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ジェイラボワークショップ第72回『書評ふりかえり』【図書委員会】[20240701-0714]

本記事は、ジェイラボ内で2024年7月1日から7月14日にかけて行われました、図書委員会主催の第72回ジェイラボワークショップ『書評ふりかえり』のログになります。

各見出しの★印は図書委員による各メンバーの書評振り返りの投稿であることを示します。■はその他のコメントなどです。note記事化の都合上、コメントの順序などで一部時系列が反映されていない箇所がありますがご了承ください。


Day 1

■あんまん

今日から2週間、図書委員会のWSです。よろしくお願いします。 このWSは前半と後半に分かれ、前半は先月提出いただいた書評について振り返ります。後半は「良い書評とはどのようなものか」をみなさんと一緒に考えていこうと思います。

今シーズンから、書評タスクの制度が変更されました。前年度と比べてよりチーム内で話し合う必要があるルール変更になりましたが、書評に関するフィードバックは以前少ないままです。これまで行われた書評のフィードバックは、今年の1月の本決め配信の前に行われた所長による一方的な感想くらいです。正直私も図書委員になるまで、みなさんの書評全てに目を通すことはできていませんでした。どうでしょうか。他の人の書評に目を通せていますか。せっかく皆さんが、魂を込めて製作した書評が個人作業にとどまっているのは勿体無いと感じました。そこでこのWSでは書評の執筆者と双方向の書評のフィードバックを行うことで書評タスクに関する風通しを良くすること目指しています。これを行うのは、書評を書くこと、読むことのモチベーションの向上、それから、書評タスクに対する責任を再認識してもらう意図もあります。そこで明日から、図書委員会から、毎日各チームの書評に感想や疑問点を投げかけます。この際、図書委員以外の方も書評執筆者に対してどしどし感想や疑問点、コメントをしてもらうことを期待しています。

明日7/2はAチーム、明後日7/3はBチーム、、、と順に進めて参りますのでよろしくお願いします。

後半は、「良い書評とはどのようなものか」について考えていきます。これまでの書評タスクを通してみなさんは書評を数本書いているはずです。これはすごいことです。ここにいる全員が書評を書いた経験があるというのはJLABの一つの強みであると思います。物事にはやってみてからわかることが多くあります。ここで一度、書評執筆経験のある皆さんが思う「良い書評」とはどんなものか問うてみましょう。前半で他の人の書評を吟味したことで新たな視点が生まれてくるかもしれません。どこまで内容に触れるべきなのか、自分はどのような立場で書評を書くのか、遊んでもいいのだろうか。 WS座談会は7/12(金)21時から行います。参加できる方是非お越しください。

Day 2

■あんまん

おはようございます。今日はAチームのnaokimemさん、けろたんさん、YYさんの書評に対してコメントを投げかけて行きます。

★あんまん

YY12さん
星新一に関しては霜降り明星のオールナイトニッポンのコーナー「一行」でしか知識がなく、星新一の外側知らなかったのですが、著者の背景情報が書評に詰め込まれており、そうだったのかという発見が多く面白く読ませていただきました。文章から星新一への愛が読み取れて好きです。私も読んでみたい!と思わされました。

Naokimenさん
最近「謙虚」と言っているところをあまり見かけなくなりましたが、謙虚で論理的に綺麗な文章だなと感心します。過去の書評を見てみると「-の点で-の人にお勧めできる」というので締めることが多いなと思うのですが、書評を書く際に決まった型みたいなものがあるのでしょうか?

けろたんさん
純粋になぜこの本を読もうと思ったのか疑問に思いました。あと、先日初めてChatGPTを使ってみたのですが、どのように聞いたら自分が求めている答えを出力させられるのかに四苦八苦し、思いのほか質問の仕方が難しいということに気がつきました。ChatGPTにどのように聞いたら、Note記事にあったように出力されるのでしょうか。

■けろたん

本を選んだ理由:Youtubeで立て続けにクマ出没、クマ害のニュースを見て興味がでていた頃に、本屋でたまたま見かけたためです。漫画「ゴールデンカムイ」は読んでいたのですがクマ知識といえばそれぐらいだったので、ちゃんとしてそうな知識で更新しておきたいという思いもありました。狩猟のテクニカルな話やクマの性質については大変参考になりました。アイヌ文化の話もいろいろとおもしろいのですが、いかんせん言葉になれていないので頭に入りづらかったです。

ChatGPTの使い方:今回は、僕が書いたパートをそのまま入力して文章の続きを生成させました。そのChatGPTからの応答にたいして一段落分ぐらい返事を書き、さらに応答を出力してもらいました。とくに、どのような文章を作ってほしいか等のお願いは指示していません。ChatGPTにたいして文体や内容の指定をしないと、なんとなくふわっと当たり障りのないことをまとめた文章を出力するという性質があるようです。ChatGPTに同調するか、自分に同調するようにChatGPTに指示すると話している内容が収斂していくので、一般論として耳障りのよいこと(ChatGPT) vs その逆張りでやると、文章が続きやすいのかなと思います。

★ゆーろっぷ

私も僭越ながらコメントさせていただきます。

YY12さん『午後の恐竜』
実のところ、自分はショートショートどころか短編集にもほとんど縁がありません。家にある中で唯一見つかったのが、伊与原新さんの『月まで三キロ』でした。これも短編集で、ショートショートと呼ぶには少し分量が多いですね。
そんな自分が読んでも、短編文学について考えさせられるような書評でした。特に800字書評の冒頭はいい喩えですね。文章量が少なければ少ないほど、そこで描かれない余白の部分をいかに意識させるかが重要になってきますから、星新一作品は描かれている部分の構成だけでなく、そのような余白のバランス感覚が抜きん出ているのかなとも思いました。今度読んでみたいです。

Naokimenさん『音楽の哲学入門』
800字書評やnote記事を読む限りですが、Naokimenさんは音楽の成立要件(文化的背景も含む)とそれに基づいた鑑賞に重きを置いていることが感じ取れます。「音楽の哲学」という表現に出会ったとき、個人的には「人間にとっての音楽の意味合い」みたいなものを考えるかなと思うので、仮に自分が同じ本を扱ってもかなり様相の異なるアウトプットが出てきそうです。そういった想像を楽しみながら読ませていただきました。
自分はポピュラー音楽しか聴かないとはいえ、クラシックだけでなくそれらについても文化的な相互関係によって位置付けを与えられることは想像に難くありません。以下の music map というサイトはそれを端的に示していると思います。表題本もポピュラー音楽を扱っているということなので、一度訪れて比較してみると面白いのでは?ということで勝手ながらリンク貼っときます。

