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ラノベを10数年間読んだ女が思うラノベの死

思えば、ライトノベルというものにハマってから10 数年が経過しようとしている。
様々なライトノベルが生まれ、完結し、時には作者の都合で完結しないこともあった。

ここで言うライトノベルとは、男性向けの小説のことである。
例えばスニーカー文庫やMF文庫J、ファミ通文庫などのレーベルから出版されている文庫本のことだ。
主に男の子が主人公かつ可愛い女の子がたくさん出てくるような小説で、対象年齢は中学生から高校生といった、思春期真っ只中の少年向けだろう。

そんなライトノベルを、小学3年生から社会人になった今まで読み続けている女はなかなか気持ち悪いのかもしれない。

始まりは、母親が手にした1冊の本だった。

今でも覚えている。

横浜のららぽーとへ家族と遊びに行き、その時に立ち寄った本屋で母親が勧めてきたのだ。
表紙の中で、桃色の髪色をした女の子が、図書館のような場所で脚立のようなものに座り、大胆不敵にこちらに微笑みかけていた。

私を2次元に突き落とした諸悪の根源


ゼロの使い魔だった。

当時9歳だった私は、これがどういった類いの小説か知らなかった。ライトノベルだとか、純文学だとか、古典作品だとか、児童文学だとか、とにかく小説に種類があることを理解していなかった。だから表紙を見た時には、ただ可愛い女の子が登場するんだな、くらいにしか思わなかったと記憶している。もちろん母親も、小説の種類を把握しておらず表紙から子供向けと判断したのだろう。

小説のあらすじは以下だ。

「あんた誰?」――才人が目を覚ますと、可愛い女の子が才人を覗きこんでいた。見回すとあたりは見知らぬ場所で、魔法使いみたいな格好をしたやつらが、才人と女の子を取り囲んでいた。その女の子・ルイズが才人を使い魔として別の世界へ「召喚」したらしい。訳がわからず面くらう才人に、ルイズは契約だと言って、いきなりキスしてきた。俺のファーストキス! と怒る間もなく、手の甲にヘンな文字が浮かび、才人は使い魔にされてしまう。仕方なく、ルイズとともに暮らしながら、元の世界に戻る方法を探すことにした才人だが……。才人の使い魔生活コメディ!
ゼロの使い魔  1巻

読めばわかるが (というより表紙を見れば今ではわかるが)、ライトノベルのあらすじである。
しかし先程書いたようにそんな知識も無かった私は、やはりただの子供向けの小説としか思わなかった。表紙を開いて一発目にくる、ラノベ特有のちょっとエッチな女の子が描かれているポスター的な絵を見ても特に何も感じなかった。

肝心なストーリーは、今思えば男の子向けであると断言できる。いや、ストーリーというより設定やキャラクターがそうなのだろう。

なぜなら、主人公の男の子を中心に、可愛い女の子たちが取り巻いているからだ。
そして、そんな周りの女の子たちは主人公を好きになるのだ。ラノベにはそういう法則がある。どんなにクズだろうと、どんなにキモかろうがとにかく主人公というだけで女の子たちは主人公に惚れるのだ。

どう考えても男の子向けの設定である。

もちろん、ゼロの使い魔も例に漏れずその類いだ。
ヒロインのルイズを初めとした女の子たちが、主人公の才人に惹かれる。才人は才人で、ルイズがいながらも別の女の子に惹かれたりして、様々な場面で三角関係どころか四角関係や五角関係を作り出す。

私はすぐにゼロの使い魔の世界にのめり込んだ。
上記のハーレム設定も面白かったが、それよりも物語に惹かれたのだ。異世界に飛ばされた平凡な男の子が、魔法の世界で活躍する内容は子供心をくすぐったし、細かい伏線に加えて謎を追ったりなど、のめり込むには十分な内容だった。

