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【短編】干からびた胎児

 水槽の水が溢れた。

 ひどく揺れたせいで、取り返しがつかないくらい溢れてしまっていた。運転していた僕は焦った。後部座席に置いた水槽の水は激しく揺れている。床には既に、くるぶしまで水が溜っている。黒っぽい絨毯の上に、何センチも水が溜って揺れている。このままでは沈んでしまう。僕は柄杓を探し出し、揺れる車内の中で何度も何度も水を掬い出した。何度も何度も。それでも水は減らなかった。柄杓が小さすぎるのだ。焼け石に水という言葉が頭をよぎった。それでも水を掬い出していたら、ようやく水が減ってきた。安心しようとした途端、また車が傾いて水が溢れた。カーブの運転が下手なのだ。だから路を曲がるときに車内が揺れる。僕は車を運転する。僕は溜った水を掬い出す。水は一向に減らない。僕は絶望する。


 沈みそうな車を運転して、僕は家に辿り着いた。外は車内と同じくらい湿っていて、曇天は白く、草木は頭を垂れていた。僕は家の中に入った。玄関からは、まっすぐに廊下が伸びていた。焦げ茶色の廊下だった。よく磨き込まれていて、曇天の薄暗い室内でもよく光った。その壁際に、小さな引き出しが置かれていた。

僕はそれに近づいた。良く見たら、それは引き出しではなく小さなベッドだった。ベッドの上には乳児が寝ていた。白い服を着ていて、頭の大きさが掌ほどもなかった。小さな乳児だった。僕は乳児を抱いた。

「帰っていたの」

いつの間にか、背後に母親が立っていた。

「ただいま」

「おかえり」

「この子、どうしたの」

僕は抱いている乳児を見せた。母親は微笑んだ。

「その子は、まだ生まれていないの」

「生まれていない?」

「そう。あと2、3か月で生まれる予定なの」

「そうなんだ」

子どもは乳児ではなく胎児だったらしい。僕は胎児の貌を覗き込んだ。胎児の頭は猫のように小さくて、酷く可愛らしかった。見ていると自然と微笑みが浮かぶ。胎児は少し笑っているように口角を上げている。大きな目をわずかに細めている。泣き声ひとつ上げない。胎児なのだから当然なのだろう。胎児は女の子だった。とても可愛らしい女の子だった。

「生まれるのが楽しみだわ」

母親は云った。僕は胎児をベッドに戻した。胎児は微笑んだ眼のまま、時々ベッドの上で動いている。

「楽しみだな」

きっと可愛らしい女の子に成長するに違いない。母親が抱き上げると、胎児は一層嬉しそうな表情を浮かべて腕の中で揺られていた。

2010/04/17 writing

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