けろたんさん『クマにあったらどうするか―アイヌ民族最後の狩人』
本の内容の前に先に、まずこういったタイトルの本の情報を一体どこから入手してくるのか?といった疑問が浮かびました笑(追記:あんまんさんに対する返答で説明されていますね)。けろたんさんは独自のアンテナを持っているイメージが強いです。こういったアンテナはは自分にはないものなので、それに引っかかったものは是非積極的に紹介して欲しいと思います。
山岳関連の動画でクマとの遭遇による事故について扱ったものを見たことがありますが、背中を見せて逃げてはいけないみたいですね。クマも人間を恐れているので、格下判定されてはダメなようです。ちなみに、特にオチはないです。はい。

■けろたん

背中を見せて逃げてはいけないみたいですね。クマも人間を恐れているので、格下判定されてはダメなようです。

本の中で、(一度も人を食べたことがないクマは、) 結果として人を殺してしまうにしても、食べるために襲っているのではないと指摘されているのですが、進撃の巨人っぽくて面白いなと思いました。

★Takuma Kogawa

書評活動をやっていて、双方向ツールであるnoteのコメント機能がほとんど使われないことにやきもきしていました。なにか感想があればこのDiscordでもいいですし、対外的なコミュニケーションという意味でnoteのコメント機能を使ってもいいと思います。

YY12『午後の恐竜』
書評に「短いながらも面白く、本質を突くその作品たちは、没後も世界20ヵ国で翻訳出版され多くの人に読み継がれている」とある。文学作品において「本質を突く」とはどういうことなのか。読者が勝手に作者の思想や本質を見出して喜んでいるだけではないのか。文学にほとんど触れていない私にはわからない世界である。本質を見抜けない私が単に「この本面白いなー」と思うようなレベルの読書をYY12先生は許してくれないようだ。

Naokimen『音楽の哲学入門』
文化に接するときに背景知識を有している方がよいのか、私には答えられない。これは西村基の言葉を借りれば「得るとは失うこと」ということだ。背景知識を有していないときに有しているような鑑賞はできないし、いったん背景知識を有してしまったら有していないときの鑑賞は自分自身ではもはやできず、どこまでいってもエミュレートの結果になってしまう。楽しみ方が異なることに優劣はない。フリージャズの面白さはジャズをやっていてもなかなかわからない。

けろたん『クマにあったらどうするか――アイヌ民族最後の狩人』
自分たち人間社会の管理がおよそ届かないようなものや自分たちにとって脅威であるものを自然と総称できるかもしれない。アイヌ民族からすれば和人も自然といえるだろうか。クマは狩猟銃で撃つことが許容されても、和人を撃つことは許されないだろう。都市に慣れると自分が地球を間借りしていることをつい忘れてしまう。自然を感じるためには都市を捨てるべきなのか。

Day 3

■蜆一朗

採りあげてくださりありがとうございます。今見ると僕の800字書評に変な表現が散見されますので、ここで訂正させてください:

⑴ たとえば「生活必需品にも消費税をかけるのはおかしいのではないか」「身体や社会に悪いとされるタバコの販売をやめてはどうか・税率を上げてはどうか」という一見理不尽に思える(=公平性に欠ける)ような仕組みであっても、
⇒ 真逆です。「一見極めて妥当に思える(=公平である)」が正しいです(字数も変わりません)。

⑵ 専門家としての一定の教示も保たれている
⇒ 漢字が違います。「矜持」が正しいです。

(公式サイトでは修正済み)

★Takuma Kogawa

Hiroto『アイドル論の教科書』
本屋に行けば『〇〇の社会学』だの『〇〇の哲学』だのばかりでうんざりしてしまう。もういいって。厳しいって。と思うのだが、アイドルに熱狂するような人は単に男女の尻を追いかけているのではないと書評やnoteで感じた。一方で、自分たちの活動を学問という畑違いの作法で分析されることにアイドルや関係者はどう思うのかも気になるところである。

蜆一朗『経済学の思考軸』
書評に「理屈としては納得できてもやはり心情的には肯定しがたい」という表現が登場するが、このようなねじれを含む立場を選択するにはかなりの訓練を要すると思った。人間関係においても「あいつは嫌いだがこの点は認めざるを得ない」など、ひとつの対象にふたつ以上の観点を用意しようとするといつか自分がおかしくなってしまいそうな気がする。

■Hiroto

二次的な創作について一次側がどう思うのか表明し出したりすると、だいたいのことがうまくいかなくなる印象ですね。何か思っても、言えない。

★あんまん

Hirotoさん
アイドルが日本におけるポピュラーカルチャーの大部分を占めているとありますが、大衆にウケが良いというポピュラーカルチャーの要素と、オタク文化を無くしては語れないサブカルチャーの要素を併せ持つアイドルという存在は興味深いと思います。アイドルが人間であるということが、オタクを生み出すほどの深さを持たせているのかなとか考えました。

蜆一朗さん
当の本のヘソをよく掴んだ書評だなと感心しました。経済学はからっきしなのですが、経済学において「効率がよい」とは少ない仕事でお金が得られるということなのか。単にお金が沢山得られるということなのか。というのも、生活必需品の例でも、タバコの例でも、税率が違うだけで仕事量は変わらないと思ったからです。経済はそもそもルールが、お金が動いた時、片方にお金が増えて片方のお金が減るので公平が成り立たないのは、効率に関係ないんじゃないかと考えてみました。

■蜆一朗

ヤーレンズみたいにファンアート禁止する人が現れても面白いですね。

  • Takuma Kogawa

★ゆーろっぷ

蜆一朗さん『経済学の思考軸』
自分は一応経済学部に3年とちょっといますが、結局理論経済学にはあまり興味を持てずに終わってしまった感があります。事実解明的な分析をしているようでいて、規範的な領域(べき論)の事柄も多分に含まれていることが抵抗感を強くしていたのかもしれません。上級の講義もこの部分を掘り下げる方向ではなく数学的に難しい方向に行くだけで、あまり役には立ちませんでした。この本であればどちらに偏りすぎることもなく問題意識を整理できるでしょうか。

Hirotoさん『アイドル論の教科書』
note記事を読むとむしろ『時間の比較社会学』の方がめちゃくちゃ気になってきますね。要約部分を読むと自分が今回取り上げた本とも繋がりがありそうです。しかしこの辺りをこねくり回していると必ず出てくる「共同体」って結局何なんでしょうか。安冨歩によればこれは極めて強固な西欧的ステレオタイプらしいですが、果たしてこの概念なしに思想を語ることはできるのか。
また、あえて批判的に述べてみますが、note記事を読むと概念がひたすら先行しているような印象があります。もちろんその概念操作を極めて高いレベルで行うこと自体の価値は大いにあると思うんですが、概念で理論武装しすぎてその下にある生身が見えてこないのは、個人的にはちょっと怖いと感じてしまいます。

■Hiroto

@あんまん
エビ中は「サブカルアイドル」というコンセプトもあり、それが大いに関係していそうです。

@ゆーろっぷ
生身が見えてこない→それはある意味当然で、ライブにすらまだ行けていない新規だからですw 彼女らの生身について語るための経験が少なすぎる。から、自分の手持ちの語彙とか概念の方に寄せて語るしかない。その意味で、「エビ中を自らの思想開陳のために利用している」と思われても仕方ないとは思います。

