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「千と千尋の神隠し」の本当のメッセージ③

※この記事は、映画「千と千尋の神隠し」を視聴した方を対象としています。内容には大いにネタバレが含まれますので、ご了承ください。

千と千尋の神隠しには魅力的なシーンがたくさんありますが、特に印象に残っているシーンをあげるとすれば、千尋たちが海の上を走る電車に乗っているシーンを上げる方も多いのではないでしょうか。

手に汗握るカオナシとの追いかけっこの後から一転、静寂でどこかノスタルジックを誘う静かな場面が流れます。
電車の乗客や窓の外に見える人たちは、半透明の黒い影たち。
その6つ目の駅を降りたところに、銭婆の家はあります。

この電車、めちゃくちゃ意味深!

ですが、作中でこの電車や影の正体について語られることはありません。
様々な人が考察しています。6つ目の駅は六道を表しているだとか、あの世へ通じる電車だとか・・・

その点では私も想像で語るしかありませんが、色々な夢や物語のイメージを読み解いてきた私ならではの解釈をご紹介いたしますね!

過去へさかのぼる電車

結論からいいましょう。海原電車は「心を過去へ運ぶ」乗り物として描かれていると考えられます。
イメージとが象徴するものを見ていくと、海は「無意識」電車は「今とは違う状況への変化」を表します。
無意識とは人の記憶から作られるので、海の上を走る電車は、記憶のどこかにあった世界、つまり過去へ向かっている、と解釈することができます。

作中でも、電車のシーンは音楽や陽が沈んだ雰囲気を含めて、どこかノスタルジックさを感じさせる表現になっています。乗っている人や外に流れる人の服装は明らかに昔の人物であることを意識して描かれていますしね。

またこの電車が初登場するシーンは物語の最初の方にあり、千尋が橋の下を走る電車を追っています。そして気が付くと、橋の上にはハクが佇んでいました。これが電車とハクとの出会いのシーンです。
これは千尋が、電車を追うことで心が少し過去へさかのぼって、ハクの記憶にちょっとだけ近づいた、という流れなのかもしれませんね。

このように、海原電車は心を過去へ運んでいると解釈していくと、映画の中にちりばめられた様々な要素が自然と解釈できるようになっていきます。一つ一つ見ていきましょう。

カオナシの正体と「私が私である理由」

どちらも半透明で「同じ存在」

実体のない黒い影…魂とか幽霊を想像しますが、物質的な実体に対して精神的な存在、「人の記憶」と解釈します。
電車の中の描写で、乗客である半透明の人々とカオナシは同じような存在である、という説明的なシーンが描かれます。
ですが、乗客は「カオナシ」ではないんですよね。カオナシと乗客はいったい何が違うのでしょう?

間もなくその理由が分かります。
他の乗客は、途中の駅で全員下車してしまいます。それぞれ大きな荷物を持って。
ほかの乗客には「心が帰る場所」があるんです。ところがカオナシにはそれがない。だから降りられないんです。少し前のシーンで、千尋がお家はどこ?と聞いても、「サミシイ…サミシイ…」と力なく答えるだけでした。

カオナシは「顔が無い」言い換えれば「自分が無い」存在です。
電車の中でも戸惑うばかりで、千尋に促されてようやく席に着くほどです。
なぜ自分が無いのでしょうか?
恐らくそれは、「これが私」と思えるような、確固たる経験ができなかったからでしょう。目的が持てないので駅にも降りられない。
自分が無いカオナシは、その寂しさを埋めるために、人を食って真似してみたり食べ物を際限なく食べまくったり金をばら撒いてちやほやされたりしますが、そんなことをしても本質的な「自分」は得られるはずもありません。
まさにブラックホール…!

そんなカオナシが救われるにはどうすればいいのでしょうか。
作中では、その答えとは言わないまでもヒントが提示されています。

電車はさらに進み、辺りはすっかり夜です。
千尋たちが下りた電車のホームには、朽ちかけたような針の無い時計が佇んでいます。
そこで、ベビーシューズのように「ピィピィ」という音を鳴らしながら飛び跳ねる街灯に案内され、千尋たちは銭婆の家へたどり着きます。

夜=まだ一日が始まる前
針の無い時計=まだ時間が進んでいない
ベビーシューズの音を鳴らす街灯=よちよち歩き

と、ここではなんだか赤ん坊とか生まれる前を象徴するようなイメージが提示されます。
海原電車が心を過去へ運ぶ乗り物と考えると、思い出よりさらに進んだ先、ここは物心がつく前まで心が遡った場所と考えられます。

「三つ子の魂百まで」ということわざをご存じでしょうか
これは3歳頃までに人格や性格は形成され、100歳までそれは変わらない。 という意味で使われることわざで、科学的にも証明されています。つまり、自分の核となる部分は3歳までの体験で作られるということですね。

