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面白庭小噺(ハサミ)

 今、僕は転職を考えている。というのも、問題はよくある話、上司との関係にあるわけで。
 鈴木はあと数年で還暦を迎える(正確な年齢は聞いたことがない。聞きたくもない)というのに、未だ課長の職位に甘んじる情けない男だ。いつも猫背で歩く時は前屈み、ワイシャツとネクタイはよれよれで、何を食べているのか痩せぎすなのでスーツが入学したての中学生のようにぶかぶかである。おまけに頭は禿げ上がり、眼鏡の奥の小さな目がいつもきょろきょろと周りを気にしている。
 僕は彼直属の部下で文房具の営業をしているのだが、外回りではしばしば鈴木と一緒になってそのたびにそばにいる僕の方が恥ずかしくなることが多い。営業をかける商品を忘れてきたり、「道を知っている」と言っておきながら道に迷ったり。最もやめてほしいのは駅のホームで傍若無人な大きな音を出してくしゃみをすることだ。一斉に駅中の視線が集まるあのバツの悪さは我慢がならない。

 鈴木は社内で密かに“ハサミの鈴木”と呼ばれている。それはもちろん彼がハサミの営業に長けている、というのではなくていつもハサミを持ち歩いているから、というのと、もう一つ理由がある。そちらが元々の理由だと言われているのだが、僕は誰かが冗談で言った作り話だと確信している。
 なんと彼は若かりし頃地元の不良グループで頭を務め、喧嘩にめっぽう強くその恐ろしさから“ハサミ”と呼ばれていたというのである。初めてその話を聞いたとき、僕は思わずビールを吹き出し意中の同僚に嫌われてしまった。まさかあの鈴木が殴られるのではなく殴る側だったなんて信じられるはずがない。彼はハサミはハサミでも切れないハサミ、とどのつまりただの役立たずなのだから。