ファンにこんなことも言われていて、理論に寄りすぎというのは完全にごもっとも意見なので、僕自身も、血の通った人間としての文章をいつか書くのが目標です。

■Hiroto

@あんまん @ゆーろっぷ
追記。
あんまんさんが肯定的に捉えている「アイドルが人間であること」ですが、その害悪性について僕は元々めちゃくちゃ思うところがある人間のため、ここも考えたいポイントの一つです。

エビ中にハマる前、「うたプリ」の映画(ライブ)を観に行きました。

ここでは「そのキャラ一人(二次元)に対して関わっている裏方(三次元)の人数の多さ」が、偶像を一人の人間に背負わせることの本質的不可能性を解消していました。

僕はエビ中のnote記事で不可能性とか失敗を肯定的に捉えていますが、偶像を人間に背負わせることの無理性が人間を追い込むことの害も人より重く捉えている節があり、例えばBTSや嵐の活動休止について、そりゃそうだよな、、と思うほかないわけです。

ゆーろっぷさんの言う「生身が見えてこない」という話は、無意識的にこの話と繋がっているのかもしれません。僕は、壮大な概念的理論を、生身の彼女らの一挙手一投足に背負わせることを心の底で「加害」だと感じているのではないか。理論の濃度が濃くなっていくにつれて具体的な生身の記述が薄くなっていくのは、無意識下でそれを避けたいと考えているからではないのか。

具体的なメンバーの行為ではなく「エビ中」というカテゴリ的概念を用いることで、ある意味で抽象的なレイヤーに留めて理論を構築していた感覚です。それこそ、エビ中がエビ中であるために各メンバーの行為は本質的ではない(訂正可能)という話を潜在的に活用していると言えます。

今後はこのテーマにも真正面から向き合いたいと考えています。


エビ中に対して「逸脱」というテーマを強調したかったのは、僕を含めた「超人間的偶像としての視点を向けてくるやつら」をフリとして受け入れつつも、それに依存せずに気ままに生きていってほしいという祈りが込められていたのかもしれないです。その押し付けられた「逸脱」のイメージからのメタな逸脱、、、みたいな話は禁止。

  • ゆーろっぷ
    noteの方で「見田宗介の言葉を受け継ぐのではなく、精神を受け継ぐべき」というコメントをされている方がいましたが、それも自分の感覚と近い見解なのかなと思いました。「思想開陳」を問題としているというよりは、むしろ「(身体的フィードバックに基づいた)思想が見えない」ことをもどかしく思っているのだ、と言い換えてもいいかもしれません。
    手続的に概念を操作する中にそれでもなお残ってしまう、生身の身体がもがいた痕跡、そういうものが見えると自分はとても興奮するのですよね。まあ要するにただの性癖なので気にしなくてもいいとも言えます笑。

  • Hiroto
    なるほど、彼女らではなくて僕の身体が見たかったということですね。いつか、たっぷりお見せしますね。

  • ゆーろっぷ
    楽しみにしております(あれ、、?)

■Takuma Kogawa

アイドルやホスト、キャバ嬢や役者というのは演じるということに価値があって、偶像の役割を果たせないのなら(本人のためにも)さっさとやめた方がいいと私は思っています。新興宗教だろうが怪しい科学だろうが、追っかけをする人は、偶像や教祖に対して方針転換しないこと(訂正不可能性を自らに課すこと)を求めているのではないでしょうか。

  • Hiroto
    AKBから始まったアイドル文化の流れの中に「ドキュメンタリー」という要素が無視できないものとしてある(とアイドル論の教科書にも書いてある)のですが、それが「演じる」という概念を崩壊させているように思います。昨今のオーディションブームもそう。芸人界隈でも最近は裏をすべて見せる風潮があり、これは個人がさっさとやめれば良いという話だけでは片付けることのできない、アイドル・お笑い業界の大きな構造的問題を孕んでいます。

    追っかけをする人は方針転換しないことを求めている→一般論としてその傾向もあると思います。また、ライトな推し方をするには、方針がわかりやすい方が心理的コストが少なくて良い。
    とくに変化の激しいエビ中についても、ファン界隈はそこで意見が分かれている印象です。私自身は、方針転換し続けてどこに行くかわからないビックリ箱的な楽しみ方をエビ中に対しては期待しています。言葉遊び的に言えば「変わり続けること」を変えないでほしいわけですが、こういったメタな言明でハイ終わり、としたくなかったためにわざわざ訂正概念を持ち出して長々と綴ったということです。
    教祖が今までの教えと全く異なることをしても、教祖が教祖である限り本物の信者はついていくのではないでしょうか。

    また、「演じる」という動詞が「本当の個人」概念を前提しているために、メンタルヘルスを著しく低下させているという指摘も、少し脇道に逸れますが、できるかと思います。
    明確に舞台上で俳優が演じるというところではない、日常的な場面での「演じる」という言語使用は、西洋的個人概念を前提としていて、それが健康を損なわせている側面がある、というのが平野啓一郎的な指摘です。「演技」概念については社会学的な先行研究もかなり膨大にあるため、今かなり注目しているテーマです。

    追記:ホスト界隈でも裏を見せる風潮が最近増えてますね。山本裕典・軍神・歌舞伎町TV。

  • Takuma Kogawa
    「裏を見せる」といいますが、見せた時点で裏ではないと考えています。そこまで含めてドキュメンタリーなりストーリーが組み立てられるので、すべて表なんですよ。自宅でぼーっとたばこを吸っているようなものが裏(見えないもの)であると思います。ドキュメンタリー要素については、学園アイドルマスターのようなソーシャルゲームにも明確に表れているのでしょう。
    信者というのは、教祖を追いかけるのか教義を追いかけるのかというのは見解が分かれるところなのでしょう。教祖の様子がおかしくなったら自分は離れると思いますので、私は"本物"の信者ではありません。
    何かを演じるって、どこか精神がおかしくないと難しいのかもしれません。特にアイドルなんて常にメディアに追いかけられるでしょうから、偶像でない顔を見せることはできないのだと思います。自分自身を偶像と同化できない奴はアイドルなんて向いてないんですよ。

  • Hiroto
    「裏を見せる」が本当は裏ではないのは当然ですが、運営が「これ、裏ですよ〜〜」という売り出し方をし、ファンがそれを間に受けて全部知ってます感を出すような、そんなビジネスモデルには物理的限界があるという話です。で、それに耐えられないなら向いてない的切り捨ての先にあるのは、業界全体の衰退でしょう。それも理だというのならそれは仕方ないですが、問題提起そのものをしない理由にはならないです。

  • Takuma Kogawa
    アイドルという業態が衰退したとしても、ほとんどはそのまま宗教団体にスライド可能でしょう。メディアには出にくくなるかもしれないがコアなファンにとってはかえってありがたいかもしれない。

