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子供と死別した事ありますか?

令和2年3月14日に事件が起きて、1週間くらいでICUから一般病棟に移った。
コロナの影響がじわりじわりと一般病棟でも分かる様になっていた様に記憶している。
私はコロナどころではない。
一般病棟に移って最初にした事は何か。
娘の葬儀の喪主としての挨拶文を紙に書きだした事である。
紙とボールペンを貸してくれと看護師に伝え、何に使うんですか?と聞かれたが、書かなきゃいけない事があるんですと怒気をはらんで言った様に記憶している。

私は歯ぎしりがうるさい。

その事で隣のベッドの患者と揉めそうになった。
私の興奮度合いは異常だっただろう、妻がそれとなく看護師の責任者に伝えて、病棟を移った。

点滴をされ、顔面や頭部の傷口のガーゼを変えられ、片足で立ち尿瓶に用を足した。

夜中、カーテン一枚隔てた隣の患者のベッドからはエロビデオの音が漏れて来た。

自分の置かれている状況が全く理解できない。

次々と若い看護師が入れ替わり立ち替わり担当をローテーションする。
コロナの影響なのか、皆が何か慌てている様な感じを受けた。
私に起きた事を皆が知っている訳ではない。
点滴を変える、採血をする、ガーゼを変える、投薬、食事、私は可能な限り行儀よく対応した。
採血に不慣れな新人と思しき看護師に「怖いな」と冗談すら言ったと思う。

しかし、カーテンに仕切られ、出された食事を一人口にする時、食べると言う行為と娘がもうこの世にいないと言う現実に言葉にできない恨めしさを感じ、毎度、声を押さえて泣いた。

病室は何人部屋だったか忘れたが、常に誰かが不満を漏らしている状況だった。うるせえなあと思いながら、天井の一点を見つめた。
しかし、中には気のよさそうな老人もいて、私が車椅子でのろのろと妻や警察との面会に行こうとする時など、笑顔で会釈などされて、私もどうもと会釈を返さない訳にはいかなかった。

狂えるなら狂えた方が楽だったかもしれない。
しかし、人間はここまでの事があっても、そう簡単には狂わないらしい事が分かった。

必ず会釈をしてくる老人のために、私はカーテンの中で涙を拭き、何事も無い表情を作って、カーテンの外へと出た。

早く家に帰りたかった。

リハビリと言うものが始まった。
松葉杖である。
リハビリを拒否するという選択肢はない様に思えた。

1日15分程度、松葉杖の練習をする。
何の意味があるのか。
しかし、抜け殻の様に静かに従った。
松葉杖は一向に上達しなかった。

リハビリを専門とした病院へ転院する事が検討され、その様に指示が出た。

転院の際、それまで明るくにこやかに接してくれていたベテランの看護師が目に涙を浮かべてストレッチャーに乗った私の肩にそっと触れた。
「頑張って」と。
改めて、自分の置かれた状況を再確認した。

転院先へは車椅子に乗って、介護タクシーでの移動が可能な状態だったが、ストレッチャーに乗せられ、救急車で移動した。
まさかサイレンは鳴らさないだろうと思ったが、動き出すと同時にサイレンは鳴った。
私は、自身が気絶から目覚めたらそこは救急車で、訳も分からぬまま揺れが激しく苦しかった事件の夜を思い出した。

転院先までの救急車に同乗した妻は、事件当日、娘の救急車に付き添い、救急車の中で娘が心肺停止した場面を激しくフラッシュバックしていた。

ありがたい事に転院先は個室だった。
しかし、食事は同じフロアの患者皆で食べると言う。
私の自分の名前の札がたったトレーの前へと案内された。
私は周囲の様子に異変を感じていた。
入院患者はほぼ皆、痴呆が入った老人だった。
なにがリハビリ専門だ、やられた、と思った。

目の前に焦点の定まらない目をした80代後半と思しき老人が座っていた。
私は、老人の前から逃げ出すかどうか現実的な判断を迫られていた。
トレーにある食事に一応口をつけてから部屋に戻ろうと思った。
目の前の老人に目を向けると、老人は上の歯の入れ歯が上下逆になっていた。
つまり、上顎の歯茎に入れ歯の歯がガッチリ噛み合っている状況である。
手が不自由らしく、何とか口の動きだけで上下逆を直そうとしていたのである。
なぜか?歯茎が痛いからでは恐らくない。
目の前の食事を食べたくて仕方がないのだと、一目でわかった。
その場には居れないと思った。
娘がこの光景をテレビのコントか何かで見たら抱腹絶倒で大笑いしただろう。
シュールという言葉で到底言い表すことが出来ないグロテスクな光景だった。
私は、静かに自室へと帰った様に記憶している。
その後は個室での食事が許された。

