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ジェイラボワークショップ第31回『英語を学ぶ意義とは何か』【英語部】[20220606-0612] #JLWS

本記事は、オンラインコミュニティ「ジェイラボ」内部にて行われました、私が部長を務めます英語部のワークショップのログです。今回は初回オリエンテーションという形で、「英語を学ぶ意義とは何か」をメインテーマとして進行させていただきました。

以下のログにおいては、日付ごと、投稿ごとに見出しをつけました。メインテーマに関わる僕個人の考えについては、Day5とDay6の投稿にて大体の内容を語っていますので、参考にしていただければと思います。


■ゆーろっぷ

おはようございます。英語部部長のゆーろっぷです。
文章はお昼頃から投稿していく予定です。よろしくどーぞ!

■ゆーろっぷ

改めましてこんにちは、英語部部長のゆーろっぷです。今日から1週間、WSの司会を担当させていただきます。よろしくお願いします。
現在のジェイラボワークショップはオリエンテーション期間ということで、英語部も他の部活動と同様に、2回目以降のWSに繋がるような導入の話をしていきたいと思っております。もちろん、皆さんご存じの通り、英語部は設立から間もない部活動で、2回目以降のWSで具体的にどのような内容を扱っていくかはまだまだ検討が必要な段階です。しかし、英語部という名前がついているからには、参加者の皆さんには何らかの形で英語に触れていただきたいと考えています。そして、今回はその前提の前提、すなわち、「そもそもなぜ英語を学ぶのか」「英語を学ぶ意義」についてのお話です。
第1回英語部WSは、僕自身にとっての(司会者としての)オリエンテーションでもあります。すなわち、今回はWSへの導入や参加者との交流を目的としたものではありますが、ある程度は「語り」的な要素を入れていく予定です。至らぬ点も多くあると思いますが、今後のWS進行に活かせる経験としつつ、皆さんと一緒に共通のテーマについて考えていけたらと思っております。

Day1 英語の得意不得意について

■ゆーろっぷ

前置きはこれくらいにして、早速アンケートからいきましょう。ここでの「英語」は、英語の運用能力・英語の技能を(あえて漠然と)指すこととします。今現在の自分の英語力を基準に答えていただければと思いますが、長い間英語に触れていないという方は、過去(学生時代)の英語力について答えていただいても構いません。

■アンケート

英語は…
:1: 得意だ(得意だった)    3
@Tsubo, @Takuma Kogawa, @にしむらもとい
:2: どちらかというと得意だ(どちらかというと得意だった)    2
@YY 12, @シト
:3: どちらかというと苦手だ(どちらかというと苦手だった)    9
@Hiroto, @蜆一朗, @コバ, @Yujin, @匿名希望, @Naokimen, @Daiki, @あんまん, @Yuta
:4: 苦手だ(苦手だった)    4
@チクシュルーブ隕石, @Shun, @ジパング, @イスツクエ

■ゆーろっぷ

補足:WSのアンケートについて
例に漏れることなく、このWSもアンケートをいくつか設定しています。ただし今回に限って言えば、その目的としては主に、英語学習に対する自分自身の考え方というものを、皆さんに改めて見直していただくことです。改めて見直してもらうというのは、英語学習をしていない人に無理やり英語を学ぶように説得しようというのではなく、あくまでこのWSを足がかり(補助)として、「『自分自身』の、英語に対する付き合い方」を見つけていただこうというのが趣旨になります。もちろん、問いかけをしているからには、僕から「答え」のようなものを提示することもある(アンケートの内容による)かとは思いますが、ここでは絶対に正しい「解答」を示すわけではありません。答えというよりは、質問を通して考えてほしかったこと、質問の「意図」を中心に語りを展開していきたいと思っています。ですので、アンケートについてはあくまで素直に、自分の感覚に基づいて答えていただき、その上でその理由まで言語化して共有していただければ嬉しいです。