■蜆一朗

「アナザーストーリーがウザい!!!」

■Hiroto

お笑いには、その構造そのものを内側からイジれるような「バックドア」が仕込まれていますが、アイドル業界にそれがなさそうなのがホラー。芸人とアイドルの配信を見比べると、アイドルの言葉の選び方はあまりにも潔癖で異常に思えます。

  • Takuma Kogawa
    地下アイドルなら内側をいじっても地上アイドル側からわざわざ潰されないような気はする。AKBメンバーがやったら「漢」を感じる。

■西住

何をどうやったらアイドルになろうと思うのか知りたい。

■Hiroto

僕が教祖のメンタルヘルスを心配する気にならないのは、アイドル界が運営と行為者を分離しているのに対し、教祖が運営も(表向きは)兼ねているからかもしれません。その意味で、グロさを一気に引き受ける役割としての運営という側面が際立ってくる。批判されるための運営。ニコニコ動画爆破ネタのようなガス抜き可能性がアイドル界にはかろうじてあるけど、それですら破綻したときが終焉のときなのかもしれない。

ニコニコが終焉のときでないことを祈っています。

  • Takuma Kogawa
    本書は生身の人間のアイドルを対象にしているのだと思いますが、運営と行為者の話をしようとするとV-streamerあたりも射程に入りそうです。Vは運営でもどうにもできないような、個人個人が終わっている人の集まりという気がしないでもないけども……。
    ↑すみません、Vに「中の人」がいるかのようなコメントをしてしまいました。ここにお詫び申し上げます。中に誰もいませんよ。

Day 4

★Takuma Kogawa

西住『西行論』
西住といえば恋愛アドベンチャーゲームよりは吉本隆明だった(と思う)。私は文芸も評論も西行も詳しくない。文芸評論において「誰が書いたか」という点はどの程度重視されるのだろうか。note記事には、撰集抄の作者が西行ではないことに触れられている(wikiにも同様の記述がある)。同じことを異なる人間がやれば異なる評価を下されるのは人間社会では当たり前であるものの、それになんとか一矢を報いることができないかと考えてしまう。

コバ『話が通じない相手と話をする方法』
話が通じないというのは、前提知識にずれがあるか、わからないふりをしているのかのどちらかであることが多いと思う。話が通じない人は、葬送のフリーレン(私は未履修)でいうところの魔族(言葉と同じ音を発する魔物)と同じである。話が通じない相手とは話をしない方がお互いのためによいと思うのだが、それでも話をしなければならないとき、ただ話すだけのことが金銭の発生する仕事になりうる。話が通じない相手と話をしようとすることは苦役である。

ゆーろっぷ『生きるための経済学』
私はなんでもかんでも個人の生きづらさに結び付けるような言説が嫌いである。東京大学を卒業しても幸福になりにくい?お前の生きにくさなんて知らんがな。自分で勝手に生きにくい道を選んだり「生きにくいなあ」と思い込んでいるだけだろう。プロフィールに輝かしい学歴や職歴を書いておきながら被害者芸をするんじゃないよ。生きにくいながら高い給料を得ているのなら、そのお金を使って海外で安楽死でもしてきたらどうなのか(暴論)。安楽死でお金が動くのならそれも経済である。

■Hiroto

東大生が一番東大属性を「幅」に使っている、という主張・指摘はマジでその通り。

★あんまん

西住さん
私にとって西行のイメージは感情や情景をそのまま表現する、桜、ホトトギス
大好きおじさんなのですが、素直な歌を作る西行が月を今世と来世を結ぶ形而上学的な存在まで高めたのが西行であるという主張に驚きました。私の好きな西行の句の「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」のかたじけなさに通ずる部分がありそうです。

コバさん
つい最近、浅井リョウの「正欲」を読んで、話が通じない人と話が通じていないまま、話をすることはできるけれど、話が通じない人と話をして話を通じさせるのはやはり難しいなと痛感したところです。話をするというのは特別な訓練も必要なく文字通り、するだけだと思います。そのとき話が通じているかは置いておいて。確かめようのないシュレディンガーの猫である。

ゆーろっぷさん
書評を読んでますます経済学がどのようのな形をしているのか掴めなくなってきました。孔子の思想も、自由への問いも経済学の範疇で語ることができるとは。なんなんだ。経済学って。

★ゆーろっぷ

西住さん『西行論』
チームCでは「歌の知識がないとキツい」とのことでセルフ辞退されていましたが、書評を読むとかなり面白そうなんですよね。文芸評論に該当する本を今まであまり読んだ試しがないのですが、その独自の魅力を伝えてくれるような書評でした。

コバさん『話が通じない相手と話をする方法』
お金のような利害関係をとっぱらえば誰とでも話はできそうだと思ったんですが、Time is money の前提のもと「話をする時間も無駄にしたくない」と思う存在がいるかもしれないので想定が甘いだけかもしれません笑。ただ何となく、「話が通じない相手」を周りから完全に消去してしまうことが、長期的に見ればあんまり良い結果を生まないのかもしれないなと感じました。

ゆーろっぷ『生きるための経済学』
かなり幅広い話題を扱っているため話題が色々広げられそうなので選んだんですが、いかんせん広すぎてnote記事とかは風呂敷が畳めず。自分でもまだちょっと消化不良な感じです。古代中国の思想の可能性を示唆してくれた点が個人的には収穫でした。

Day 5

★Takuma Kogawa

Yuta『旋回する人類学』
私が大学の講義で最も楽しいと感じていたのは、一年生の教養科目を中心に受けていたときだった。専門に進むための基礎的な化学や生物の勉強は大変だったから、それとはほとんど関連のない、心理学や経済学の講義は新鮮であった。文化人類学やその周辺にはこれまで縁がなかったが、これは勉強するよりも自分で実践してみた方が面白いと感じられるのだろうと想像される。

匿名希望『振子気動車に懸けた男たち』
鉄道をはじめて面白いと思えたのは、長野県におしぼりうどんを食べに行き、そのついでに姨捨駅に夜景を見に行ったときだった。急勾配を上るためのスイッチバックを経験し、原始的だが今でも通用する方法であることに感心した。その後、まいてつというノベルゲームで鉄道と地域の関連についても興味がわいた。鉄道単独に興味があるわけではないのは申し訳ない。

イスツクエ『疑う力』
「『疑う力』という本を読むべきなのか」と疑うことはおいておく。日本語の「疑う」とか「批判」という言葉はマイナスのイメージがついているように思うが、必ずしもそうではないと考えている。「批判的思考」だといちゃもんをつけているように感じる人でも「クリティカルシンキング」といえば素直に受け入れる人は一定数いそうである。イスツクエさんには「大学に入ることはよいことなのか」と疑ってみてほしい。

★あんまん

匿名希望さん
振子気動車の開発がなぜ車社会への対向になるのか疑問に思いました。振子気動車は鉄道会のスポーツカーであると書かれていますが、その技術力の高さに集客力があるのでしょうか?私は情熱大陸大好き人間なのでこのような仕事の情熱みたいなものは大好物です。

yutaさん
「多様な際にあふれたこの世界で共に生きていくとはどういうことなのか。」とありますが、「多様な差異にあふれたこの世界で共に生きていくとはどういうことなのか。」の誤字ではないでしょうか。私の勘違いでしたらごめんなさい。
大学1年生の時フランス語を学んでいたころ、日本語の「物語」がフランス語ではhistoireと訳されることに驚きました。歴史=物語という見方は、人類学の歴史を考えるうえでも同じで、知識ではなく主観的な(物語)知恵として受容するものなのだと思いました。

イスツクエさん
「ミステリー小説を読みことには二つの利点がある。」
になってます。正しくは「ミステリー小説を読むことには二つの利点がある。」ではないでしょうか?
幸せとは何かを考えているときは幸せですか?