そこから私は、他のライトノベルにも手を伸ばした。涼宮ハルヒ、神様家族、とらドラ!、灼眼のシャナ、あそびにいくヨ!...
挙げたらキリがない。
見事に男の子向けの小説である。
そのため、私の周りで私以外の女の子でライトノベルを読んでいるような子はいなかった。

それに加えて、上記のコンテンツは"オタク"が見るもの、というイメージが付いていたことも挙げられるかもしれない。

当時のオタクのイメージは、いわゆる"アキバ系"である。チェックシャツを着て頭にハチマキを巻き、ヲタ芸を披露するような人たちだ。
そういった人種は上記に挙げたアニメや漫画、ライトノベル、それ以外の2次元コンテンツを消費する大人の男性たち、もしくは学校で"陰キャ"と分類されるような男子学生たちだと思っていた。
失礼な話だが、当時の私はライトノベルを読む男子学生は陰キャのイメージを持っていた。自分も読んでいたから当てはまるはずなのだが、そんなことは棚にあげてそんなことを感じていたのだ。
ただ、陰キャかどうかは別にして、大人しい子が読んでいたことは合っているように思う。そういう子はライトノベルだけではなく、アニメから漫画、はたまた幼児向けのコンテンツを嗜んでいる者もいた。

とにかく、小中時代の私のオタクのイメージはそんなものだったし、2次元のコンテンツといったサブカルチャーはそういった人達が消費する娯楽というイメージがついていたことから、周りで見ている人たちは少なかったように思う。
(女の子限定で言うなら、腐女子的なオタクはたくさんいたが今回の趣旨とは異なるため省略する。)

さて、ここまで長々と書いて何が言いたいかというと、ライトノベルが閉鎖的な空間で消費されていたコンテンツだということである。今までの私の意見から行くと、ライトノベルは大衆向けのコンテンツとは言い難いと言ってもよいはずだ。それもそのはず、サブカルチャーなのだから当たり前である。つまり、非常にコアな層に向けたコンテンツと言えるだろう。今はネット上でも見れるようになったため、比較的昔に比べてコアな層以外も見るようになったが、それ以前はやはり非常に限定的だった。

そして私がライトノベルに対して違和感を感じるようになったのは、2010年頃からだった。

涼宮ハルヒのアニメ化をきっかけに、ライトノベル原作のアニメが深夜アニメとして放映されることが増えたように感じ始めた頃である。

当時の深夜アニメといったら、大人向けのアニメというイメージだった。例えばちょっとエッチなシーンがあったり。ちなみに私が初めて見た深夜アニメはToLOVEるである。夜中になかなか寝付けず、テレビをつけたらたまたま放映されていたのだ。ああ、アニメか、くらいにしか思わず、ボーッと見ていた。そして暫くすると、思春期くらいの男女が裸で一緒に露天風呂に入るシーンに移行。それはそれは、小学6年生の少女には刺激が強かった。その影響で、深夜アニメはエッチなアニメを放送するというイメージがついた。

つまり深夜帯に放映されるアニメは、ゴールデンタイムに流すには刺激が強いもの、またグロテスクだったりテーマが大衆向けに流すには向かないもの、というものである。

ライトノベルもサービスシーンとしてお色気場面が登場し、また大衆向けのコンテンツではないため、深夜アニメとして放映するにはぴったりなのだろう。

しかし、涼宮ハルヒの登場により風向きが変わった。

可愛らしい女の子たちがEDで音楽に合わせて踊る。もちろん本編の面白さもさる事ながら、斬新なEDと軽快な音楽で話題になった。それを皮切りにライトノベルのアニメ化、またその視聴者数が増えたように思う。

つまり、大衆向けコンテンツ化への過渡期である。

何度も言うが、涼宮ハルヒの本編もなかなか攻めた内容で(同じストーリーを数話に渡って放映するなど)面白かったが、それよりもアニメのEDや音楽に目を向けられるようになったのは涼宮ハルヒがきっかけだろう。深夜アニメのアニソンがカラオケの上位を占めるようになった。私が高校生になる頃には、軽音部がアニソンを文化祭で歌っていた。非常に盛りあがっていた。

