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記念日反応と「恋つづ」と

事件以来、私はカウンセリングを受けている。

妻は轢かれて倒れている私の姿を見た直後、救急隊員に蘇生措置を受けている娘の姿を見ている。
訳が分からなかっただろう。
ショックや混乱などと言う言葉では到底表現できない状況だったと思う。
その後、娘が運ばれた救急車に妻も乗り、救急車の中で娘が帰らなくなる様を足をさすって見守るしかなった。

この事の精神的な傷は、私も、ちょっと説明ができない。

だから、被害者支援都民センターからカウンセリングについて説明を受けた妻の話を聞いた時、カウンセリングを受けた方が良いと言ったと思う。
穏やかに話したわけではない。
混乱の中、カウンセリングでも何でも受けれるものは受けとけと言う具合だったと思う。

入院中だった私は、妻が娘のどの様な姿を見て、その後何を一人で対応したのか、どの様に苦しんでいたのか、思いやる余裕が無かった。

妻から、私もカウンセリングを受けた方が良いと、警察の被害者支援員の方から促されたと聞いた時、「そんなもんはいらねえ」と言ったと思う。

入院中の私のベッドに精神科の医師が来て、精神的ケアが必要だと何度か言われていた。
私も異常な精神状態の爆発の真っただ中だったのだろう、俺は大丈夫だ、精神的ケアなんか要らないと、「いえ大丈夫です」と拒み続けた。

しかし、約1月の入院を経た退院後、辛くて辛くて仕方がなくなった。
夜は睡眠薬で無理にでも寝る。
眠っていた方が、現実から逃げられた。

朝が辛い、とにかく、朝が辛い。

また今日も娘が居ない現実が始まると思うと、その事がとにかく辛い。

辛くて辛くて、その精神状態を誰か話が分かる人に打ち明けたかった。
そこで、私もカウンセリングを受ける事にした。

入り口で色々無かった訳ではないが、結果的に、2年と言う月日をかけて、カウンセラーの先生には抱えている気持ちの全てを話す事が出来た。

最初にカウンセラーの先生に説明を受けた話で恐ろしかったのは、記念日反応の話だった。

娘の、誕生日、クリスマス、受験するはずだった中学受験シーズン、卒業式、そして命日。
これらの日を迎える事が大変に苦しいと事前通告を受けた。(犯罪被害者遺族の多くがその道を辿ると)

娘を失って初めて迎える誕生日、クリスマス、それはそれは辛いものだった。

カウンセラーの先生からは、命日が一番辛く、統計的には1年目の命日が苦しみのピークだと聞いていた。(これは個人差があると思う)

初めての誕生日、クリスマス辛くて辛くて仕方が無かった。
命日はこれより辛いのかと、その日をどの様に迎えれば良いのかと怖くて仕方が無かった。

2021年3月14日、初めての命日は日曜日だった。
絶対に職場でその日を迎えたくないと考えていたので、日曜日だった事に安堵したのを覚えている。

事件が起きた午後8時45分の少し前に妻と現場に行った。

1年が経ってしまった。
そう思った。

2回目の命日。
2022年3月14日、私と妻は法廷で加害者に向けて心情を述べた。

その夜、また午後8時45分の少し前に妻と現場に行った。
現場には、どう考えても娘の同級生の保護者とは思えない若い男性が立っていた。
少し報道が出始めていたので、警戒心を持って近づいた。

塾の先生だった。
その先生は2021年2月の受験が終わった後、娘の塾のクラスメイトの女子3人と我が家に来てくれた先生だった。
律儀に午後8時45分に合わせて現場に来てくれたと聞き、少し驚いた。

2023年3月14日。
昨日の事である。
飼い犬を連れ、また午後8時30分くらいに家を出た。
「Y先生が今日もいたりして」私はそれは無いだろうと思いつつも、妻にその様に話し、昨年の事を思い出していた。

現場に行くとY先生は居た。

受験後に我が家に来てくれた女子3人のうちの1人の子も一緒に居た。

今年もありがとうございますと先生にお礼を言い、もうすぐ中3になると言う女子にもありがとうございますと言った。
女子は162㎝になったと言う。
娘と同じ歳の少女と話すのは久しぶりで、気が利いた事は何も言えなかった。

妻とY先生ともうすぐ中3になる女子と4人で午後8時45分を迎えた。


今日、妻が飼い犬の散歩の際に、現場に寄ったと言う。
以前は妻だけで現場に近づくことはできなかったが、飼い犬が居ると何とか行ける。
そこで、昨日現場に来てくれた女子から娘に宛てた手紙を見つけたと言う。

自分に置き換えてみれば当たり前の事だが、10歳、11歳、12歳と成長していく中で、親が知らない世界を子供は持っている。
子供なりに社会性を身に着けて行く過程を、実は、親は殆ど知らない。
気が付いたら成長していたと言うものだろうし、親だって、自分の事で精一杯で、何かのきっかけが無ければ子の成長を噛みしめる事など滅多にないだろう。(少なくとも私はその種の親だった)

その女子から手紙を読ませて頂いた。

私も妻も知らない、娘の一面が綴られていた。

私がまだICUに入院中だったとき、娘の亡骸は我が家に帰って来た。
リビングでは温度管理が難しく、私の部屋に娘を寝かせたと言う。
大好きだったリカちゃん人形に囲まれた娘の写真を、後日私も見た。

私の部屋のエアコンを18度に設定し、部屋を冷やし続けたと言う。

当時、娘が最も夢中になっていたのは「恋つづ」であった。
上白石萌音と佐藤健のドラマだった。
親が仕事で居ない時間に「恋つづ」を見るのが堪らなかったらしい。
同級生の女子と上映会的なものもやっていたらしい。

2014年、娘の保育園最後の年に上白石萌音の映画デビュー作「舞妓はレディ」を娘と2人映画館に見に行った。

「恋つづ」はあの子が出てるのか程度の認識であった。

何よりも楽しみにしていた「恋つづ」の最終回は2020年3月17日。

妻は、18度のエアコンで冷え切った部屋で毛布をかぶり、スマホアプリで娘に「恋つづ」の最終回を見せたそうである。

言葉に出来ない時間。


その女子からの手紙には「恋つづ」のエピソードが書かれていた。
娘達は本当に心から「恋つづ」を愛していたのだろう。

エンディングのOfficial髭男dismの「I LOVE...」を聴くと、今も耀子ちゃんを思い出す。絶対に忘れない。

そう手紙には書いてあった。

事件以来、我が家では聴く事を避けていた「I LOVE...」を初めて、一人、YouTubeで聴いた。







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