■けろたん

(ノート記事に複数人からのフィードバックがもらえる方式とても良いですね。書いている人の意図とか、関連しそうな議論とかによって、本の内容はもちろん、記事を書いた人がどんなことを思って本を読んだのかにも一層興味が湧きます。記事を書いた本人としても読者の視点からのコメントがあることでシンプルに文章うまくなりそうです。雑文・エッセイ的なものにフィードバックがもらえるのはかなり貴重かも。)

★ゆーろっぷ

匿名希望さん『振子気動車に懸けた男たち』
匿名希望さんの鉄道に対する情熱が伝わってきます。自分は鉄道にあまり詳しくないですが、例えば自国だけでなく外国(イギリス)で特急に乗ったりした経験なども踏まえると、やはり他のものとは違った魅力がありそうなんですよね。書評について言えば、個人的には、本のどういった部分が素晴らしいかだけではなく、匿名さんが疑問に思った部分や引っかかった部分などもあれば知りたかったかなと思います。

イスツクエさん『疑う力』
『問いを問う』と近い話なんでしょうか(読んだことないですが笑)。本書のトピックの一つとして「幸せの定義」があるみたいですが、「疑う力」と「(主観的)幸福」って相反してしまわないのかなとちょっと気になりました。相対性の上で感じる幸福というものは、「本当に幸せなのか」と「疑う」ことによっていくらでも不幸せで上書きできてしまいそうであまり好ましいものとは思えないです(これは他人と比較しがちな自分への戒めも多分に含みます)。

Yutaさん『旋回する人類学』
社会学部の友人に「人類学を学ぶといい」と言われたことがあるのですが、(文化)人類学って一体どんな学問なんだ、というそもそもの部分が結構気になっていました。800字書評でもnote記事でも、人間存在である自分自身に訴えかける人類学の独特の性質みたいなものが感じられて良かったです。自然 /文化の中で得た洞察を理論に昇華していくという意味で自然科学 / 文化人類学は通ずるところがありそうですね。物理も実験をやってみると初めて面白みが味わえると思うんですが、「実験」に対応するものが文化人類学にはあるんでしょうか。

Day 6

★Takuma Kogawa

シト『人生に生きる価値はない』
まず「人生に生きる価値はない」という文の意味がよくわからなかった。挑発的なタイトルにするのであれば「お前に生きる価値はない」の方がいいと思う。本人以外から見て生きる価値のある人間はどのくらいいるのだろうか。異常独身男性の私に生きる価値はない。

あんまん『利他・ケア・傷の倫理学』
特定の誰かのために何かをしたいと思うことは、私はそれは愛であると考える。下心があってそう考えたとしても、そのような気持ちがなければ人間社会はうまくやっていけなかったのではないだろうか。私には愛がないため、あんまんさんのために何かをやろうとは考えておりません。

Yujin『純粋異性批判』
異性にうつつをぬかす余裕のない私はこの本を理性的に読むことはできないのではないだろうか。部活や学校でそれなりに女性が多い環境にはいたが、はっきりいって女は面倒な存在であると身に染みて理解している。やっぱ女ってクソだわ。はっきりわかんだね。

★あんまん

Yujinさん
何かを嫌いになることって物凄いエネルギーが必要なことだと思います。私は人生で誰かを嫌いになったことがないです。理不尽に嫌なことをされた経験もなく、これまで出会ってきた人が皆いい人だけだったのかもしれません。苦手な人は時々いるのですが、そういう人と出会ったときは、スッと距離を取っちゃいます。苦手な人に自分がさらに感情を持つほど踏み込む勇気がないのか、相手に向けるエネルギーを節約しているのか、誰かに対して自分の感情をむき出しに嫌いと感じることのできる人が羨ましかったりします。女性みんなを嫌いになれるなんてどれほどのエネルギーの持ち主なのか。

シトさん
この本はつまりこういうことを言いたいのだというのがよくわかる書評で膝を打ちました。その上で、どんな人に読んでほしいかを書く、読者に寄り添う書評で、私もこういうのを書きたいと思う書評です。

あんまん
私の書評はあんまん味マシマシの独りよがりになることに定評があります。これまで他の人の書評を真剣に読んできてませんでしたが、今回のwsで全員の書評をじっくり読ませていただき、自分の書評の拙さを実感しました。私が一番勉強になってます。ありがとうございます。

★ゆーろっぷ

シトさん『人生に生きる価値はない』
「意味がないのなら好きなように意味付けすればよい」ということと、「無が一番いい」ということは、一見して相反するように思われました。しかし、「無」そのものを意味として与えるといったようなメタな考え方もできるのかもしれません(単なる言葉遊びですが)。でも言語がなければ「無」という概念すらも存在しないわけで、それを発明した人間というものはかくも面倒な動物ですね。色々考えさせられました。

あんまんさん『利他・ケア・傷の倫理学』
『力と交換様式』を読んだことがないので変なことを言っていたら申し訳ないのですが、利他行動の駆動力=交換様式Dの「力」は「向こうから来る」(つまりある種の強制力を伴っている)ものであるにも関わらず、そこに「自由」を見出すというところが、逆説的でありながら利他の本質をついているのかもしれないなと思いました。ここでの自由は明らかに「選択の自由」ではないですね。『生きるための経済学』には逆に「利己心→選択の自由」という図式があることが指摘されていたので、その内容をより深く理解するためにも今回取り上げてくださった本を読んでみたくなりました。

Yujinさん『純粋異性批判』
ジェイラボの皆さん、流石に中島義道を取り上げすぎではないですか?笑。ずっと前に『人を嫌うということ』を流し読みしただけの僕はちょっと置いてけぼりを喰らってしまっております。それはさておいて、本書の魅力である「女」も「(西洋)哲学」も知れるということが伝わってくるいい書評でした。僕も「女」を知りたいです。

  • Yujin
    嫌いとか怒りとかを表現しない(できない?)日本の若者のことを中島先生は憂いていますね。思いっきり負の感情を出して、そしてそれを徹底的に分析する、言葉にする、これが人生を豊かにするらしいです。まあ僕はその女が理不尽であればあるほど好きなんですけどね。

