見出し画像

自分をわかりたくて言葉にしたら、頑固な思い込みに気づいた

ずっと他人の言葉を借りていた

2017年、サクちゃんの「世界は夢組と叶え組でできている」というnoteを読んだ。サクちゃんの発明は、夢中になれる能力があるやりたいことがある「夢組」だけでなく、やりたいことを見つけられない人のことを「叶え組」と名づけたこと。

やりたいことが何もない。ということはないのだけど、人生をかけてやりたいことなんてない。そんな自分は、「君のやりたいことって何?」と聞かれて受け流すたびに、そのニュアンスをうまく伝えられない自分はおかしいのか?と悩んでいた。

サクちゃんは、その質問に対して、“やりたいことがない「叶え組」かもしれない” と選択肢を提示してくれた。どちらかがすごいのではなく、どちらもいるべきだし役割が違うだけだから、僕は叶え組としてできることをしようと思わせくれた。

そして2年後。noteと同タイトルで出版されたを読み終わった後、こう思った。

「自分は『叶え組』だから」と言い訳をして、他人(この場合はサクちゃん)の言葉を借りたままになっていないか?

思えばこれまでの自分は、他人の言葉を借りてばかりだった。その人が長い時間をかけて抽出したエッセンスを、あたかも自分で考えたように取り込んで錯覚してしまっていた。

この本を通して、「やりたいことがない」で満足したままで、深く考えようとせずに自分と向き合うことから逃げていなかったか?と、サクちゃんからきついパンチを食らったように感じた。
 

自分がわからないから書き出した

だから、この本を読んだあと、本に書かれていた通りに自分の中にある言葉を探ってみた。

まずは、今どんな持ち物を持っているか(環境、性格、希望)、何ができるのか(スキル)を箇条書きにしてみた。

次に、自分のしあわせは何かを言葉にしてみる練習として、「やりたいこと」を100個挙げてみた。

でも、やりたいことは10個も書けなかった。台湾にまた行きたい、洗濯機が買いたい、何か植物を育てたい ── お金があればできることがほぼすべてのやりたいことリストだった。

サクちゃんの出版記念イベントで、登壇者のカツセさんがやりたいことをポンポン話していてびっくりした。「タクシーにすぐに乗れること」「お釣りを出さずに払えること」「乗り換えがスムーズにできること」などなど。その話を聞いていたとき、そんなことでもいいの?と思った。そして、自分はどうしてそういうことがすぐに出せなかったんだろう?と思った。

そして、どこにつまずくのか、どうして書けないのかを書き出してみた。

・・・

何かしら仕事に活かせることじゃないといけないという先入観や、「やりたい」よりも「できるようになりたい」という気持ちが強いこと、自分だけの楽しみは意味があるの?と思って優先順位を下げてしまうこと、誰に見せるでもないのに書くことに躊躇したり恥ずかしくなってやめてしまうこと、などがわかった。

それだけではなかった。周りに尊敬している大人たちがたくさんいるので、その人たちにすごいと思われたい(ミスしているところを見られたくない)という邪な気持ちも出てきた。

さらに、「こうはなりたくない」という悪い方のロールモデルが思考に歯止めをかけていて考えが狭まっていることもわかった。例えば、他人が嫌がっているのに強制的にさせようとするとか、酔っ払って大声を出して文句を言うとか、勝手にやれますと言って後はよろしくと言って投げ出すとか。

自分の感情を塞いでいたフタは、予想以上に頑固だった。これは、言葉にしてみなければわからなかった。


言葉にしたから自覚できた

少し話は変わるが、自分は仕事で人前に出て話すのがすごく苦手だ。ライブ配信でぶっつけ本番というのも苦手だ。焦るし、緊張するし、アドリブがきかない。

それまでは、緊張しいだからだと思っていたけど、そうじゃないことがわかってきた。相手が求めているものに応えられるかわからない、そのことについて一定以上の理解がないと間違えたことを話してしまうんじゃないかと思って、及び腰になってしまう。

それなのに、リハーサルもしたくないというめんどくさいタイプ。それもちゃんと見つめて言葉にしたことで、ダサいこと(話すのを失敗すること)を何度もしたくないということもわかった。

恋愛もそうだ。のめり込めない。なんでだろうって言葉にしてみたら、失敗したくないからだった。失敗はダメだと思うから、この人は合うかもしれないと思う人にしか声をかけられないし、可愛いとも言えない(付き合ってからめちゃくちゃ言うタイプ)。ゆくゆく考えてみると、ひとりでいるのが寂しいからなのではないか。それを彼女という存在で埋めようとしていたのではないかと思った。

失敗したくない。周りの人たちに迷惑をかけたくない ── 。「間違うことはいけないこと」という思い込みが強くなっていた。

言葉にしなければ、わからなかった。感情をうゆむやにせず、見せる見せないはともかく書くようにする。言葉にしたから、自覚ができるのだ。


自分をわかりたいから書くようになった

書籍の中には、当たり前だけど自分の答えは書いていない。なぜならあの本の実例は、サクちゃんだからだ。でも、その本には「考え方」が書かれている。途中でもいいから言葉にして、探していく作業を続けていかなければいけない。

自分を見つめるのは、すごくいやなことだ。でも、わからなかったから書くようにしたら、書き出したことでぼんやりとしていた感情に輪郭が見えてきた。そして、その輪郭をはっきりさせたいから書くようになった。最終的には、自分のフタを見つけ、認め、そして許してあげなければと思う。

今、noteの自分のサークルで毎日1時間ごとに自分の行動や思ったことを書くようにしている。それがきっかけなのかはわからないけれど、自分はどんなことを考えているのか、だんだんとわかるようになってきた。

わからないから書くし、もっとわかりたいから書く。

書くことは、自分の根底にある意識を引っ張りだし、前に進める行為なのかもしれない。

サクちゃんの本を通して、「間違うことはいけないこと」という思い込みを剥がしていくにはどうすればいいか、という前向きな問いも見えてきた。

この外出自粛のタイミングということもあるけど、家にいる時間が長くなるからこそ、せっかくだから自分を見つめる時間を増やしてみようと思う。

いつか、言葉にすることから逃げずに歩き続けた先に、自分の夢組がひょっこりと顔を出してくれることを祈って。

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートは新しいサブスクを試すための資金にさせていただきます!