天地反転

Live in Dead ~気道確保~

「死にたい」とか「私には生きている価値がない」などとのたまう人々が苦手だ。その裏のナルシシズムと、それ以上の同属嫌悪によって。強く同意する自分がいるから、辟易する。何度も聞いたセリフだ。もう、お腹いっぱいなのだ。聞きたいのは歓喜の声だ。感動のすすり泣きや笑い声だ。
(大丈夫、問題ない。今日の私も平常運転で、特に感傷的になっているわけではない)

「明日死んでいても構わない」

類は友を呼んでしまうので、私の後輩や弟はこんなことを言う。

「痛い思いして死にたいとかは全然思わないんですけど、今日寝て明日の朝自分が死んでたら良いのになと毎日思ってます」

「明日の朝地球に隕石が落ちて死んでしまってても仕方ないことだよね」

積極的に死を迎えたいのとは違う、「死にたい」というよりも「生きていなくてもいい」という生への消極性。私が生きる理由を問うた時の友人の答え

「人生なんて暇つぶしだって考えれば良いんじゃない。考え過ぎだよ」

も同様の匂いを感じる。これは私の周囲だけの考えだろうか。根暗な私たちしかこんなことを思う人間はいないのだろうか。では、

問おう。あなたの生きる理由とは何なのか。

お金?
名声?
愛情?
経験?
幸福?
『ワ○ピース』の結末を見届けること?
再来週、そしてその後も開催されるであろう乃木○46のライブを見るため?
明日のデートに行くこと?






どれも魅力的な生きる理由だ。では、

さらに問おう。それは死なない理由足り得るのか。

それがなかったらあなたは死んでしまえるのか。「Yes」と言える人がどれだけいるのか。
私はどうしても一流の物語作家になりたいと思っているし、陸上競技者として到達したい場所があるし、いろんな人と会って話がしてみたいし、様々な場所を訪れてみたいし、大切にしたい人だっている。

でも、そうだとしても、もし今日の夜布団に入り明日の朝意識がなくなってそのままあの世行きだったとして、それを「仕方がない」と思えてしまう。それは願望が弱いから、本気ではないから、という解釈も出来るだろう。
でも、

たった一秒 生きる為に いつだって 命懸け 当たり前だ
BUMP OF CHICKEN 『sailing day』より

ではないのか。私たちは命懸けで生きている、それなのになぜ。

死を実感したことがあるか。

ヘモグロビンな空

「死にたい」という人を批判する際にしばしば取り上げ論じられるのが「生きたいと思っている人だっているのに」という意見だ。これは当事者の状況を考慮していない暴力的な意見ではあるが、まったくもって正論である、とは言えよう。

現在の日本社会では、ほとんどの人間がまず死を実感することがない。銃弾が頭上を飛び交っているわけではないし、爆弾やミサイルが近くに着弾することもない。食料がまったくなくて明日餓死するかもしれないということもほとんどないだろうし、飲み水に困って小水を口にすることもない。豚肉や鶏肉が彼らを殺して得られたということを意識したり実感している人がどれだけいるか。

それは幸福なことだ。しかし一方で私たちは死ぬことから遠ざかり過ぎて、死なないこと、言い換えれば生きることとはどういうことだったのか分からなくなっているのかもしれない。

生と死の境界が消えている。

生きることを知らない私たちは、明日死んでしまっている可能性を容易に許容出来る。なぜならそれは、そもそも死んでいること、生きていないことと同義だから。

ホメオスタシス。生物は恒常性を嗜好し、変化を避ける。本来広大だった生と死とを分ける三途の川は、今やコンクリートで固められた矮小な側溝になってしまった。私たちはもはや死んでいるに等しい。

しかし、強烈な感情や感動を抱いた時、あるいは一心に感じようとする時、私たちは生を取り戻すことが出来ると思う。その時私たちは「死んでしまっても構わない」と思う余地がない。友人と酒を酌み交わし、バカ話で笑い転げている間は死んでしまいたくない。一心に机の表面を撫でてその手触りを感じていると涙がこみ上げてきそうになる(嘘だと思うなら一度やってご覧なさい。生きている不思議が胸に迫ってくるはずである)。

血の沼地にはまった私たちはそうして息継ぎをし、天国につながるという蜘蛛の糸の一端をほんの束の間みとめることが出来る。そう、限られた時間は。

仕方ないけど、生きる。

空を背負う

さて、限られた時間しか生を捉えられない私たちはどうしてこれまで投げ出さずに来たのだろう。そして投げ出せなかったのだろう。

それは、他人がいたからだと思う。

高校時代、人間不信に陥って死にたいと思った時、ストッパーになったのは自分が死んだ時にかかるであろう葬儀費用だったし(今では笑い話だが当時は真剣だった)、今生きているのも、自分の代わりはいくらでもいるけれど、いなくなれば迷惑をかけることになるからだ。

明日ふっと消えてしまっても私は何も困らないけれど、誰かはきっと困る。自分個人のために死なない理由のない私たちは、もう他人のために生きるという理由しか持ち合わせていないのだ。
仕方ないけど、生きなければならないのだ。

私たちのために、生きてほしい。

雲爆ぜる

だから、あなたには生きてほしい。私たち人間は生きるために他人が必要なのだ。それは助けてもらうためであり、助けることで助けられるためだ。「死にたい」と思ったり「自分には価値がない」と思ったりしても、誰かのために「仕方がない」と諦めて生きてほしい。

私たちはあなたが鬱陶しく、愛おしく、嫌いで、そして大好物だ。

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