■Hiroto

ちなみに、幻と消えたオープンワークショップ最新回では、中島義道『孤独について』を扱う予定でした。ジェイラボ御用達。

Day 7

★Takuma Kogawa

Daiki『死ぬんじゃねーぞ!!』
学校のクラスでカーストという身分制があるかのように説明されることがよくある。カーストがあると認識するからカーストがあるのであって、そんなものはないと認識すれば気にならない。いじめはカーストの上位から下位に対して行われるとは限らない。たまたま自分がいじめられていただけであって、自分がいじめをすることだって十分にありえたのである。

Takuma Kogawa『41歳の東大生』
私は一生かかっても東京大学に合格することはできない。その点で著者が東京大学に合格したことは素直にすばらしいと思う。しかし率直に言えば東京大学を卒業してどうするのですかという疑問が出てしまう。自分がいまから大学に通うとしたら、仕事に関連する分野で修士・博士課程に進むこと以外は考えられない。そんなに東京大学に通いたいなんて、意識が高くていらっしゃいますなあ。

チクシュルーブ隕石『悪文』
よい文と悪い文を比べたら確かによい文の方が読む側としてはありがたい。しかし個人的には文の良しあしはあまり気にしていない。どちらかといえば体裁の方が気になる。ひとつの書類の中で字体がそろっていなかったり、多くの色が使われていて気が散ってしまうようなものだと、内容がよかったとしても読む気がしない。このコメントは紛れもなく悪文である。

★あんまん

Daikiさん
「死ぬんじゃねーぞ!!」
なんでそんな強い口調で言われなあかんねん。いじめられている君は悪くないとか言っている割に、怒られているみたいだ。しかし、言っていることは道徳の観点から見ると正しい。道徳は共同体の規則であり、道徳を破られることは社会が不利益を被るからだ。それだけである。いじめが悪か、正義かという議論は自殺の善悪には関係ない。だから、いじめられている君が、悪くないと誰かから保証されても、死のうとしている人の耳には届かない。

Takuma Kogawaさん
私は社会でまともに働いたことがないクソガキなので、大学には巨額の資金が投入されているのだから、大学生にはその分をきっちり社会に還元するべきだという主張にあんまり実感が湧きません。その人の人生が楽しかったらそれでええやんと思っちゃいます。リスキリングという言葉初めて知りました。こういうフックをかける書評の書き方勉強になります。

チクシュルーブ隕石さん
文章の構成のことだけでなく、文章の伝え方にまで触れられているのが興味深いです。文章のアナウンスの仕方まで含めて悪文となりうるのですね。「悪文」なんて本を紹介しているのだから、私もいたずら心が働いてしまって、隕石さんの書評に悪文はないか探しました。でも気づきました。書評に悪文とは何かはっきりと書かれていませんでしたが、文章の作者の伝えたいことが意図した形で伝わりにくい文章が悪文だとすると、私は隕石さんの伝えたいことを文章でしか推しはかることができず、隕石さんの本当に伝えたいことは頭を覗かない限り推測するしかないので悪文判断なんかできないということに。悪文判断ができるのは自分が書いた文章を自分で読むときだけだ。

★ゆーろっぷ

Daikiさん『死ぬんじゃねーぞ!!』
自分の経験を振り返ってみると、明確に「カースト」を感じた(あるいは押し付けられた?)ようなことはない気がします。特に中学校はのほほんとしてました。なのでそういう概念についてあまりピンとはこないです。と同時に、「三軍」などの表現に対して言いようのない違和感を覚えていましたが、Daikiさんの書評の「自身の所属していたグループをも見下しているように聞こえる」という指摘を見て腑に落ちました。本の概要から自分が感じた部分までしっかりと記述されているとてもよい書評だと思いました。

Takuma Kogawaさん『41歳の東大生』
「学んだことを社会に還元するべき」という主張は一見当たり前ですが、実態としてそれがなされているかというと、大卒で新卒就職する人々に絞っても微妙なところではないでしょうか。(文系)総合職などをはじめとして、民間の仕事のほとんどでは大学レベルの専門知識は全く不要でしょう。また、コンサルなどに学部で就職する東大理系卒も増えているようです。もちろん、学んだことを活かせない仕事側が問題の中心であるとは思いますが。

チクシュルーブ隕石さん『悪文』
自分が「読みにくい」と感じる文章があったとして、それが形式面の不誠実さからくるのか、それとも内容的な難しさからくるのかを、ある程度判断できる必要が一般的にはあるように思います(例外は哲学書や思想書)。その意味で、「悪文」の特徴を知っておくことは有益かもしれません。ただ結局、「伝わる」なんてものは究極的には分からないことな訳で。個人的にはそういった判断基準を他者に投げるのではなく、「1年後の自分がみても、何が書きたかったのかを背景まで含めて思い出せる」ような文章を目指したいですね。

  • Takuma Kogawa
    私の主張は、知識を活かせないという状況よりも、「別に活かしませんが何か?」という開き直った個人の意識に対する問題意識が強いです。本書のnoteに書かれたコメントを読んでも思いましたが、マインドがパパ活女子の人間が増えると困りますね。例を挙げれば「研究が役に立つかどうかはどうでもいい。とにかく研究費をよこせ」と大っぴらに主張する研究者は、マインドがパパ活女子である被害者芸人だと考えています。社会というパパに甘えているわけですね。費用対効果の話をしたいのではなく、ぼんやりとした社会の期待に応えようとしない姿勢を明確にされると、そういう個人の自由は尊重するものの、なんでこいつのためにパパが気を遣わないといけないの?とは思ってしまいます。

  • ゆーろっぷ
    「社会に還元しようとする意志」がないにも関わらず「個人の自由」を盾に大量のリソースを食うのは、明確に利己心=虚栄心の産物なので、それを大っぴらに宣言するのは僕も非常に気持ちが悪いものに感じます。これは要するに、個人の生命保障あるいはもっと広く社会の前提となるもの(種々のリソース)の価値(≠ 価格)を全く無視してただ都合のいいように食い潰しておきながら、それに開き直るという極めて傲慢な態度でしょう。
    しかし、よくよく考えてみれば、真の意味で「社会に還元する(=余剰を生み出す)」仕事である農業やエッセンシャルワークに与しているのはほんの一部の人々です。「社会の期待」とは厄介なもので、これは大抵「市場の期待(=貨幣で評価されるもの)」と捉えられてしまうように思われます。「この仕事は社会の役に立っている」と明確に答えられる人は、イギリスやスペインで行われた調査では50%程度という結果があったそうですが(もちろん母集団によってバイアスがあるのであくまで参考程度)、市場が評価するものと社会にとって本当に必要なものとの間には乖離があるのは事実なようです。こう考えていくと、「社会の期待に応える」というのは一体どういうことなのかが分からなくなってしまいました。