■Hiroto

正直受験のときもそれなりの点数は取れてしまっていたので、「英語が苦手だ!」と言うと色々な人に嫌味やあてつけだと言われてきたのですが、"受験英語"以外は本当に苦手です。
高校で測った4技能のテストも、リーディングは学年上位でしたが、ライティングはビリから四位でした。スピーキングなどなおさらできるわけがありません。大学入ってからの英語で話す授業も苦痛でしかありませんでした。
今のところ論文を読むときなどはリーディング能力だけでどうにかなっていますが、将来外国の方とディスカッションをすることなどを考えると、今のままでは何もできないと思います。悲しき受験モンスターとでも言えるような、現代日本英語教育の縮図のような人間なのかもしれません。

  • ゆーろっぷ
    大学入試英語は長文読解の比重が大きい傾向があるので、英語そのものというよりは、やはり英語を介した情報処理の試験という側面が比較的強いように思われます(TOEICとかよりはマシな気はしますが)。そのような試験で点が取れる=英語が得意である、という図式を採用するのは、少し躊躇われますよね。僕もリーディングであればできる方の人間ではありますが、英語が得意であるかというと最近はそれに疑問を持つようになってきました。結局どのような技能をもってして得意/不得意としているのか、といった問題になるかと思いますが、その辺りは3日目で触れる予定です。

■蜆一朗

試験ということだけ考えると、高校受験のときは入試で満点を取るほどの得意科目でした。そのまま高校2年まではずっと得意だったのですが、大学受験の勉強を数学に振って(得意でなかったので振らざるを得なかった)1年間ほとんど勉強せずに放置したため、得意科目ではなくなってしまいました。センターも筆記だけはそこそこ取れましたがリスニングは30点(笑)でしたし、二次でもおそらく平均点とされるライン(6割)には届かずじまいです。高2までの貯金で大学入試で足を引っ張らない程度には何とかなりました。
 僕の英語の勉強といえば、学校のリーディングの授業で扱った文章を暗唱するまで音読することと、教科書や文法書にある例文を日本語に訳し逆に英訳し、という作業をひたすら繰り返す(複文)だけでした。文法や有名な表現についてはそれでそこそこ身についた気がしています。高校2年のときは学校で配られた英文解釈の参考書も同じやり方でそこそこちゃんとやりました。高校3年間でやった勉強といえばこれくらいです。英語の参考書は買わなかったし、長文読解も英作文もリスニングも何も対策しませんでした笑。英語が嫌いだったというわけではなく、それ以上に興味を持つ分野が多かったため優先度が低かったという感じです。
 大学に入ってからは、学部1回生のころにバークリやメルロ・ポンティの文章を英語で読むゼミに参加していて、かなり時間をかけて読んだのですが、それっきり英語の勉強らしいことは何もしていません。大学の一般教養の英語の講義もかなり憂鬱な気分で参加していました。今となっては英語を勉強しないといけないなという気持ちになっています。数学の論文に使われる英語は平易なので専門用語さえ知っていれば高校生でも読めると思います。僕もそこまで不自由を感じないのですが、やはり自分で書くとなったときには時間がかかります。似たような表現ばかりになってしまったり、平易な文章に和訳しないとかけなかったりします。ましてや英語の講演を聞いたり自分で発表したりなんてとてもまともにできる気がしません。共通テストでは筆記とリスニングの点数が両方とも100点になったようで、今受験生だったら頭を抱えていると思いますT^T。何から手を付けてよいかわからないレベルなのですが、所長もやっていたという速読英単語を買ってたまに読むくらいのことを始めました。「身の丈に合った」勉強から始めたいと思います笑。

  • ゆーろっぷ
    自分で書く(表現する)ということに意識が向いているのは、英語学習においては大切なことだと思います。この話題については後半の方で触れる予定です。
    身の丈にあった勉強は大切ですね笑。このWSも、そのような等身大の勉強をするための一つの補助になればいいなと思いながら進行案を練りました。何か考えるヒントを見つけていただけたら嬉しいです。

■チクシュルーブ隕石

僕は英語に対して苦手意識を持っていたことに加えて実際に苦手でした笑。受験勉強というカテゴリの中でも最も上手くいかなかった科目は英語だと思っています。これは普段から英語というものを意識していなかった事が影響していると感じています。
また普段から英語を読む生活をしていない事から受験英語以外の英語に触れる機会がほぼありませんでした。それなので受験英語以外の英語にも慣れていません。
意識して英語を積極的に読むようにしないと本当の意味で英語に親しむことはできないのかも知れませんね。