ここから、音楽などによってアニメが注目を浴びるようになったと思う。

そして同時期に、小説家になろうが流行るようになった。

もちろん昔からあったのだろうが、流行りというものに関しては私の感覚的には2010年前後のように思う。
そこから、なろう系と呼ばれる小説のジャンルが出来上がった。

私が思うなろう系は以下である。

・異世界転生/転移
・俺TUEEEE系/チート系/最弱だけど最強系主人公
・スローライフ

ざっとこんなもの。
上記は男性向けのライトノベルで比較的よく見るジャンルに絞ったものだが、もし女性向けも挙げるとしたら、乙女ゲームの登場人物になることが特徴と言えるだろう。逆ハーレムや嫌われ主人公が多い。

小説家になるためには以前は出版社が主催する新人賞的なものに応募をする必要があったが、小説家になろうなどのWebサイトの流行により、誰でも簡単に小説を投稿することができ、運が良ければ書籍化だ。しかもWebサイトの小説は無料で読めるためわざわざ本を買う必要もなくなり、読者がいつでもどこでも読めるようになった。
そうなってくると様々なWeb小説が乱立し、web小説戦国時代の突入である。
PV数を稼ぎ、週間ランキング上位を狙う。
今までの小説の在り方とはまるで違う。

ここで顕著になったのは、ジャンルの飽和化だ。誰でも簡単に小説家になれるということは、数多の小説が生まれるということである。その中の数作がヒットし、更に運が良ければアニメ化まで漕ぎ着けることができる。その中でヒットしたものが、先程挙げた異世界転生などのジャンルである。そこから異世界転生などの物語でライトノベルは溢れかえったように思う。

そして、その事態が生み出したのは設定/物語のワンパターン化、またファストフード化である。

当たり前だが、異世界転生系など特定のジャンルが流行ると同じ設定の小説はn番煎じ的な状況になり、物語の先を予想しやすくなる。そこでn番煎じを脱却するために付け加えられた設定がまた流行り、そして同じような設定の小説がまた生まれ......とループを繰り返す。その結果、なろう系のジャンルが確立されるようになった。

設定/物語のワンパターン化である。

そしてWeb小説を読んでいてふと思ったことが、各キャラクターのバックボーンを深堀りしないということだ。いやそんなことねぇよ、と思う人がいたら申し訳ないです。私が読んだ小説の多くがそうだったという話。

なんというか、わかりやすいキャラクターが増えたなと。
善悪がはっきり別れたキャラクターが目立つ。
ディズニーアニメだとそういうキャラクター設定が多いが、Web小説もそのような設定が多いように見えた。
悪は悪、善は善。
そうであることが望まれるのだ。
そのキャラクターがなぜそうなったのかの経緯は書かれないか、もしくは書かれてもアニメにすると1話、2話で終わるような内容だ。とにかくバックボーンが薄い。
それはサブキャラだけでなく、メインキャラクターも同じだ。メインキャラクターですらテンプレート化されてしまい、キャラクターの深堀りよりも俺TUEEEEやチートの爽快感が優先されているように感じる。
(例としてタイトルを挙げてしまうと作品批判のようになってしまうため、それは控えようと思う。)