  • Takuma Kogawa
    還元とはどこまでの範囲かを明確にできず申し訳ありません。単に専門的な知識や技術を使うことだけではなく、いわゆるインテリと非インテリ(大学に行かない層)とで無意味な衝突が起きないようにすることも含まれると考えています。たとえば投資を呼びかけるような銀行マンは専門知識は使っているのでしょうが、適法ギャンブルのような行為を「還元」と呼ぶかは難しいところです。
    社会の期待を市場の期待と捉えられやすいのは事実だと思います。製薬業界ですと新たな治療法が見つかることは株価や薬価として金銭的に評価されます。医薬品開発に関係する者としては、これを還元と考えるのが正しいとは断言できません。医療は国の制度に大きく依存しており、医療リソースを使うほど税金がそこに投じられるわけで、それが社会のためになっているとは考えておりません。アカデミアや医療現場は、短い余命を伸ばすことも善であるような理論を構築しているのですが、本当にそれをやるのが正しいと思っているのか、医療とはどうあるべきかに無頓着に見えることに私はいらだっております。個人的には仕事を通じてなるべく医療にかけるリソースを減らすように努力しており、私はこれを社会の期待に応えることと信じておりますが、外部(社会)から見てそのようには評価されないだろうことは自覚しています。社会に対して理解を得ようとすることが、期待に応えようとするためには必要なのだと考えています。私は少なくとも社内に対しては理解を得ることに注力しています。

■Hiroto

このまま進むと「研究が役に立つかはどうでもいい。とにかく研究費をよこせ」という姿勢になってしまいそうなことに嫌気がさしたのが、博士課程に進まない方向に舵を切った最後のスイッチでした。しかしそれはそれで、自分の学んだ知識を直接的に社会に還元することが困難になる(間接的にならむしろ容易)ことを意味しており、生半可な覚悟で数学修士に進んだ時点でゲームオーバーだったのでした。

Day 8

★Takuma Kogawa

imadon『短歌のガチャポン』
友人に歌人がおり、彼の歌集を買って読んだりもしたのだが、正直に言って何が書かれているのか読み取ることができなかった。数十首かけてあるストーリーが描かれていることはわかっても、一首ごとに観ていくと情景がうまく認識できなかったりした。本書のようにランダムに配置されたものだと、一首のみでイメージを膨らませなければならず、私は絶対に挫折してしまうだろう。

Tsubo『嫉妬論』
Tsuboさんの書評といえば書き出しが「(名詞)。」になっていることが多く、これをみるだけでTsuboさんだとわかってしまう。それはさておき、本書の帯に「羨ましい」という言葉があるのが気になった。嫉妬とうらやみは近しいが別物ではないだろうか。私も羨ましいとは思ったことは何度もあるが、ねたましいという感情を抱いたことはないかもしれない。いや、ジェイラボメンバーの中に時間や約束を守れなくても交際相手がいる輩がいるようだが、彼らに対しては嫉妬しているとはいえそうだ。おい、そこのお前のことだよ。

イヤープラグさざなみ『批評理論入門』
なにかに触れて自然に湧き上がる感想は「面白かった」とか「なんやこのクソゲー」という程度である。そこからもう少し補強しようと思うのか、もう一度やり直して感想が変わるのかを確かめようとするのか、このあたりは人によって異なるだろう。仕事として批評するのではなく、個人的に感想を補強しようと思うのなら、あなたにとっていい体験だったのだと思う。一方で、もう一度やり直そうと思ったからと言って必ずしもいい体験であったとはいえないように思う。苦手な食べ物に何度も挑戦しておいしさがわかる経験は一度はあるだろう。このような作品は批評の題材になる前に捨てられてしまうかもしれないと思った。

★あんまん

imadonさん
俳句や短歌から感じる心の動きは見る時の心の状態によって大きく左右される。小学校の頃国語の教科書に載っていた俳句や短歌を今一度見てみると、その奥ゆかしさに驚かされる。だから句がランダムに紹介されると、心の準備ができていないから、より一層句から感じられる幅が広くなるのだろう。好きな書評です。

Tsuboさん
「情念」という言葉にあまり聞き馴染みがなかった。哲学の分野でよく使われる言葉なのだろうか。コトバンクには「感情が刺激されて生ずる想念。抑え難い愛憎の感情。」と書いてあった。私の身体的経験から考えると嫉妬が抑えがたい感情であることに頷ける。けれど「愛憎の感情」か。愛することも憎むことも私がもっともっと知りたい感情である。嫉妬=情念=抑えがたい愛憎の感情なら私は嫉妬が大好きだ。もっと嫉妬したい。でも、嫉妬はしようと思ってできるものでもなく、勝手に湧き上がってくるものだろう。

イヤープラグさざなみさん
批評というのは、ざっくり言っちゃうと事物が良かったか悪かったか決めることだと私は認識している。価値があるのかないのか決めること。でも、誰にとってだろう。批評を書いた本人にとって価値があるのか、はたまた当批評を読むあなたに価値があるのかを書いたものなのか。世の中に数多ある批評はこの辺を分けず一辺倒に「批評」としてまとめられているからタチが悪いと思うのです。

★ゆーろっぷ

imadonさん『短歌のガチャポン』
書評を読んでいるとなんとなく「制約/逸脱」の軸が想起されて、それを頭の隅におきながら読ませていただきました。何も制約がないと人間は一見自由に見えるけれども、制約がないというまさにそのことによって「何もできない不自由」に陥ってしまうので、制約=ルールは必要である。そしてその中でいかにして逸脱していくかを試行錯誤することが、美しさ=自然=自由を回復していくことにつながる。順序なくバラバラに紹介されるという構成も、そういった本質に対する直観に基づいているのかもしれないなと思いました。

Tsuboさん『嫉妬論』
最近の自分を鑑みると、「羨ましいな〜」と感じることはあるのですが、明確に「嫉妬」と呼べるような強い感情を抱くことはほぼなくなっている気がします。前であれば理不尽に見える事柄にも意味づけができるようになったというか。その辺りは「羨ましい」と「嫉妬」の境界線なのでしょうか。結果として変に感情に振り回されることがなくなったとはいえ、嫉妬のような強い感情が出てこないというのはある意味で不健全な気もしています。嫉妬を知るためにも本書を読んでみた方がいいかもしれません。

イヤープラグさざなみ『批評理論入門』
自分も作品(テクストに限らず映像なども含む)を鑑賞するときに「より深く味わいたい」とは思います。しかし、そのような欲求の源泉は一体何なのでしょう。批評とはこの欲求に(おそらく間接的に)応えるための一つの方法論なのだと解釈していますが、そもそもなぜ批評という営為が成立するに至ったのか。まあ、これは批評理論ではなくて、その成立史とか人類学的考察とかの領域になってしまいそうですね…

Day 9

■Takuma Kogawa

本日は図書委員会からの投稿はありません。ここまでの書評ややりとりを読んだ感想などを自由に投稿してください。明日は委員長からお話があります。

■Hiroto

コメントをされるとおもろかったです.また,それに返すことで次への指針が明確になる感覚がありました.

