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星をのんだと彼は言った

 星をのんだと彼は言った。それはもうすぐ町中がイルミネーションで彩られる頃、冷たい風が吹く晩のことだった。

「正式採用、おめでとう!」

 アルコールで頬を赤くした彼が笑った。その台詞は、今夜で何度目になるのだろう。私は照れ臭いやら、呆れるやらで、やっぱり火照っている自分の頬に手を当てた。

「研修が長かったもんね。これからはもっと忙しくなるから、しょっちゅうデートはできないわよ」

 私がそう言うと、彼は、それは困るなあと眉をしかめた。でも口角は上がっている。就職難のこのご時世、彼は私の正式採用を心底喜んでくれているのだ。もちろん私も一安心だ。とりあえず最短距離で望み通りの職につけたのは大収穫だ。

 ひゅうっ、と細い夜風が耳元を通りぬける。薄い皮膚がひりひりと痛む。もうすっかり冬の風だ。ざわざわと木々の葉ずれの音に、彼もぶるりと身体を震わせ、くたびれた灰色のジャケットのチャックをあげた。

「やっぱりこの時期に来ると寒いなあ」

 そうだね、と頷く。付き合ってもう九年近くになる私たちは、デートするたびに近所の高台の公園に来る。ちょっと大きな街で映画を見た帰りなんかはもちろん、泊まりがけで遠出しても、家に着く前には必ずここに寄る。儀式みたいだ、と彼が笑ったのも懐かしい。

 二人の家のちょうど中間にあるこの公園は、夜景が綺麗なだけじゃなく私たちにとって特別な場所だ。初めて二人きりになったのもこの公園だし、付き合うことになったのもその時だ。

 展望広場までの緩やかな坂道の遊歩道を登る。うっそうと茂る木々に紛れて、ぽち、ぽち、と灯っている街灯は九年間変わらず、曖昧な明るさで遊歩道を照らしている。こんなに寒いのに小さな羽虫が灯りに引き寄せられてぶんぶん飛んでいる。

 私は白くなりかけの息を吐いて、赤いストールを巻きなおした。何年か前に彼がくれたものだ。これを渡されたのもこの公園だった。

「もーうちょっと。もーうちょっと」

 彼が歌うようにつぶやいた。これもいつものことだ。聞くたびに笑いがこぼれてしまう。このつぶやきが出たということは、本当にあと少しで展望広場ということだ。彼はくるりと振り返って、にっかり笑った。街灯の灯りがブレているせいで、その笑顔は少し歪んで見える。私も微笑んだ。彼からはちゃんとした笑顔に見えているだろうか。

 彼をちゃんと意識したのは中学三年生の秋、文化祭の準備の時だった。やりたくもない文化祭委員のクラス代表を押し付けられ、しぶしぶ向かった委員会に彼がいた。お調子者で人気者。だけど、実は根がまじめで、皆に仕事を回すのが上手な良いまとめ役だった。当然のごとく、彼は文化祭委員長に祭り上げられ、そんな委員長が補佐に指名したのが私だった。中学三年生の彼曰く、「頭がいい奴がそばにいると安心」だそうだ。医者である両親のおかげか、頭の良さが取り柄だった当時の私は、彼の言葉に悪い気がせず、その役目を引き受けたのだった。

 付き合うことになった後で聞いた話によると、彼は文化祭の前から私のことが気になっていたそうだ。友人も少なく、人気者の彼とは立場が違いすぎる私のどこを気に入ったのか尋ねると、彼は照れ臭そうに目線をそらして答えた。

「もっと笑ったらいいのにって思ってたら、いつの間にか……」

 そういえば、あの頃の私はあまり笑っていなかった。

 そんな出会いから九年。私は彼にいっぱい、いっぱい、笑わせてもらっている。

 通い慣れた展望広場は、高い所にあるだけあって、静かで空気が冷たい。遊歩道より街灯が少ないせいで、闇の色が濃い。これだけ暗いのに怖くないのは、目の前に広がる町の夜景のおかげだ。ぽつぽつとしたあたたかな家の灯り、規則正しいマンションの四角い灯り、緩やかに点滅する市庁の赤いランプ……。時折車が走って、町全体が生きているような感じがする。ちかちかする町の灯りは、まるで宝石箱をひっくりかえしたようだ。イルミネーションが施されたら、もっと眩しくなるだろう。

