「晩ご飯何がいい?」「何でもいい」問題が勃発しないタイプの主婦の話

 夫婦間の永遠の課題の一つとして「晩ご飯何がいい?」「何でもいい」問題というものがある。主に食事を作る側の人間が献立に悩んで家族に「何がいい?」と聞いた時に「何でもいい」と返って来るので困ったり怒ったり悲しんだりしてメンタルに負荷がかかってしまう定番の家庭問題である。主に食事を作る側の人間=妻、献立を聞かれる家族=夫で起こることが多い。
 私は家庭では主に食事を作る側の人間であるが、実はこの「ご飯何でもいい」問題に共感できないタイプの主婦である。「何でもいい」と言われて困る理由がない。何でもいいって言っているのだから、何でもいいはずだ。サトウのごはん一つ出して終わりにしたって文句が出ないはずなのである。ものすごく楽じゃないか。ラッキー以外の何物でもない。完全なるボーナスステージだ。だから私は、夫氏が「ごはん?何でもいいよ」と言ってくれるのをもう何年も何年も、まるで初めて恋をした少女のように待っている。

 私は料理をするのが大嫌いだ。一応名誉のために言っておくが、料理ができないわけではない。やらざるを得ないからという理由でも長年続けていればそれなりにできるようになる。だけど料理を作るという一連の作業はとにかく面倒で好きになれない。調理だけなら嫌いじゃないが、献立を考えて材料や調理器具の選別、準備、調理が終わったら片付け掃除と、料理はとにかく面倒臭い。正直私には向いていない。毎日やるとか完全に気が狂っている。そうだ、毎日料理なんかしてるから私の気は狂っているのだ。それじゃあ仕方がないね。ドラえもんのひみつ道具グルメテーブルかけの発売はまだですか?ちなみに私が欲しい3大ひみつ道具は
1、どこでもドア 
2、グルメテーブルかけ 
3、どくさいスイッチ
です。
 (※グルメテーブルかけ:食べたい料理を言うだけで瞬時に出て来るハイパーミラクルなテーブルかけ。絶対欲しい)
 私のような人間は料理を手抜きするチャンスばかり伺っているので「何でもいい」と言われたら「作らなくていいラッキーゥェエエーーイ↑↑」という発想になりがちなのである。

 相手に「何がいい?」と聞く人が内包するもの、それは優しさだ。相手の食べたいものを作ってあげようという愛である。そこで「何でもいい」と言われて困る人は、優しさと同時に献立を考えるのが大変だという感覚を持っていると思う。先ほど述べたように、献立を考えるのも面倒な作業の一つなのだ。家族の意向に沿おうとすると同時に、面倒な作業の一つを手伝ってもらいたいのである。「何でもいい」答えられることは「助けて」と言ったのに「自分で何とかしなよ」と言われてしまったも同然なのである。たぶん。そして、聞かれた側は聞かれた側で「何でもいい」という言葉を「そんなに手間かからないものでいいよ、簡単なものでいいよ」という優しさのつもりで使っているらしい。ってテレビで見た。どうしたことだ、完全にすれ違っているではないか。90年代の少女漫画くらいすれ違っている。このままで果たして我々日本人は大丈夫なのだろうか。その謎を探るため、我々はアマゾンの奥地へと向かう前にちょっと考えてみた方がいいんじゃなかろうか。そもそも料理をあまりしない人は献立を毎日考えるのが大変だということも知らないだろうから「何がいい?」という聞き方では正しく意図が伝わらないんじゃないか。「献立一緒に考えて」のように、具体的な行動を求めた方が望む答えが返って来る確率が高いんじゃないだろうか。知らんけど。

 余談であるが「晩ごはん何でもいいよ」問題に類似するものとして「何か作って、簡単なものでいいよ」問題がある。料理を依頼する側が気を遣ったつもりで使用してしまいがちな爆弾フレーズだ。何度も言うが、料理とは面倒なものである。料理には必ず準備と片付けが伴う。調理自体が簡単だからと言って料理という一連の作業は決して簡単にはならないのである。しかしこの件に関してはタレントの千秋さんが過去にパーフェクトアンサーをたたき出しているので紹介しておきたい。
「簡単でいいって、なら食パン1枚でいいのかって」
かなり前のテレビ番組で、うろ覚えだけどこんな感じのことを言っている。
そうだ。食パンを出せ。食パンは美味い。食パンは世界を救う。食パン1枚あればいい。生きているからラッキーだ。食パンをラップの上に出せば洗い物もなしで済むし、確かに簡単だ。ていうかこんなに簡単ならセルフでやってもらえば良い。お互い罪悪感も湧かないくらい簡単じゃないか。私はこの時に目から鱗が落ちた。千秋さんはそれじゃ良くないんでしょ?というニュアンスで言っていたように思うが、私は食パンええやん、と本気で思った。彼女は天才だと思った。それ以来、もし夫氏に「簡単なもので良いから作って」と言われたらラップの上に食パンを置いてニコニコ出そうと思っている。もしも不満な顔をされたら「足りない?もう1枚食べる?」と気遣いすらしてあげようと思っている。ちなみにこれはガチである。心の準備は万端だ。

