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2023.07.05. みんなと同じになるのがこわい【何故】

みんなと同じになることが怖い
新井英樹の『キーチ』という漫画を見かけ、買って読みはじめた。9.11前後の話で、つまり2000年とかあのくらいの話で、なんていうか殺伐としている。思えばわたしが小学校の頃、世の中は殺伐としていて、その不穏な空気の中で育っていた。テレビでは凶悪事件が報道され、隣町に強盗犯が逃げたと見られ、ドラマでもむごい殺人シーンがあり、夜になると話したこともほとんどないクラスメートから、チェーンメール(6人に回さないと不幸になる)が送られてきた。その頃はゲームボーイで『テリーのワンダーランド』『マルタの冒険』にハマっていた気がする。喘息の呼吸器をつけながら(15分くらい口にカバーをつけて酸素?を取り込む)、よくゲームボーイカラーをしていた。布団にくるまりながらもゲームボーイをしていて、その頃から急速に目が悪くなる。
『キーチ』を読んでいるのは、偶然店の棚にそれが置いてあったから、そして中をちょっと見て良さそうだったからだが、(最近Twitterで『ブックオフで買った』とわざわざ書くなよ、という旨のツイートがバズっており、あ、そうなんだ、確かにね、と思った、がブックオフがなくなっても困るので、ブックオフで買ったことはわざわざいうことではないのかもしれないが、ブックオフを否定するようなことをわざわざいうのもどうなのかとも思うが、どうでもいいとも思う、)店の棚に置いてあったのが同じ漫画家の代表作『ザ・ワールド・イズ・マイン』だったら今それを読んでいるだろうか、と思うとたぶん読んでない。『ザ・ワールド・イズ・マイン』がとてもいい作品であるのはよく聞いていて、だから入りづらい。ここにはディズニーやジャンプに対するのと同じような気持ちがある。

【でもそれってみんな知ってるじゃん】という呪いだ。

しかしそもそもみんなと同じとか違うとかそういうので漫画を読んでるわけではない。むしろ「え、みんな良いって言ってんだから、結構良い感じなんだろうな、絶対面白そう!」となっていいはずである。それがなかなか私の場合、「みんなと同じものを読んだらみんなと同じになってしまう」という強迫観念によってその興奮は妨げられてしまう。だが、そんなことを言っていては過去の素晴らしい作品に出会えないため、映画などは無理をしてでも観るぞと思い、観てきた作品もある。観てないのもある(岩井俊二を借りるときでも『リリィ・シュシュのすべて』ではなく背表紙のタイトルが掠れて消えかかってる『Love Letter』を借りてしまう恐れさえある)。
しかしそもそもなぜ、「みんなと同じになってはいけない」と思うのか?そこには私がおそらく根本のところで、「差異化されることで主体としてアイデンティファイされる」と感じているからなのではないか。というかそうとしか思えない。別にそもそもすでに差異化はされてる、というかわたしはわたしとして生成を続けているわけだし、それはすでに他の誰とも同じではないのに、なぜ納得してないのか。なぜ『ザ・ワールド・イズ・マイン』ではなく『キーチ』を読んでいるのか。

そういうことをしているから『スリップストリーム』などという意味不明な映画を借りて観るハメになってしまい、後には何も残らない。原宿さんのラジオ『ありっちゃありスパーク』で映画『ジョーカー』が面白いという話になり、勝手にスプラッタームービー(深夜に何気なくチャンネルを回してた時に映る映画版デビルマンみたいな)かと思ってたのが予告を見たらそんなことなくて、むしろ普通にドラマっぽかった。そういうのを観るのも普通に大事だろう。

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