それから午前と午後のリハビリが始まった。
20代前半の若い理学療法士達に、定型のプログラム通りと思われる、筋トレを促され、松葉杖で病棟の廊下をグルグルと回った。

私は身長が190㎝ある。

そんな大男が松葉杖でグルグル回る様子を呆けた老人達が見てるのか見てないのか分からない様な目で、しかし、確実に見ていた。

何か自分が市中引き回しにあっている様な気がした。

早く自室に逃げ込みたかった。

テレビはほぼつけなかった。
それでも都知事が何か会見しているのは見たような気がする。
別の国の出来事の様だった。

私は退院を急いだ。
医者は難色を示したが、押し切った。

午前・午後各30分程度のリハビリが何の役に立つと言うのか。
入院している場合ではない。
そう思った。

退院し、帰宅した。

玄関の外までむせ返る様な百合の花の匂いが立ち込めていた。
我が家に帰ってきた。

娘の部屋は何事も無かったかの様に、そのままの状態だった。
娘はいなかった。
娘の部屋に入り、ただむせび泣く事しかできなかった。
病室にいる頃は実は現実がまだ見えていなかったのではないかと、その時気が付いた。
11年、必ず一緒にいた娘がいなかった。
白い骨箱だけがリビングにあった。

それからしばらくどの様に過ごしたか、あまり記憶がない。
ひたすら弁護士と連絡をとり、裁判例を読んでいたかもしれないし、ひたすらベッドに横になっていたかもしれない。
通院で訪れる近所の整形外科だけが外出となり、後は基本的には家に引き籠っていた。
誰にも会いたくないし、会えなかった。
それは妻も同じだっただろう。
娘が死に、私たちの心も死んだ。そういう日々だった。

コロナの影響で世の中の様相はガラリと変わっていた。
検察や警察、被害者支援センターの動きも止まってしまった。
私達は文字通り隔離された様な状況になった。

その当時は犯罪被害と言う認識よりも、子供が死ぬと言う事の有り得なさに、ただただ立ちすくんでいた。

子供との死別を経験した事がある人の話など聞いたことが無かった。
この状況をどの様に過ごしていけば良いのか、まったく別世界に放り込まれた様だった。
コロナで外界との接触もできない。
死別の分かち合いの会や、被害者遺族団体の全ての活動が止まっていた。
当たり前だろう。マジョリティーの社会活動の全てがコロナで変わってしまったのだから。

どう過ごして良いのか分からない。
取り返しがつかない事を毎分毎秒思い知るだけの日々だった。

妻がグリーフケアについて調べ始め、幾つか本を読み始めていたと思う。
柳田邦男とかエリザベス・キューブラー=ロスとかだったと思う。
キューブラー=ロスは全くダメだった。柳田邦男は少しマシだったが、やはり違った。
そもそも、何のためにこんな本を読んでいるのかと、やり場のない思いに苛まれるだけだった。

ある日突然、子供が死ぬ。
この体験をどうしたら良いのか、全く分からなかった。
子供との死別を逆縁と言うらしい。
瀬戸内寂聴が話すYou Tubeを見た。
世の中にあまたの悲劇はあるが、逆縁だけはどうにも救いの言葉が無いと言いきっていた。

同じ経験をした人の経験談を妻も私も渇望していた。
しかし、その情報にアクセスする事は出来なかった。

淡々と姿を現し始める過失犯という流れ作業の道。
弁護士を変えないと、このまま押し切られてしまう。
弁護士を変える事が、返って藪蛇になるかも知れない。
夫婦の間に生じる疑心暗鬼と衝突、そして、誰を信じてい良いのか分からない孤立感。

すでに拘留期限が切れ、家に帰っているはずの加害者サイドはだんまりだった。
ネットの弁護士情報も加害者側の弁護か民事の話ばかり。
刑事の被害者支援に長けた弁護士の情報は、ほぼなかった。

その様な状況下でたまたま目に付いたのが、若林一美氏の「死別の悲しみを超えて」だった。
調べてみると子供を亡くした親について、長年取り組んできた人だと言う事が分かった。
半信半疑だったが、すぐに本を購入した。

初めて、子との死別にフォーカスした本を読んだ。
詳細は割愛するし、決して救いの本だった訳ではないが、長年一つのテーマに現場で取り組んできた人の名著だと思った。

何度か読んだ。
著者は子との死別の当事者ではない。
しかし、逆にそれが客観的な観察となり、私の腹にすっと落ちた。

率直に言って、子を失った親の気持ちは当事者にしか絶対に分からない。

しかし、緩和ケアをどの様にするかの知見を持っている人はいる。
ただ、当事者が社会のマスから比べれば非常に少数派であり、当事者の性質上、息を潜める様に暮らしている、又はこれまで暮らしてきた事を考えれば、その知見にアクセスする事は容易ではない様に思う。
かといって、当事者だけの問題としてそれを放置する事は社会の受容性としてどうなのか?と言う思いもある。
犯罪被害者の問題についても同様である。

私は答えを見つけたわけではない。
ただ、少しずつ地味にその体験や考えた事を書いていこうかと思う。



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