権威が推奨しているからという理由であって、自分の意思で社会貢献を望んでいるわけではない。

もっと言うならば、善意に基づいたシステム設計というものはイレギュラーを想定していないが故に、フェイルセーフを用意しない限りは破綻する可能性が極限までに高い。だがそもそも、善意とは、「自らは完全に正しい」という妄信を意味する心性なのだから、斯様な態度ではシステム設計など出来るはずもない。

カトリックでは、寄付は自らの財産の割合に応じてという価値観が存在し、「金持ちが天国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ簡単である」と言われている。だが、勤労カルヴィニズムにおいては蓄財こそ選民の証なのだから、逮捕さえされなければ節税も脱税も道徳であって、現状の格差社会こそが理想の状態なのだ。むしろ、貧富の格差が無くなってしまえば、選民と非選民を分断するものが無くなって、それは信仰に反する。

偽善的な結論を観念的な出鱈目によって正当化しようとする点において、アメリカの言論は現代の神学と呼ぶに相応しい。こうした観念論的な神学は、イギリス経験論という近代科学技術の基を創り上げたイギリスからすれば、物笑いの種でしかないだろう。構造を無視した思考停止の行動がアメリカの信仰であって、プラグマティズムと呼ばれるアメリカンマインドは、イギリス経験論の功利主義とは完全に異なるものでしかない。なんであれ、アメリカの白人至上主義者達による進化論の否定と地球平面説の肯定というホワイトジョークは、イギリス人のブラックジョークよりも遥かに笑いを作るものだ。

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