反転

バレンタインデーには煮干しと愛を。

自分の書いている記事が堅く、私の印象がそれだけだとつまらないなあと思ったもので、今回は「ユーモア」を扱ってみようと思った次第。幅を、可能性を拡げるのだ。

ユーモアを『広辞苑』から探る

まずは「ユーモア」とはなんぞやというところから。毎度おなじみ広辞苑(1991)に頼る。(情報の古さによる間違いや誤植の責任は岩波書店ではなく古いものを使っている私にある)

ユーモア……上品な洒落。諧謔。『広辞苑』(1991)より抜粋

この端的な書き口。辞書に冗長さは不要である。
しかし、理解しきれなかった私はさらに引く。まずはよく聞くけれどイメージしかつかめていない「洒落」。

洒落……①気のきいたさま。いきなこと。②気のきいた身なりをすること。おしゃれ。③座興にいう気のきいた文句。言葉の同音をいかしていう地口。『広辞苑』(1991)より抜粋

ふむふむ。「座興」も難しいけれど、これはその場のたわむれ、くらいの意味のようだ。では「諧謔」とは何だ。

諧謔……おもしろみのある戯言。おどけ。しゃれ。滑稽。ユーモア。『広辞苑』(1991)より抜粋

「おもしろみのある」とは?というそもそも論はさておき、「戯言」と「滑稽」を引く。

戯言……たわむれて言うことば。ふざけたことば。冗談。『広辞苑』(1991)より抜粋
滑稽……①おもしろおかしく、巧みに言いなすこと。転じて、おどけ。道化。諧謔。②いかにもばかばかしく、おかしいこと。『広辞苑』(1991)より抜粋

つまり、「ユーモア」とは
「おもしろおかしく気のきいた文句をばかばかしく上品に言うこと」
ということが出来るだろう。
……正直何を言っているかわからない。(繰り返すがこれは決して岩波書店さんの責任ではない。私の情報の古さと語の組み方が悪い)

ユーモアとは距離である

ふと気づく。「おもしろおかしく」「気のきいた」「ばかばかしく」「上品に」。ここに表れる矛盾、これこそが「ユーモア」なのではあるまいか。あることとあることが同時に存在し得ないはずなのに同居している時、自分の当たり前と今目にしていることが全く相容れない時、そんな時に私たちは思わず笑ってしまうのではないか、と。

例えば、(Ismael Torres DominguezによるPixabayからの画像 )

石の力士

横綱が「趣味はミニチュア模型を作ることです」と野太い声でインタビューに答えた時、私たちはあの巨体の一本数センチもあるんじゃなかろうかという指がもはやそれ自体がミニチュアに見えるピンセットを器用に使って瓶の中に小さなボートを組み立てているところを想像し、その異質さと健気さに魅力を感じ、そして吹き出すだろう。

例えば、(Suchart SriwichaiによるPixabayからの画像)

天子の足

生後数ヶ月の赤ん坊がまだ一人で歩けるようになってもいないのに、ハイハイの途中で腕立て伏せのような動作を始めた時、あの可愛らしく愛でるだけだった小さな天使が険しい目で地面を見つめイチニイチニと一定のリズムで上体を持ち上げたとしたら、私たちはきっと笑わずにはいられない。

例えば、(Free-PhotosによるPixabayからの画像)

チョコレート

2月14日に一つもチョコレートをもらえなかった男の子がお昼の時間に袋入の干したカタクチイワシを同じ境遇の男子に配り始めた時、「今日は煮干し(2→に 1→ぼ(たぶん1の棒っぽさから) 4→し)の日だから」と慣れないウィンクをして渡してくれたなら、私たちは彼の手を取り頷いてその輪に加わるに違いない。そのユーモアに救われたことが繋いだ絆の輪へと。もうチョコレートをもらった輩も含めて煮干しを食べさせまくるだろう。全校生徒を煮干しの波に巻き込んでやるのだ。

ユーモアは難しい

ユーモアというのは人間が創り出したものだと思う。物事間の距離や矛盾というのは人間が創り出した、勝手に設定した基準に基づくものだから。

世の中にはユーモアが満ちている。

人を笑わせるためにある人の悪口を並べ立てる、鉄板だ。

宝物を盗み貧しい人々にばらまき配る義賊、悪事はここに救いとなる。

大きな間違いを犯した自虐ネタを陽気に語る、痛さは笑いに変わる。

世界平和を目指して各国が軍拡競争を加速させる、核は抑止力となる。

人類の進歩にはある人々の犠牲が不可欠だ、人種と思想と宗教と。

こんなのだってぜーんぶユーモアだろう。勝手に矛盾を創って距離をとって誰かの笑いを誘っている。

浜辺

さあ、誰が笑っているのだ?

誰が、泣いているのだ?

ユーモアは人間の創り出した最高傑作といってもいいだろう。だが、『モナ・リザ』の額縁を使えば人に致命傷を与えられるように、蒸気機関から始まった産業革命が今人類を苦しめつつあるように、医療の進化が生まれるはずの命を淘汰することもあるように、その使い方は非常に難しい。どの使い方が間違いだとか正解だとか、私に判断できることではないけれど。

だが願わくば、私はバレンタインデーに煮干しを配りまくるモテない男子でありたいと思うのである。

サポートいただければ十中八九泣いて喜びます!いつか私を誇ってもらえるよう頑張っていきます!