  • ゆーろっぷ
    英語に触れる(英語を読む)機会を積極的に作るということ。それも大切だとは思います。ただ、英語を読むとしても、普通に読んでいるだけでは「慣れる」以上のものは出てこないかもしれません。僕は一時期平易な英文(語彙制限がないので、単語のレベルという意味では難しいかも)を大量に浴びるということをして、生の英文を読むのに躊躇するということは確かになくなりました。しかし、自分の英語力(語彙力)が高まったかというと、その実感は正直あまりありません。英語に触れる機会を作ることに加え、そもそも英語という言語をどう捉えるのか(単なる情報の伝達媒体なのか、それともそれ自体として違う文化を持つ生きた言語なのか)ということも、英語に親しむには必要なことだと思います。この辺りは英語を学ぶ意義にも関わる話なので、このWSを通してじっくりと考えてみてほしいです。

■YY 12

他の教科と比較すれば得意な方だったと思います。中学では「教科書に出てきた長文を丸々暗唱する」というのを毎回テストされていたのですが、それが今の下地を作ってもらえたと思うので蜆さんが仰っていた勉強方法には大変共感出来ます。きつかったですが、あの時の先生には感謝しかありません。
ただ、英語学習に力を入れていたのは中学が最大で、それ以降はその貯金と緩いモチベーションで進んでいってしまった感があります。
中学の時は、「日常のコミュニケーションで使うかもしれない」と考えられたので気持ちの面でも前向きに取り組めたような気がしますが、高校からはそうもいかなくなりました。別に嫌いということはありませんでしたが、細かい文法知識や「問題を解くための」長文といった所謂受験英語はやっててあまり楽しくなかったです。もう少し細かく言えば、ここでの楽しみは英語そのものではなく、点数が取れることの喜びに終始していたと思います。(それが絶対に悪いとは言いませんが)

  • ゆーろっぷ
    勉強をしたら点数が取れる、というのは、確かに知識を身につけさせるためのインセンティブとしては良く働くのかもしれません。一方で、英語は生きた言語ですので、受験英語的な発想──問題を解くための「情報」のみを読み取ればいいという発想──は、英語自体への純粋な興味関心を濁らせてしまうのかもしれないとも思います。ここら辺を突っ込むと英語教育の話になってしまうので、そこは教育研究部さんに譲りたいと思います笑。

■Daiki

苦手(中1〜高2)→得意よりのどちらかというと得意(高3、浪人)→どちらかというと苦手(今)です。
中学入学時から高2の最後まで、かなり苦手でしたが、高2の春休みに、(ネテロが山で修行したように)部屋にこもって英単語(ターゲット1900)と中学レベル英語をひたすら覚えました。英単語がだいたいわかるようになってから、受験英語が怖くなくなり、出来るようになりました。海外大を視野に入れていたこともあり、高3の時は4技能全部そこそこ出来ましたが、3年程英語に触れていなかったので、今はできなくなっています。(最近また少しずつ勉強し始めました。)ただ、得意だった当時も、文法知識を文法書から学ぶことはしていなかったので、文法問題・間違え探し問題・和訳問題などは、あまりできませんでした。ざっくりなんとなくで掴んでいた感じです。
私も蜆さんやYYさんと同じ「暗唱」をしていました。授業などで精読した文章をCD音源も利用しながら、聞いて、音読してを繰り返しやっていました。楽しかったので、何回もやっていて、いつの間にか覚えていることが多かったです。
なんでもそうかもしれませんし、極めたことのない人間がこれを言うのはどうかと思いますが、英語は「やれば出来るようになる」という印象が特に強いです。

  • ゆーろっぷ
    「やればできるようになる」というのはある程度正しいと思います。僕もひたすら単語と読解をやって受験英語はできるようになりました。ただ、ここで問題となるのは、普通に「やる」ことで「どこまでできるようになるのか」というところです。もちろん、何も意識しなくてもネイティブレベルまで英語の力を高めることができる人もいます。しかし、言葉が「できる」とはどういうことか、そして、自分はどのレベルを目標にするのかが曖昧なままだと、勉強しても結果的に伸び悩んでしまうということもあるはずです。目標という山の頂上までの道のりが見えていなければ、そもそも山を登り切ることは難しいでしょうし、その道のりすら楽しめないこともあるかもしれません。英語の勉強を「楽しむ」(≠ 楽に英語を身につける)ためにも、このWSを通じて、自分なりの「英語を学ぶ意義」を考えるヒントを見つけていただければ嬉しいです。