 僕は今日、仕事終わりに辞表を提出するつもりだ。この男の下にあと一日でもいることになればその無能が自分にも乗り移ってくるような気がするからだ。今日も鈴木と外回りの予定だがどうせ最終日、なんとか乗り切って辞表を叩きつけてやる。
 社の外に出ると早速鈴木は「トイレに行ってくるのを忘れた」と言って僕に先へ行っているよう指示してきた。言われずともそのつもり、僕は新商品のサンプルを詰めた鞄を持ち直し最寄り駅へと向かった。西から黒雲が流れてきていて雨が降りそうだったので僕は幾分駆け足で移動した。
 数分後、思ったとおり雨が降り出し僕は近くの軒先に入って雨宿り。鈴木はきっとあのバーコード頭をめちゃくちゃに乱して雨の中を走っているに違いない。それを思ってほくそ笑んだ自分はさすがにひどい男だと思ったけれどそれも鈴木の自業自得だ。
 時間を確認してそろそろ電車に乗らなければ取引先との約束の時間に間に合わないと思った頃だった。激しい雨の音を貫いて、女性の悲鳴が聞こえた。ただ事ではないと思った僕は軒先を出て声の聞こえた方向に向かった。すぐに全身びしょ濡れになる。ひどい雨だ。
 路地の奥、袋小路になっている場所で男二人と女がもめているのが見えた。ガラが悪くかなり体格のいい男が二人でスーツ姿の女を壁の方に追い詰めている最中だった。漫画のワンシーンのような状況に僕は愕然とした。
「私これから会社に行かなきゃいけないんです」
「会社なんて一日二日休んだってどうってことないだろう」
「俺らも今日は休みなんだ。いや今日もか。明日も明後日もいつまでも」
 男たちは自分たちの言い草がいかにも面白いという風に腹を抱えて笑った。僕は瞬時に身を翻して物陰に隠れた。まだ見つかってはいないらしい。自分の体を見下ろしてみる。雨のせいでスーツが貼りついて体の形がよく分かる。長距離走をやっていた私は線が細く、今はそこに余計な脂肪がついてクラゲみたいな有様だ。
「どう考えても無理でしょ」
 僕は独りごちてもと来た道を帰ろうとした。そもそも約束の時間までもうすぐだ。きちんと仕事をする、時間を守る、ことは美徳である。何も後ろめたいことはない。
「困っている人を助けることは大切なことだよ」
 どきりとして僕は振り返ってしまった。一人、増えている。大男二人が増えたもう一人を睨み下ろしている。加わったのは猫背のバーコード頭で、二人に終始頭を下げている。だがその口調は堂々としていて頑として退くつもりは無いように思えた。それはあの鈴木だった。
「どうか頼みますよ。これから取引先に行かなきゃいけないんだけど、駅までの道が分からなくて。お兄さんたちこの近所に住んでるんでしょう。道を教えて下さいよ」
「うるせえよおっさん。こっちはお仕事中なの。おっさんの手伝いなんてしてる暇ないのさ」
「そうさ。自分の責任は自分で取る。それが当たり前だってお前らおっさんたちが言ってることだろうが。自分の道は自分で探しな」
 二人が鈴木にかかずらっている間に女性がするりと抜け出しこちらへ走ってきた。僕は慌てて建物の影に隠れてやり過ごした。彼女を無視しようとした手前、見つかってしまうのは恥ずかしかった。
 だが、それが悪かった。とっさに動いたために段差に足を取られつんのめるように路地の方へ飛び出てしまった。それは女性を受け止める形になって、驚いた彼女は悲鳴、僕は男たちの注意を引いてしまうことになった。動じている僕の様子から女性は彼らの仲間だとは思わなかったようだ。助けてくださいと僕を盾に後ろへ回り込む。
「おお、そこのお兄さん。ちょいとその女を捕まえていてくれないか。用事があったっていうのに逃げてしまおうとするんだ。手伝ってくれよ」
 にやにやと近づいてくる男たちに僕は頭を抱えたくなった。膝から力が抜けて腰はへっぴり。漫画で同じようなシーンを見るたびに僕はかっこよく不良たちを退けてしまうイカした自分をイメージしたものだが、現実はこうだ。今すぐにここから逃げ出してしまいたい。女性を差し出せば許してもらえるならそうしたい。
 だけども、心はそう望んでも体が追いつかない。僕の体は固まってしまって、まるで壁になって彼女を守ろうとしているように見えてしまった。男たちはいやらしい笑みを消し、眉間に深いしわを作る。
「おっさんもガキも、どいつもこいつも。こっちはいろいろとムカついてるんだよ。いい加減にしねえといいか、ああ?」
 男が僕の胸ぐらを掴もうとしたときである、がちゃっと重い音がしてもう一人の男がきゃっと飛び上がった。そしてもう一度同じ音。振り返った男は素っ頓狂な声を上げる。
「何脱いでんだお前」
 そんな彼のズボンが下にずり落ちる。とうとう実力行使に入ろうとした男たちから女性が逃げる。しかし呆気にとられたのは僕だけではなかった。地面には重そうなベルトのバックルが。そのバンド部分はきれいに切れていた。
「おお君か。ちょうど良かった。駅までの道を忘れてしまってね。一緒に行こうじゃないか」
 離れたところで濡れ鼠になっていた鈴木は満面の笑みでこちらへのそのそと駆け寄ってくる。男たちの肩をぽんと叩き
「それじゃあ私は彼と駅へ行くよ。手間取らせて悪かったね」
と言って僕の背中を押して彼らから遠ざかる。心配になって後ろへ視線を移すと案の定男の腕が伸びてきたけれどもう一人の男に止められた。彼はぶるぶると震えていて顔も真っ青だった。雨で濡れたせいだけではないようだ。「やめといたほうがいい」
 耳打ちされた男も急に顔色を変えて腕を引っ込めた。彼の鋭い目が揺れて、それから彼は深くお辞儀をした。僕たちが見えなくなるまでずっと。

 改札を抜け、駅のホームに入った僕たちはずぶ濡れになったスーツを絞り、鞄の中に入っていたハンカチでいくらか髪を拭いた。そのとき一本のハサミが下に落ちた。
「やっぱりあれは課長の仕業だったんですね」
 鈴木はイタズラのバレた少年のように舌を出し、「バレた?」と笑った。
「私も少しは役に立つだろう。いやあよく切れるハサミで良かったよ」
 何事もなかったように平然とハンカチで頭を拭い続ける鈴木を見て僕は背筋が冷えていくのを感じた。きっと昔“ハサミ”と呼ばれていたのは本当で、もしかしたら今も向こうの社会と繋がっているのかもしれない。最後男たちが鈴木に頭を下げていたのはそういうことではないか。そして僕は実家で祖母が言っていたことを思い出した。
――切れないハサミが一番怖いのよ。無理に切ろうとして手を切ったりするものだから――
 私は怖くなって濡れて文字の滲んだ辞表をペットボトルのゴミ箱にそっと押し込んで捨てた。
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ちょっと思っていたのと違う感じに。ほのぼの系になるはずだったのに。

※小噺はひとつのマガジンにまとめていこうと思っていますのでよろしければご利用ください。

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