 「簡単なもの」で食パンの準備をしているのと同様に、私は「何でもいいよ」と言われたときの献立も決めている。卵かけごはんである。こちらから「晩ごはん何がいい?」と聞くということは、少なくとも料理をする、つまり準備や後片付けをする意志はあるということになる。食器くらいは使ってもよいだろう。我が家には子どもがいるので、何でもいいとは言ってもある程度栄養のあるものを出したい。料理嫌いの私がその条件で一番具合が良いと思う献立が卵かけご飯なのである。これも心の準備は万端だ。夫氏が「何でもいいよ」とさえ言ってくれれば、私には常に楽になる用意が出来ている。

 さて、こんなに何年も待ち焦がれている「何でもいいよ」という言葉であるが、実は一度も夫氏に言われたことがない。記憶がないだけで実際は何度かあったかもしれないが、少なくとも育児を始めてからは一切ない。…と思い返してみたら、そう言えばそもそも私から夫氏に「晩ごはん何がいい?」なんて聞いたことがないのだった。だってもし面倒な料理名とか言われたらどうするのだ。献立を考えるのすら面倒な時に、料理の工程まで余計な面倒事をブチ込まれたら私はどうなってしまうのか。ストだ。ストライキ起こすしかねえ。正直レンジ調理とかで終わらせたいのである。食べたいものを聞いたところで夫氏の期待に応えられるのか。否だ。ことごとく夫氏の希望を否定するしかなくなるだろう。誰も幸せになれない結末しか見えない。私は闇の腐女子ではないのだ。紡ぐストーリーはハピエンがいい。だから私は「晩ごはん何がいい?」なんて絶対に聞かない。献立に困ったら、ネットの検索欄に食材と「簡単」とか「レンジ」とか入れて出てきたものを作る。料理をするのは私だ。俺がルールブックだ。面倒事は引き受けねえ。文句を言う奴は食パン食ってろという話である。そして夫氏は夫氏で、私に対して「簡単なもので良いから作って」とか言ったことがない。夫氏は知っているのだ。私がガチでラップの上に食パン1枚出す人間であるということを。

 そんな我が家では、料理が大嫌いな私に代わって土日は夫氏が料理をしてくれている。そうしなければ土日はカップラーメンかレトルトカレーになるからだ。どうやらそれらは彼の食の美学に反するらしい。夫氏は簡単なものでいい?と言いながらうどんとか丼ものとか作っちゃうタイプの人なのだ。簡単なものと言えばラップの上に食パン一択の私とは面構えが違う。休日に鍋を洗う気になるとか信じられない。私とは真逆で、良い方向に狂っている。そしてきちんと料理をしてくれる夫氏は当然聞いてくるのである。そう、件のあの質問だ。

「晩ごはん何がいい?」

 正直なところ何でもいいと思う。作って頂けるだけで有難いのだ。なのでついウッカリ「何でもいい」と口をすべらせてしまう。私には「何でもいい」って言っちゃう人の気持ちが分かる。だがしかし、ここで終わらせてはいけない。自問自答するべきだ。「私は本当に何でもいいと思っているのか?」と。サトウのごはんオンリーが受け入れられないのであれば、口をついて出てしまった「何でもいい」は前置きにしてしまって献立を列挙すべきだ。適当でもいい。いくつか言っていれば、料理する側の脳が刺激されて何か思い付いてくれることもある。特別コレ!ってわけじゃなくても、ハンバーグか生姜焼きか丼ものがいいな~って言えばいいのである。からあげ!とか何とか自分の好きな食べ物を答えたらいいのである。それすら思い付かないのなら、せめて「肉!」と叫ぶがいい。「何でもいい」という人は、料理を作る人間を過信している。少なくとも一汁一菜くらいのものは必ず出て来ると勘違いしている。何を根拠にそう思えるのか。本当に何でもいいのなら、食パン1枚でも構わないはずなのだ。「何でもいい」と答えるのは怠慢だ。そんな装備で大丈夫か。己の発言の重みを噛み締めろ。言葉には責任を持て。自分が死線に立っていると自覚すべきだ。そしてその覚悟こそが、相手にちゃんと伝わる優しさに繋がるのである。だから私は、何でもいいと思っていても絶対に答える。

 「晩ごはん何がいい?」

 私はきっと次の土日もこう答えるだろう。

 「何でもい…いけど、に…肉!焼いた肉!!」

 何だかんだ御託を並べていても、とっさの時にはなかなか思い浮かばないものなのである。家族とは互いに優しさを持って接して行くことが肝要だと思うので、多少のざっくり感はどうか許してください…。

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