Day2 英語学習のモチベーションについて

■ゆーろっぷ

1日目のアンケートへの回答、ありがとうございます。今日の問いも1日目と同様に素朴なものですので、Day1とセットで考えてみてもいいかもしれません。

■アンケート

英語学習のモチベーションは…
:1: かなりある    1
@あんまん
:2: ある程度はある    10
@チクシュルーブ隕石, @chiffon cake, @蜆一朗, @Naokimen, @Tsubo, @コバ, @Yuta, @Daiki, @ジパング, @イスツクエ
:3: そこまでない    7
@イヤープラグさざなみ, @Hiroto, @Yujin, @Shun, @YY 12, @シト, @にしむらもとい
:4: 一切ない    2
@西住, @Takuma Kogawa

■ゆーろっぷ

補足:Day2のアンケートについて
素朴なアンケートとは言いましたが、モチベーションがある/ないことの理由を言語化するのは、割とハードルが高いかもしれません。おそらくそれは、この問いについてある程度本質的な観点から考えていくと、今回のWSのメインテーマ(英語を学ぶことの意義)について触れざるを得ないことに起因するのだと思います。もちろん、それは本質を含みつつもある程度実践的な観点からの問いの立て方で、実践さえも捨て去って究極を突き詰めれば、「ただ学びたいから学ぶ」「別に学びたくないから学ばない」になってしまうのですが。でもやっぱり、現時点でそこまで行くのは「近道しすぎ」感があります。ということで、あえて回り道をしてみましょう笑。つまり、比較的俗な考え方をしてみようということです。モチベーションのある方であれば、例えば、英語を学んでいたのでこんな状況で役に立ったという経験など、非常に個人的な(具体的な)視点から理由づけをしてみるとよいかもしれません。本質からは外れるわけですが、それもまた一興、ということで。もちろん、自分にとって英語を学ぶ意義とは何か、そもそもそんなものはあるのか、このような問いに真正面から当たれる方はそれについて書いてくださっても構いません。よろしくお願いします。

■蜆一朗

昔から英語そのものが嫌いなわけではなく、なんならフランス語やドイツ語やラテン語にだって興味は持っています。哲学書や歴史書も原典で読めれば楽しいだろうなと思いますし、暗記にあまり抵抗がないので語学の勉強そのものも嫌いではありません。ただ、一流の論文や最先端の理論を勉強しようと思うと数学に割く時間がどうしても多くなってしまうので、TOEFL や TOEIC に手を出す時間はないですし、英単語帳を読んで有名な語彙の知識だけ増やすのも違うなと思うようにもなりました。今目の前にある課題として、論文を英語で書いたり英語で講演をやったりする必要が生じているため、それができるくらいの力を身につけなければいけないと思っています。ここではそのためにやっている試みを2つ紹介してみようと思います。やっている研究の成果が出せて論文を書くことになった際に、それ相応の力がついていたら嬉しいです。

(1) 語彙力が低く同じ表現を使いまわしてしまうため、論文が稚拙に感じられてしまうという危機感があります。その対策として、例えば「(C により) A=B が成り立つ」ならば

  • A=B holds. (It holds (from C) that A=B.)

  • We have A=B (by C).

  • (Using C,) We obtain A=B.

  • It leads A=B.

  • It implies A=B. (「直前と A=B が一目では同値とわからない」というニュアンス)

  • We conclude A=B. (「いろいろ式変形の結果ようやく」というニュアンス)

のようにまとめてすぐ参照できるようにしています。ニュアンスも含む場合はそれも付記するようにしています。ちょっとずついろんな表現が浮かぶようにはなってきています。ただ、ここで挙げたものもすべて今思いついたもので間違っている可能性があるので、間違いがあれば教えてくださいT^T。

(2) 博士課程にもなると、新しいことを勉強する必要が生じた場合、日本語で説明してくれている本がないとか、出てくる表現の日本語訳がない (数学用語でいうと well-defined や compatibility condition など) とかいうことが多発します。そのため日本語で勉強しようとするのを半ば諦め、単語の意味の核を掴んで専門用語のニュアンスを読み取ろうとしたり、自分がパッと英語にできそうにないなと思う表現が出てきたらメモしたりしています。たまに思い出したときに音読してみたりもしています。