「いつ見ても綺麗だねえ」

 彼の言葉に大きく頷いて、私はそっと頭上を見た。銀色の星があちこちでちらちら瞬いている。あの日もこんな風に綺麗な夜景と、星空だった。

「普通の外科とか内科とは、少し違うんだよな。配属先」

「うん。一応病院組織の一部だけど、まだ研究所ってところだね。まだしっかりした治療法が確立されていないから。でも何人か入院してるし、通院してる人もいるよ」

「そうかあ。通院できる人もいるのかあ」

 彼も夜空を見上げた。口をぎゅっと閉じている。胸が苦しい。鼻の奥が痛いのは空気が冷たいせいだけじゃない。

 あの日。文化祭が盛り上がりに盛り上がって終わり、委員会で打ち上げをした日の帰り道、私は彼と二人だけでこの公園に来た。公園に行こう、と言い出したのは彼の方。その頃にはもう冗談や軽口を交わし合える仲になっていたけれど、二人きりになったのは初めてだった。どこかよそよそしい空気にそわそわして、言葉少なに遊歩道を歩いたことをよく覚えている。その日もやっぱり街灯はぼんやりと灯っていて、風の冷たさに耳が痛かった。

 展望広場に着くと、学ランを着ていた彼は闇に溶けるようだった。それでも「うおー!」と叫びながら、夜景に感動している姿は、どこかまぶしく見えた。「隠れ夜景スポットなんだよ」と私が教えると、彼は「やっぱりお前、物知りだな!」と笑った。

「そんだけ頭良けりゃ、高校も選び放題だろ? どこに行くか決めてるのか?」

 私は首を横に振った。当時の私はなりたいものがなく、進路を決めかねていたのだ。

「そんなら……俺と同じ高校行こうぜ。一緒にいたら、楽しいだろ」

驚いた。そんな告白まがいのことを言う彼にも驚いたし、それを嬉しいと思った自分にも驚いた。私が小さく頷くと、彼は照れ臭そうに空を見上げた。

「夜景もいいけど、星もすごいな!」

 ぽかんと口を開けて星を眺める彼につられて、私も顔を上げた。凛とした冬の空気は、誰かが磨いたように透き通って、これ以上黒くなれないだろうと思うほど深みのある闇に、銀色の星がいくつもいくつも張り付いていた。遠い宇宙からの柔らかな明滅。ドキドキしていた心臓がだんだんと穏やかになっていくようだった。

 その時、黒々とした空から、光が一直線に飛んできた。あまりの速さに何が起こったのか分からなかった。ただ、反射的に顔をそむけた先に彼の横顔があった。開きっぱなしのその口に、光の粒が入りこんだ。

 彼はそれをのみこんだ。

「……星を、のんだ」

 しばしの沈黙の後、彼はぽつん、と言った。私は血の気が引く思いがした。医者である父に聞いた事があったのだ。呑星症と呼ばれる、奇病を。

 呑星症はその当時、まだ世界で数例しか報告されていない病気だった。発症する人に特徴はなく、共通しているのは、空から飛んできた光を嚥下した……つまり「星をのんだ」という体験をしていることだけだった。症状も様々で、視力を失う人もいれば、心臓の鼓動が不規則になる人もいる。中には脳のどこかがおかしくなってしまう症例もあった。ただ呑星症になった人は、最後には高熱と共に身体がぼんやりと光って死んでいくのだそうだ。まるで、のんでしまった星が身体の内側で輝いているかのように。

 当時の私は焦った。呑星症はこの九年の間にだいぶ世間に知られるようになった病気だが、あの頃はまだ一般的ではなかった。星をのんでしまった彼自身ですら、自分が呑星症の危険を背負ったことに気付いていなかった。私の説明を聞いた彼は、暗がりでも分かるくらい顔が青ざめていった。

「じゃあ、おれ、その病気になっちまったのか?」

 私は彼と向き合って、彼の肩を掴んだ。私が星をのんだのかと錯覚するくらい、体中が熱かった。

「大丈夫。呑星症には十年の潜伏期間があるの」

「でも十年経ったら……」

「私が助ける! 私があんたを治す! 私、呑星症の医者になる!」

 私の剣幕に押されてか、彼はうっすら涙がにじんだ目をまたたかせて、やがて困ったように笑った。

「なんだよ、プロポーズみたいだな。おれが告白しようと思ってたのに、先越されちゃったなあ」


 あれから九年。私は理系の高校へ進学し、呑星症の研究をしている大学の医学部も卒業した。そして、呑星症研究所に医者として正式採用されたのだ。彼の発症に間に合ってよかった。

 呑星症の「星」が一体何なのか、症状に多様性があるのはなぜなのか、まだ分かっていない。もちろん完全な治療法はまだない。研修中、私は、自分が誰なのかも忘れて獣のようになってしまった患者を見た。その患者が、光り輝いて死んでいくのも。

「やっぱり寒いなあ」

 彼が私の手を握った。お互い、まだアルコールが残っているのか、燃えるように、熱い手のひらだった。

 ちらり、と彼の顔を見やると、彼もこちらを見て微笑んでいた。細まった目の中で光がまたたく。この笑顔を一年後、そしてその先も見ていたい。この人を星になんかしない。私は涙が出そうになるのを必死でこらえた。

 少しだけ歪んだ視界には、空と地上の、二つの星空が広がっていた。

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