人は合理的な判断ができない

近年、医療では「インフォームドコンセント」という言葉が定着してきています。

患者自らが、納得して治療法を選択できるように、医療者側は情報を提供する、という解釈ができるでしょう。

実際の医療現場では、あまりそういう構造にはなっていないのが現実かと思います。

その原因は多岐にわたるでしょうけど、「まな板の上の鯉」という言葉が患者側に定着しているからではないでしょうか?

少なくとも、日本人にとっては、まだ「自分の病気(怪我)の治療法は自分で決定したい」と考えることそのものが浸透していないように思います。

海外の人は、自分で決定することに喜びを感じたり、責任を持ったりするでしょうけど、日本人は誰かに責任を持って欲しい人が多いように思います。

仮に、「自分で治療法を決定しよう」と思う人がいても、決定に至るまでの情報分析、解釈など「自分のことを冷静に判断」できる人は少ない。

つまり、自分で決めようとすると「誤る」パターンが大多数ということです。

人は合理的な判断ができないことがほとんどですが、合理的な判断ができる場合は以下の条件を満たす時です。

【合理的な判断を可能にする条件】
1つ目の条件は,本人に「決める力」があることです。
2つ目の条件は患者や家族側にバイアスが存在しないことです。
3つ目の条件は,医療者にもバイアスが存在しないことです。

だ、そうです。
http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA03237_06 より)
 
これ、医療現場で合理的に判断ができる人いますかね???

例えば、自分のことを決める力、ですが、

「息子に聞いてみないと・・・」

「夫に聞いてみないと・・・」

「妻に聞いてみないと・・・」

なんていうふうに、1人で決定できないパターンを多くみてきました。


治療に対しての誤解や、正確ではない情報に触れたりすると、たっぷりとバイアスがかかってきます。

患者にとってのバイアスは、判断する力を相当狂わせます。

そのバイアスは医療者にもあります。

相手に選んでもらうことが最善と知りながらも、専門的な知識や経験を持つ以上、相手に対してフラットな情報提示ができない場合が多いです。


こんな理由から、合理的な判断というのはあまり行われないわけです。


相手に決定を促す場合、自分で決定を行う場合、頭に置いておきたいのは、

「人は合理的な判断が行えない生き物である」

という前提かもしれません。


「自分の判断は誤る」ことを前提にしておけば、謙虚に他者の意見を聞けます。

そして、その他者ですらも「誤る」ことを前提にしておけば、フラットに情報を見ることができるのではないでしょうか?


最終的に「後悔がない」選択をすれば良いのだと思います。

それは「その人の人間性」で決まってきます。

選んでもらうことで後悔しない、自分で選ぶことで後悔しない、どちらでもいいです。

自分がどういう人間であるのか、相手はどんな人間であるのか。

結局、核になってくるのはコミュニケーションであるという、普通のことになってしまうわけです。
 

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