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TOO MUCH PAIN

もっと違う場所で出会えてたらよかったのに。好きだった女の子から生涯一度だけこんな風に言われたことがある。こんな言葉を実生活で誰かから聞くことがあるなんて思ってもいなかったけど、要はふられる定型句みたいなもので実際この後もう会うこともなかった。月明かりの中、人気のない路地で僕の耳元にこの言葉をくれた彼女の気持ちは本当はどうだったのかなと今でも思う。違う場所で出会っていたらハッピーエンディングを迎えられたのかというと、それはわからない。ただ、現実は僕の成就しない恋がまたひとつ増えたということだけだった。二十三になったばかりの春のこと。

社会人一年目の給料は、飲み代とCD代として一円残らず使い切った。二年目からはさすがにいかんと思い少しだけ貯金に回したけど、バブルはもう弾けていたとはいえ、学生時代とは比べものにならないくらいの収入を自分ひとりの判断でどうにでもできるという気分が、僕をどうしようもなく散財させた。学生の頃は近所の酒屋やコンビニで買った酒を河原に集まって仲間と飲んだり、誰かのアパートで飲んだりすることが主流だったので、店で飲むことはものすごく贅沢なことだと思っていたのに、社会人になってお酒とは店で飲むものになった。そして綺麗なお姉さん方が接客してくれるお店にも通うようになった。ボトルをキープして「いきつけ」の店になるにはそんなに時間はかからなかった。社会経験の浅い若い男など大人ぶったことをしてみたいだけの実に容易いカモなのだ。

僕はその店のひとりの女の子に恋をした。毎週のように通った。向こうは仕事だから話を聞いてくれるのは上手だ。揚々と仕事の話や趣味の話を酔いに任せて演説するのを、うんうんと頷いてくれる。二十二のうら若い男子はあっさりと恋に落ちた。
彼女の名前は貴子と言った。源氏名は別にあるけど後で本当の名前を教えてくれた。それが本当に本当かは知らない。歳は店では二十五ということになっていたけど、本当は僕よりも二つ下だった。そんなサバの読み方があるのか不思議に感じたがなめられないように、なんだそうだ。北東北の出身で津軽と南部の違いを熱弁していたことを今も思い出す(彼女は南部の生まれだった)。
歳は若くても品のない話題にも耐えられるだけの経験と胆力を持ち合わせていた上に、こちらの言うことを茶化さず受け止める素直さがあった。金の続く限り(とはいえ一週か二週に一度)通って、なんとか気を惹こうとした。顔と名前を覚えられてからは、心配されていた。若いのにお金あるのとか、こんなところで飲んでばかりいないで健全なデートをしなさいとか。確かに周りを見回せば僕よりずっと年長のおじさんたちがお姉さんにたばこに火を点けてもらったり、濃いめの酒を作ってもらったりして悦に入っていた。僕が一番若い部類の人間だったのは間違いない。

僕が青春と称して友人達と遊び歩いていた学生時代と比べれば、高校を出た直後から郷里を離れ社会に揉まれ、おじさんたちの臭い息をかぎながら暮らしを築いてきた彼女の十代は随分と過酷なものだったろう。そしてそれを感じさせない屈託のない笑顔を見せる彼女のことを僕はとてつもなく尊敬した。
こういう仕事が合ってるんだよ。
そう言うけどどんな仕事も楽ではないことは就職して身をもって理解できるようになった。そんな話も自分のことのように聞いてくれる彼女のことが僕はとても好きだった。

人の話を聞くのが彼女の仕事だろうけど、少しずつ自分のことも話してくれた。歳が近いせいもあったろうが、彼女も僕と話をしているときはリラックスしているような気がした。気遣いのない関係になれれば僕は嬉しかったけど、あくまでそう思わせる接客だったのかもしれない。でもまるで本当の友人のようにその日あったことやテレビで見たこと、楽しかったことや腹の立ったことを互いに話し合う時間は、金銭の授受のもとに成り立っている関係であることを忘れさせてくれた。会う度に少しずつ互いに対する「知っていること」が増えていくことで、僕の彼女に対する思いも少しずつ増していった。もしも彼女も同じ気持ちだったらと何度も何度も思った。当たり前だが毎日来られる訳ではない。僕が来ない日は他の客の話を親身になって聞いているのだろう。今日は何してるだろうと気になるが、店の外で会おうと誘う勇気は、当時の僕にはなかった。金をつぎ込み、今の「客とお店」という関係を保ち続けることで、どういう結論が得たいのか自分でもわからなかった。今思えば、自分から結論を出してしまうことが怖かったから、現状維持という選択しか出来なかった。そして自分からは出せなかった結論が彼女の方からあっさりと出た。退職して実家に帰る。よくある話だ。

夜の香りに少しだけ春の匂いが混ざり始めた頃だった。店で会える最後の日に、店を閉めてから少しだけ二人で話をしようということになった。
近くの路地で待っていた。月明かりが眩しい夜だった。昼間の雨で濡れた路がふわりと空気に湿度を与えていた。少し駆け足で現れた彼女の私服は夜のお姉さんにしては意外なほどに質素で、学生と言われても少しも不思議ではないほど幼く見えた。このあと送別会があるからそんなに時間はないの。今まで本当にありがとう。いろんなこと聞いてくれてありがとうね。ほんとに感謝してるんだよ。二人で話したこと楽しかった。なんかお別れってつらいね。飲み過ぎちゃだめだよ。ちゃんと彼女作るんだよ。元気でね。言葉に詰まりながらぽつぽつと言われて貴ちゃんも元気で、としか返せなかった。あたしこういうの苦手なんだよな。と少し潤んだ瞳を僕に向けた。僕の首に両の腕を回して酒の匂いが残る唇をほんの一瞬だけ重ねた。もっと違う場所で出会えてたらよかったのに。そして僕たちは永遠に別れた。

どこで出会っていても僕はきっと彼女を好きになっただろう。そしてどこで出会っていても彼女をものにはできなかっただろう。彼女なりの優しさがいつまでも僕の心の中で疼いている。


THE BLUE HEARTSのTOO MUCH PAINを聴くとなんだか懐かしい昔の痛みを思い出してしまいます。

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