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やりたいことが見つからなかった学生時代


プロローグ

「自分を変えたいと思っているのに変えられない」
「思い描く理想の暮らし方があるけど、現状を変えるのが怖い」
「何をどうしたらいいのかわからない」

自分は何をしたいのかわからず、やり方もわからず、殻に閉じこもったり、時にフラフラしたりするような時間もありました。

忙しすぎる現代社会。ものはあふれ、便利になっているはずなのに、なぜか心はどんどん貧しくなっている気がする。忙しくて、どんよりした顔で通勤電車に揺られる。

自分は本当は何がしたいのか? どんな生き方がしたいのか? そんなことすらも、もやがかかって見えなくなってしまうような毎日。

僕はそんな日々が嫌だった。自分の魂に従って、自分の心の声が発することをやりたいと強く思った。

僕の場合、それはアート・デザインであり、建築だった。今は建築家として独立し、建築設計事務所も物理的に手放し「ミニマリスト建築家」として、各地を移動しながら仕事をする日々を送っている。

しかし今にいたるまでは、振り返ると決して簡単な道のりではなかった。

裕福ではない家庭に生まれ、大学にも行けず、コネもなかった僕は、自分の力で立ち上がらなければいけなかったし、アスペルガー症候群の特徴がある僕は、コミュニケーションの面でもうまくいかず苦労したことも多くある。

そんな僕でも、今の自分にたどり着けたのは、多くの人に助けられ、様々な考え方に影響を受け、進む道を照らしてくれた人たちのおかげだと思う。このような人々がいなければ、今の僕はいなかったでしょう。

そんな僕のライフストーリー。

高専中退からのフリーター生活

僕は勉強が嫌いなわけではなかった。むしろ教科書を読むのが好きだった。小学1、2年生の頃は、高学年の先輩から教科書を貸してもらいワクワクして読んでいたのだ。そんな時、海外には「飛び級」制度があることを知る。

「海外はいいなぁ。僕も飛び級ができたらいいのに。もっといろんな教科書を読みたいのに」と小中学生の間ずっと思っていたほどだ。ただ、今でもそうだが決してものすごく賢かった訳ではないけれど。

また、小学生のときに「洗脳」という言葉の意味を辞書で調べたとき、すぐに「あ、これはテレビのことだ」と思った。テレビで流れる情報や政治家が話すことは、ウソばかりだと直感的に感じたのだ。これ以降、ものごとを違う角度から見るクセがついたように思う。
だからこそ、僕は外の世界を見たいと強く思った。おかしなことがたくさんある日本を出て、海外はどのようになっているのか知りたかった。

このように外の世界にあこがれを持っていた僕は、高校に進学せず海外に行きたいと思っていた。

しかし、当然のごとく祖父から大反発をくらい、しぶしぶ高校に行くことに。高校を選ぶとき、美術が好きだった僕は県で唯一あった美術学校に行きたいと思うようになる。
それを父に伝えると、こう言われた。

「美術の仕事で食っていけるのなんて、10万人、100万人に一人くらいしかいないぞ」

僕も自信がなかったし、若かったので素直に「それもそうか」と父の言うことに納得した。こうして美術は諦め、情報工学の高専に進学した。当時は、中学校に何台かパソコンが入ってきた程度の時代。これからのパソコンに未来を感じた僕は、情報工学を選んだ。

しかし、高専に入ってすぐのオリエンテーションで早速挫折する。

隣に座った同級生が、ブラインドタッチでゼロからゲームを作っていたのだ。当時は「プログラミング」はおろか「インターネット」という言葉すら認知が薄かった時代。パチパチとすごい速さでキーボードを叩く同級生の姿を見て「あ、これは僕には無理だ」とポッキリ心が折れたのだ。

それからというもの、授業はろくに聞かずに寝てばかり、クラスではビリから1位、2位を争うような成績、最低限の単位だけギリギリで取る、といった日々を過ごす。
高専は5年制だったが、結局3年で学校を辞めてしまった(高卒資格ということになる)。

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