カオナシは自分の核となる部分が無い。
なら、それが作られる3歳より前までさかのぼって、もう一度一から経験を積めばいいじゃないか!
これが、物語の中でのカオナシへの救いとなっているのですね。

ちなみにネズミにされた坊も、ここで初めて自分の足で歩くことを試みます。
湯婆婆に甘やかされて育ち自分で歩く力を失っていた坊も、この場所で自分自身を作り直しているのでしょう。

湯婆婆と銭婆はグレートマザーの象徴

湯婆婆と銭婆、そっくりな姉妹
一人は甘やかし破滅させたり人を支配したり、
一人は慈しみ育む力を持っている。
この二人は、分かりやすく「グレートマザー」の役割が割り当てられていますね。

グレートマザーとは
ユング心理学におけるアーキタイプ(誰でも持っている心の性質)の一つ。
 母親には生み育てる肯定的な面と、子どもを抱え込みすぎ自立を妨げ、呑みこみついには死に至らしめる二面性がある。
子供がグレートマザーからの支配に打ち勝つことを自立のステップとして捉えることもできる。

多くの子供は、赤ん坊時代の大半を母親と過ごします。人格が形成される3歳までの多くの時間を過ごすのですから、母親は自分という存在においての影響力は計り知れない存在と言えるでしょう。

湯婆婆と銭婆の二人の魔女が、契約のハンコで人を支配する力を持っているのも、このグレートマザーに象徴される性質の一つと考えられます。
そこから考えると、グレートマザーの負の一面を持つ湯婆婆は、外からの力で誰かを支配することはできますが、根っこから人を育む力は持ち合わせていないのでしょう。恐らくその力を持っているのは銭婆。
人を根っこから自分の思うように作り替える力…悪用されたら凄く恐ろしいことですが、作中でその力は坊やカオナシを救う力に役立てられたようなので、めでたしですね!

湯婆婆と銭婆は「未来の千尋」!?

小さな千尋も、将来はこんなおばあちゃんに…

千尋はグレートマザーの力の象徴、契約のハンコを銭婆に返しに行きました。
「お前これが何だか知ってるのかい?」
「お前これを持ってて何ともなかったかい?」

銭婆は千尋に尋ねます。
どうやらハンコには、盗んだものを死に至らしめる守りがかかっていたそうなのですが、それが消えているとのこと。
不思議ですが、そのハンコが何なのか、何故守りが消えたのかは作中で特に言及されていません。

なのでこれは私の想像なのですが、銭婆の持つ力がグレートマザーによるものなのだとしたら、それは同じ女性である千尋にも宿る可能性のある力、というふうに考えられるのではないでしょうか。
千尋は、ハクの命を助けたい一心で、戻れるかどうかも分からない電車に乗り込みました。それはまさに「愛の力」だったのでしょう。
グレートマザーの力が子を愛する力なのだとしたら、同じく母親のような強い愛の力で銭婆の力を中和したのだと予想されます。

ですが、まだ子供の千尋には母親の力なんて自覚がありません。だからハンコの持つ意味が何なのかも分からないし、いずれ自分で気づく事なのでここで説明してしまうのは野暮ということなのでしょう。
「あなたには誰かを救う強い力がある」
それが漠然と伝わるだけで十分です。

ただもしかしたら将来、千尋は銭婆や湯婆婆のような強かな女性へと成長するの可能性が仄めかされているのかもしれませんね!
「天空の城ラピュタ」でシータのような美少女がドーラのような強いおばあさんに成長する宮崎駿作品なら…ありえなくはなさそうな気はします(;^_^A

釜爺の「愛だ、愛!」に込められた気持ち

愛こそパワー!

作中でも印象の残るシーンに、ハクの為に献身する千尋をみて釜爺が「愛だ!愛!」と興奮気味に放つ場面があります。
何となくお堅いイメージの宮崎駿監督映画で、そんな簡単に愛とか言っちゃっていいのー?と違和感があった方も多いのではないでしょうか(私もその一人です)。
ですが、前述の考察や物語の流れを考えて見ると割と納得できるセリフなんですよね。

まず、釜爺は千尋に甘い、ものすっごく甘い
最初こそ厳しい態度を見せましたが、その後は「千尋は自分の孫」という嘘をついてまでかばったり、千尋をリンに付き添わせるために、貴重なイモリの黒焼きを差し出しちゃいます。
その後も、お腐れ神(ほんとは違った)への接待に奔走する千尋の為に、高価な薬湯を目いっぱいおごってくれたり(裏でもの凄く張り切ってたと思うとちょっと笑えます)、銭婆の元へ千尋を送るために、40年もあたためておいたこれまた貴重な海原電車の切符をあげちゃったりもします。
もう本当に甘々です。