これがライトノベルのファストフード化である。

いや、ライトノベルなんて元からファストフードみたいなもんじゃんと言われたらそれまでだが、ここで言うファストフードはキャラクターの簡略化である。
わかりやすいキャラクターを配置することで、細かい説明を省くことが可能だ。それはバックボーンであったり、キャラクター同士の関係性であったり、キャラクターの思考そのものであったりする。
ではわかりやすいキャラクターとはどんなキャラクターかと言うと、ディズニーアニメで例えるなら美女と野獣のガストンのような存在だ。
ガストンがなぜ悪者なのかを描いたりはしていない。なぜ性格が悪いのか、ガストンの思考がまるで見えない。
それは子供向けコンテンツのため、悪者としてわかりやすいキャラクターを配置しているのだとわかる。そういう役回りを演じるように、決まっているのだ。そこには理由など存在せず、そうであるように決まっている。
ガストンは野獣とベルに立ちはだかる敵として存在し、最後には崖から落ちてしまう。悪者は成敗される、もしくは自業自得な非業な最期を迎えるのだ。そして野獣とベルはめでたく結ばれ、幸せに暮らす。
この物語のテーマは愛だ。
ディズニープリンセスの多くは障害を乗り越え、永遠とも思える愛を手に入れる。その愛を際立たせるための役回りとして、わかりやすい悪者、わかりやすい協力者、わかりやすい理解者が配置される。やはり、理由は存在しない。

これと同じような現象が、昨今のライトノベルにも発生しているように見える。

俺TUEEEEやチートで得られる爽快感を端的に示すための役回りとして、バックボーンが大してないキャラクターを悪者として配置し、それは当然のように倒される。
もちろん俺TUEEEEやチート系の主人公ばかりではないことはわかっているが、それでもわかりやすい役回りをするキャラクターを配置するのが流行りなのだろう。

つまり、キャラクターを簡略化することで物語のスピード感を生み出し、簡単に爽快感や達成感を感じられるようになっている。キャラクターに対する理解をあえて失わせることで、手っ取り早く爽快感を手に入れられるのだ。

加えて、先程書いたようにライトノベルのアニメ化が目立ち始めたことで、それが更に加速した。

アニメは一定期間だけ放映権を獲得し、その期間にアニメを放映する。特に深夜アニメがそれにあたる。
だいたい全12話だとかそれくらいだろう。
そうなってくると、12話で物語を収める必要がある。しかし原作がシリーズものだと、全12話で収めることが難しい。2期、3期と続くならいいが、そうとも限らない。そうなってくると端的でわかりやすい物語が求められるのかもしれない。

私は別にアニメ化の事情に詳しいわけでもなんでもないが、なんとなく、そんな気がする。

そうしてアニメ化されると、全12話でわかりやすい物語が手に入り、頭を使うことなく享受することができる。
なんとも簡単で簡素なものだろう。

ところで、私は就活のときに某出版社のインターンへ行ったことがある。恐らくライトノベルレーベルを一番抱えているであろう出版社だ。(あえて伏せさせてもらいます。)

そこで編集者の方に言われた言葉がこれだ。

「最近の子達は、何者でもない自分になりたい、また現実から逃避したいということから異世界転生系の物語を求めます。そこで強い力を手に入れ、無双することで爽快感を得ます。近年は俺TUEEEE系やチート系が流行っていますが、それは子供たちが手っ取り早く爽快感を得たい、また学業や様々な重圧から逃れたいためにチート的な力を手に入れて楽に生きたいという願望があります」

意訳するとこんなもの。

この時に、私ははっきりと、ライトノベルが死んだと悟った。
愕然とした。
主人公が葛藤し、時には負け、時には勝利し、時にはヒロインと恋をするかつてのライトノベルは求められてないのだ。
当たり前だ、今の若者がそれを望んでいないのである。

私のライトノベルは死んだ。

もはや私は懐古厨でしかなかった。
ライトノベルのテンプレート化とファストフード化についていけてない、ただの懐古厨である。

私がライトノベルに対して感じていた違和感は、ただ世間の波に乗れず過去を彷徨う亡霊だったというわけだ。

ライトノベルのテンプレート化とファストフード化。

そうなってもなお、私は結局ライトノベルを読んでいる。
20歳を過ぎ、そろそろ20代後半になろうと言うのに、簡略化された物語を読んでいる。

私のライトノベルは死んだ。

それを忘れた頃に偲び、繰り返し読み続ける亡霊だ。

こんなn番煎じの思いを書いてる私も、結局ファストフード化された人間なのだろう。





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