無のなかに身を置くこと、グレン・グールドを聴きながら
最近グレン・グールドのピアノソナタを聴いている。三枚のアルバム。バッハ、モーツァルト、それとブラームス。バッハは料理中、モーツァルトは通勤中、ブラームスは就寝前。
なんていうか、凪。
不幸や嫉妬や身の境遇に気鬱になるこんな乱世にクラシック、ピアノソナタ。どんな了見かといえば、反抗への疲れ。もういいよ一旦置いとこうよってそんな意図。
僕だってロックが好きでそればかり聴いている。だが四六時中三百六十五日、無に抗うのは骨が折れると言うものだ。
基本的にはロックは自由を目指す反骨精神でできている。それによって楽になる瞬間は確かにある。
たとえば「花ちゃんはリスカ」(神聖かまってちゃん)は、絶対的な自己の領域を宣言する。
現実を敵とみなし、
「こいつらha全員敵だから!!!」
とぶっ放す。最高である。
だが、それは無自身には至らない。
あるいはエレカシのハナウタのような肯定であれ、自分の意識を高揚させる、それにより自分の位相を上に上げる。あるいは無へと方向づける。それは生活の領域を解放へと差し向けることだ。
「あの日から変わらぬ空 思い出抜けられずにいた だけど分かり始めた 繰り返されるこの物語の意味を」
ここには日常を日常のまま肯定することが歌われている。永劫回帰、ニーチェ主義。ここではないどこかへ、をここにいながら実践する態度。
その出自よりロックは、既成の枠への反撥であり、自由を望む意志を称揚するものであると宿命づけられている。
すなわちそれは行動を駆り立てるものである。
傷つき、打ち萎えてしまった精神を、ロックは称揚し、鼓舞する、あるいは同情し、共感してくれる。それによって精神の傷は傷のまま肯定される。だが、そこには現実(=自然)との解離が依然として残されている。その残りの、現実との溝を糊を流し込むように、ピアノソナタは埋めてくれる。
グレングールドのピアノソナタを聴いている。
ピアノソナタに意味はない。
どっちつかずにくらげのように漂うこと
肯定も否定も、敵も味方もなく、意識を宙吊りにし、力を抜く。たまにはリラックスして、ふわふわ。たはは。
街の雑音をシームレスに左から右へ聞き流す。拒絶するのではなく、余計な力を使うことなく、通り過ぎるものを通り過ぎるに任せる。フレーズが反復しながら差異を生み出していく。なんのためでもない。頑張る必要はない。それは無のなかに身を置く所作である。
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