何故釜爺は千尋にこんなに甘いのか。
それはお爺ちゃんが若い娘とかかわれて内心メロメロになっちゃってるとも考えられますが、これはこの映画の物語の流れもかかわってくるのではないでしょうか。
千と千尋の物語では、大人社会の象徴たる世界で千尋は様々な人たちを浄化していきます。
廃棄されたごみの山でドロドロになった川の神様を始め、カオナシや坊、湯屋の人たちやハクも、さいごには千尋に浄化されて力を取り戻していきます。
釜爺もそれに漏れずに千尋に救われていたのでしょう。

海原電車は心を過去へ運ぶ乗り物。
それを40年も大事に持っていたということは、釜爺もいつかは海原電車に乗って、懐かしい心の故郷に帰り恋愛を謳歌したりしたいと思っていた。
だから、切符を引き出しの奥にずっと取っておいて、40年経ったいまでもそれを忘れずにいたんでしょう。
でもそれを実現するには歳をとりすぎてしまった、という負い目がある…

素敵な異性と 愛を 育むこと! それが わしの 夢 だった! しかし わしも もう ジジイ! そこまで ムリは できん! そこで 千尋には わしの 代わりに 夢を 果たして ほしいのじゃ! さあ 千尋 さっそく 出発 してくれい! これは 愛の 歴史に残る 偉大な 仕事じゃー!」

どこかのセリフを引用すると、切符を託すときの釜爺の心境はこんな感じだったのではないでしょうか(笑)
つまり、「愛だ、愛!」のセリフは、若い二人が愛をはぐくむ姿を目撃して、若い頃の自分を思い出してつい年甲斐もなく興奮してしまった、というちょっとしたギャグジーンだったのでしょう。
自分が無しえなかった過去への望郷の夢を千尋が代わりに果たすことで、きっと釜爺も救われたのだと思います。

帰りの電車が無い理由

釜爺は語ります。
「昔は戻りの電車があったんだが、近ごろは行きっぱなしだ」

どうやら、海原電車は過去へ遡る方にしか向かわず、戻っては来ないようです。これは何を意味しているのでしょう…?

釜爺の話を整理すると、少なくとも40年前は電車は行き来していた。でも「近頃は」行きっぱなし。
近頃、ざっと数年前あたりを想像すればよいでしょうか。

今の海原電車は過去へ遡る方だとしたら、戻りは未来へ心が向かう方。
人々は昔を懐かしむばかりで、誰も未来に希望を見出さなくなった…そんな意味にも感じ取れます。

映画「千と千尋の神隠し」が公開される数か月前の2001年4月21日、多くの人の記憶に残るアニメ映画が公開されました。
それが「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
この映画は、当時の人々の心に深く刺さることとなりました。
内容をかいつまんで説明すると、大人を懐かしさで支配して全てを過去の時代に戻そうと計画する悪の組織と、懐かしさとは無縁な子供たちとどうしようもない懐かしさに抗いながらもそれを阻止しようと奮闘するひろしをはじめとした野原一家の物語が繰り広げられます。

名作なのでみんなも見よう

「どうしようもない懐かしさへの憧れ」
これは、当時を生きる人々が無意識に強く感じていたものでした。なぜなら、2001年の日本はバブルが崩壊して経済は青色吐息、仕事と言えば就職氷河期真っただ中でどこも待遇が悪くなるばかり。
また、携帯電話の普及、あらゆるメディアがアナログからデジタルに移行、大型ショッピングモールの台頭などの影響で地方の商店街は次々とシャッター街へと変貌し、廃れていくばかりです。
とにかく、経済も文化もものすごい勢いで変化していった時代です。だれもが「昔は良かった…」と漠然と思っていたのです。

戻りの電車が無いのは、もしかしたらそんな当時の世相を反映したセリフだったのかもしれませんね。

「帰りは線路を歩いてくる」
そう答える千尋ですが、銭婆のいる場所は「物心つく前の過去」なので、10歳の千尋はまた10年近く歩いて元に戻らなければならなかったのかもしれませんね…こわい。それをさらっと決断してしまうのは、やはり愛のパワー…!

物語では、千尋はハクの龍の背中に乗って戻ったので安心ですが。
過去に戻ったその帰りなので、これはもう一度生まれてからの時間をハクと一緒に追体験している、という意味にも見えます。
その途中で千尋がハクの記憶を取り戻す、というのも象徴的ですね。

長くなりましたが、今回はここまで!
読んでくれた方ありがとうございます(^▽^)/

次回最終回「トンネルの秘密と子供たちに託された願い」

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