■YY12

自分も面白かったです。人の目を意識すると次はもっと良い書評が書ける気がします。

Day 10-13

■あんまん

あらためて書評、note記事の作成ありがとうございました。ここからWS後半に入ります。
早速ですが、どんなことを意識して書評を書いているでしょうか。義務としてやらなければならないから、書けと言われてなんとなく書いている人がいるかもしれません。これまでの私がそうだったからです。そこで、このWSで一度立ち止まって書評について考えてみましょう。目的意識を持って書くのとそうでないのとでは書くことに対する熟練の速度は違います。今よりももっと良い書評が書けるようになるかもしれません。執筆速度も早くなって期限ギリギリに提出する必要もなくなるかもしれませんね。
ここで良い書評という言葉を使いましたが、果たしてそれは一体どのようなものでしょうか。ある程度形式が決まっていて、800字という短い書評ですが書く人によって多様な姿を見せます。WSの前半で全員の書評に触れましたが、多種多様で面白いです。自分の分析をほとんど入れずに本の内容を簡潔にまとめて紹介するものや、作者の経歴や、同じジャンルやテーマと絡めてその本の独自性を際立たせたもの、書く人自身の読書体験や感想を含めることで読者にとって参考になる視点を提供するものなど。書く人によっていろいろです。けれどいろんな書評があっていいねで終わらしたくありません。何を目指して書いたことによってあなた色の書評になったのか問いたい。そしてその問いから、もう一度自分がどうやって書評を書いていたのか考えてほしいと思います。

そこで、書評執筆経験のあるみなさん、書評を書くうえで心掛けていることを教えてください。また、あなたが思う「良い書評」とはどのようなものか教えてください。

■Hiroto

初期はだいたい「本書は○○な本である」から始めていたのですが、多分だんだん飽きてきて、一文目大喜利はちゃんとするようになりました。

・疑問投げかけ
・抽象的図式の提示
・(日本人なら)ほぼみんな知ってる文化的あるある
から始めると、なんかぽいものが錬成できるという感触です。

『ドーパミン中毒』とかはその前段が長すぎると所長に言われたので、それも踏まえてちょうど良いバランスになってきたと感じます。

良い書評:書評を書く人がその人でなければ書けないようなもの。しかし、その人のドヤ顔が見えてこないもの。

僕は多分何をしてもドヤ顔が滲みすぎており、書評としてはタチが悪い。内容ではなく文体の方で個性を醸し出すくらいがちょうど良いのかもしれません。

  • あんまん
    一文目大喜利や疑問投げかけ、あるあるから始めると読者の関心を引き込むことができると思うので読ませるための有効な技術だと思います。最初から網の目を細かくしないのは魅力的な書評を書くうえで大事だと思います。ただおっしゃる通り全体の文字数との比率は無視できないです。
    書評の独自性は面白い視点です。800字書評は字数がかなり短いので自分を殺した形式的なものになりやすいと思います。だからことその中で独自性が見えると良い書評に見えるのかもしれません。

■蜆一朗

僕は
 ⑴ 本文を読まなくてもわかる情報は載せない
 ⑵ 自分の感想は極力載せない 
 ⑶ 本文を平易な文章で要約することに努める
 ⑷ 800字ピッタリにする
の4つを意識しています。800字と字数が少ないので、著者のパーソナリティ(所属・専攻・他の著作)を紹介したり、抽象と具体を混ぜながら話したりすることはできないと思っています。自分の感想は note 記事で思う存分書けばいいので、ここでは自分を殺して簡潔に要約することを心掛けています。
===============
あと、800字ピッタリにするのは余計なこだわりかもしれませんが、文意はそのままにして文字数だけ変えられるような別の表現を探したり、助詞などの細かな部分にも気を配ったりするようになるので、文章力を鍛える上では意外と意味があるかもしれません。

  • あんまん
    しじみさんの書評は紹介する本の核はこういうものなんだろうと思わせる書評だと感じます。意識している4つのことを聞いて膝を打ちました。
    1文字単位で文章を推敲することで得られる気づきは俳句をやって身にしみて実感しています。800字ピッタリにするそのこだわりから出る魅力がある思います。

■西住

書に限らずあらゆる評論は自分のために書くことを意識してます。自分が書いていて面白いかどうか、納得できるかどうかが全ての基準です。

■コバ

書評を書くことで感じることは「筆者と自分が違う人間である」ということですね。その本のテーマになっていることへの筆者と自分の感じ方の違いやそもそもその本への自分の理解の届かなさがその違いを感じる主な要素ですが、本を読んでいる時以上に書評を書いている時の方がその感覚が浮き彫りになってきます。そしてそれを埋めようと言葉を尽くせば尽くすほど逆に書評を読んでくれる側への共有可能性が減っていくので伝える、伝わるという事に関してはまるで終わりの無い鬼ごっこみたいなものだと思っています。書評を書くうえで心掛けていることとしてはそれに対して自覚的であることですね。とはいえnote記事があることで共有可能性の質の部分は補完できる仕組みがあるのでnote記事とセットになっているという点は良い仕組みだと思います。「良い書評」という事であれば・本への関心が湧くような内容になっていること・本の紹介と書く側の意見や個性の配分が適切であるかどうか。この2点が整っていれば良い書評だと思います。

■imadon

800字書評に関しては2回しか書いていないので正直まだ手探りの段階ですが、内容を簡潔に要約しつつ、自分にしか書けないものを書こうとは意識しています。

Day 14

■あんまん

私が書評を書く上で意識していることは、取り上げる本の核⼼をつかまえることです。800字と短いからこそ、本が伝えたい内容を逃すまいと思っています。けれど、それ以上に重要なことは本を紹介している⽂章を読んだ⼈が、当の本を読んでみたくなってくれることだと思います。読書ガイドとして情報を得るために読むこともできるが、それ以上にその本を読みたくさせる⽂章こそが良い書評ではないでしょうか。 いかに本を読みたくさせるかに趣向を凝らすことで、書評に味わい深さが出てくると思っています。

また、読者が取り上げる本に関心がなくても書評だけでも楽しんでもらいたいという気持ちがあります。なので、堅苦しくならないように少し遊ぶこと意識しています。これは読者のためでもあるのですが、自分が退屈しないようにするためでもあります。

■あんまん

このwsはみなさんがnote記事、書評を提出してくださったため成り立ちました。ありがとうございました。コメント投げてくれた方、コメントを読んでくれた方、座談会に付き合ってくれた方ありがとうございます。それぞれの書評にその人らしさがあって興味深かったですし、書き方のテクニック面でも参考になりました。このwsで書評タスクに対する向き合い方が前向きになれば本望です。これにて図書委員会のwsを終了します。ありがとうございました。

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