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『アンダーグラウンド』(1995)

『アンダーグラウンド』(1995)
エミール・クストリッツァ監督

カンヌ国際映画祭パルムドールの作品なので、知っている方は多いと思いますが、もう26年も前なんですね…

当時、(と言っても劇場ではないけども)、友人に勧められてビデオを借りて観たのが20歳前後なのかな…
ものすごくインパクトのある作品だったこともあり、最近ブルーレイを購入しました。

改めて観直してみると170分があっという間で、面白さは変わりませんでした。
しかし、当然ながら若い時分とは違い、知識もそれなりに増えたので映画から感じたことは異なるようです。

ユーゴスラヴィアが抱える悲劇を扱いながらも、全体は喜劇で進行し、歴史的な事実よりも人間ドラマを象徴的に描いているので、『ああ、そうだよな』と思うところがたくさんあります。

二つの戦争(WWⅡとユーゴ内戦)とその間を埋めるチトーというカリスマの存在が、その時代に生きた国民にどのような影響を与えたのか、という客観的事実と、人間が”生きる”ことの意味を問う実存的な問題がうまく絡ませており、リアルとフィクションの妙を楽しむことができます。

人を欺くことの裏に”愛”が存在した場合の是非や、罪の自覚と責任の取り方、”演じる”という行為の虚構と現実の境界など、深いテーマが盛り込まれています。

アンダーグラウンドとは文字通り地下のことで、戦争から身を守るための地下生活が一つの舞台にもなっています。


※以下よりネタバレあります。

今回の見直しで印象的だったのは水中のシーンです。
地下生活場所にも井戸があり水の存在が随所に出てきます。

ラストシーンの手前、主人公のクロは絶望的な虚無を漂わせながら、行方を捜していた息子を井戸の中に発見し、誘われるように吸い込まれ大海に出ていきます。そこでこれまでの死んだ仲間たちと出会います。

地下の更に下、それが水中だと思います。
水は生命の源ですが人間は水の中では生きられません。
水中ではたくさんの自由が奪われますが、それは人間の地上での支配が及ばない場所ともいえます。
そこは一種の異次元でもあり、現実と夢が交差する場所のようにも思えます。

そんな水中でかつての仲間や息子を産んで亡くなった妻も現れ、やがてある島へと上陸します。
そこでは息子の結婚式のやり直しが行われており、賑やかな演奏をバックに楽しそうな宴会が催されています。
クロたちを地下に閉じ込め、武器を作らせ続けた”親友”のマルコや魔性の女ナタリアも復活して許しを請います。
そうして島は彼らがいる部分だけを切り離されていきながら終わりを迎えます。

政治的な、というか戦争がなければこれほど人生は豊かで楽しいはずなのに、そんなメッセージを受け取りました。
単純なテーマといえばそうですが、ユーゴスラヴィアという複雑な国が辿った歴史の中で生きた人々を描くことで、それは説得力を持つのです。

映画のオープニングは

『我らの父たちと子供たちに』
『昔ある所に国があった』

というテロップから始まる。

そしてラスト、イヴァンがカメラ目線で語る。

『ここに赤い屋根の家を建てる。煙突には鳥が巣を作る。客たちを迎える門は広い。恵みを与える大地には感謝を忘れまい。花咲く野は祖国の織物を思わせる。
だが、苦痛と悲しみと喜びなしには、子供たちにこう語り伝えられない。”昔ある所に国があった”と』

ユーゴスラヴィアという国は内戦が起こって解体されてしまったが、チトーというカリスマがいた頃には国として存在した。
そのことは、人種が違えどもひとつの国家として存在できるというエビデンスでもあり、希望でもあるのだと言っているようでした。
地下生活者の連帯、もあるかもしれません。
しかしそれはある熱狂や一つの目的があったから存在しえた、とも言えます。
イヴァンが離れていく小島で語るこの部分は、
”結果として人間はそこまで賢くなかったから国は分裂してしまった。それでもかつてそういった国が存在したことは語り継いでいきたい。苦痛と悲しみと喜び、とは人生そのもの。国を作るのも維持するのも人間なんだ”
といったメッセージがあるように思えました。

そこには寛容さ、というのもあるかと思います。
より高度にシステマティックな管理社会となった今の世界を見渡すと、人間が何によって動かされているのか、そしてそれによってどんどん寛容さからは離れていっているように感じます。


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