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動機はいつも、「出来た方が楽しいから!」


自分の家で上機嫌になると、ついつい口笛を吹いてしまう。
湯船に浸かってリラックスしながらだとそれは結構響き、やまびこのように反響して聞こえることもある。(おそらく気のせいなのだろうが)

口笛が吹けるようになったのはいつだったろうか。
子どもの頃は、口笛吹けない・風船ガム膨らませられない・なんか周りがよくやってた唇プルルルもできない…の三拍子だった。

できないところで特に日常生活に支障をきたすものでもないが、どうして周りはできて自分だけできないのだろうかと、何となく悔しかった。
(当時はかなり、「出来たい」精神の強い子供だった。)

その中で、せめて口笛はできるようになりたいと思い、暇な時に少しずつ練習したものだ。
唇の尖らせ具合、息の強さ、歯の位置etc.を自分なりに研究して音が出せるようになった時は嬉しかったし、自分のスキル技がひとつ増えた気がした。

今ではすっかり、「あんたの部屋からリビングまで響いてるよ」と身内に言われるくらいにまで上達している。
ひとけのない道を散歩しながら口笛を吹く人に憧れ、たまに真似してやろうとするのだが、息があがってしまって毎回挫折する。

この異常なまでの体力の無さは、長年の課題だ。


もっと最近できるようになった…あるいは楽しいと思えるようになったことといえば、「車の運転」だ。

2年前の夏に免許証を取ってから、運転の練習を半ば義務的にやっていたものだが、慣れないうちは車の操作そのもので精一杯で、周囲の状況を見る余裕などさらさら無かった。

少しの油断やミスが命取りになるし、さらに自分の不慣れな運転が道路渋滞にも繋がりかねないので、かなり、神経がすり減る。
それでも、運転技術はちゃんと習得したい。そんな気持ちは消えてはいなかった。

私の住む地域は交通の便がさほど発達していない、いわば「車社会」だ。
駅までの距離は遠く、バスの本数も限られているので、何処へ行くにも縛りが多い。

だけど車の運転さえできてしまえば、好きな時に、好きな場所へ行ける。駅から遠い場所、乗り継ぎが面倒な場所でも。
そのすばらしさを、運転を楽しいと思えるようになった今、痛感している。

未だに追い越しでヒヤヒヤすることもあるし、高速道路も未経験だ。けれどそれらは少しずつ慣れていけばいい。
そして少しずつ行動範囲を広げて、さらなる楽しみを得られるようになりたい。


このように、できる事がひとつ増えるたびに頭をよぎるのが、「どうしてもっと早くやらなかったのだろう」というネガティブを含んだ思いだ。
もっと早い時期に始めていれば、もっと時間を費やしていれば……と。

特に2つめに挙げた運転技術は、その権利を勝ち取ってからのブランクがかなり大きく、1年半以上経っている。
今みたいに忙しくなる前にできていれば、もっと色々な場所へいけただろうにと、今でも時々思う。

だけどそうではなく、「今」がその時だったと、そのネガティブな思いが過るたびに、いつも自分にいいきかせている。
私は人に誇れるほど器用ではないし、要領も決して良いほうではない。(特に要領の悪さは、教習所のペーパーテストの結果にハッキリ書かれていた)

途中で休むことがあっても、それは断じて怠けではなく、やる気を取り戻す、パワーチャージの期間だ。
それがどの頻度、どのくらいの期間かは当然、人それぞれだし、できるようになるペースも然り。
だから何かができるようになるのに、遅すぎることなど決して無いと、私は信じている。

いつも涼しい顔をして、何でもそつなくこなす天才肌な自分の理想像から一切かけ離れている現実の自分を、最近になってようやく認められるようになった気がする。私は生粋の努力家タイプだ。

ペースは人よりゆっくりでもいいし、何より焦る必要はない。
自分のペースでやっていく中で、やはり何を習得するにしても、その先にある「楽しさ」を見失わずにいたい。

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