  • ゆーろっぷ
    逆に質問になってしまうのですが、(1)のようなリストは、論文を読む中で出てきた表現をもとにして作っている感じなのでしょうか。僕は前までリーディングとライティングを完全に別物として捉えていたのですが、「英語で表現する」という自覚が出てきたときから、目の前の英文をもとに英語表現のヒントを得ようという視点を持つようになりました。蜆さんは自然言語の運用能力にも非常に長けているという印象があるので、英語を学ぶ際の僕自身の意識が、蜆さんのものと似たような方向を向いているのだとしたら少し安心できるかもしれません笑。

  • 蜆一朗
    僕は英弱なのであまりあてにはならないかもしれません笑
    ご指摘のとおり論文や専門書に出てきた英語のみを引用しています。文章には文脈があるし、単語にも使われるべき状況があります。"conclude" という単語を例示しましたが、辞書を引いてみると「~を締めくくる」「(条約等を)締結する」「~と判断を下す」「結論を出す」と4つの意味が載っていました。これも「様々な行為が行われ紆余曲折を経た最後に出てくる」という抽象化ができればぜんぶ同じことだと思えるでしょうし、辞書には載っていないですが数学の文脈で出てくれば「定理を証明し終えた」となるのも簡単にわかります。このような訓練は一定上の量や文脈を含んだ文章の中でしか行えないと思いますし「本に載っている語法や頻出表現を覚える」こととは明らかに学習の質が違います。ニュアンスの違いを感覚として会得しているのと知識として知っているのとでは表現の豊かさに大きな違いが出るでしょう。
    だから僕は受験生のとき、単語と訳が一対一だとか、せいぜいその単語を使った一文が載っているだけだとか、そういう単語帳はあまり好きではなく、学校が採用していたシステム英単語に合わせるのが苦痛でした笑 今なら速読英単語か DUO を使うと思います。
    また、英文解釈や読解をこういう目でやっていれば英作文にも応用できて特別な対策はいらないと考えていました。また、論文での語彙の使い方には結構ローカルなルールも慣習もあり、誰かがまとめてくれているものでもないので、そういうものは論文でしか学べないという事情もあります。たとえば

    ・数学で "Problem" というときは明確に解けるか解けないかが定まるものを指す。したがって例えば初期条件のない微分方程式単体を Problem とは言わない。
    ・論文で etc は使わない。e.g. , i.e. は使うことがある。
    ・「F : R→R が…」というとき「F : R→R is …」のように数式が文頭に来るようにはせず「The function F : R→R is …」のようにするのが望ましい。

    といったものです。長くなりましたが、こんな感じのことが理由で、やはり英語は論文を読んでいく中で自分で会得していくものだなという感覚を持っています。

■Takuma Kogawa

国数理社英の主要五教科のなかで英語はもっとも実践的である(すぐに役に立つ)科目であると思っています。私の感覚では国語は実践よりは「味わう」に傾いていると思います。
これまで触れてきた英語のなかでいちばんきつかったのは大学受験での英語でした。どの文型にあてはまるのか、どこまでが主語なのか……という解読ばかりをやらされていたように思います。
大学教養の英語はそれと比較するとなぜか楽で、文献を読むときもわからない単語や専門用語を調べながらであれば苦ではありませんでした。仕事でも文献を読みますが、高校までのテストで問われるような複雑な文章はほとんどありません。契約や覚書(agreementやmemorandumとよばれる)でも文を読むことは平易です。
大学生までであれば英語を学習する動機はあったと思いますが、今となってはせいぜいスピーキング以外の技能を強化したいとはまったく思いません。英語は単なる道具であって、数学や理科で培われるような思考力の涵養などは期待していません。英語が話せないと国際社会でやっていけないような風潮ですが、母国語でもはっきりした意見表明ができない人(はぐらかすような言い回しをする人、そもそも意見表明をしない人)がほとんどですので、英語より先にやることがあるでしょ、と思います。

  • ゆーろっぷ
    英語は単なる道具であって、数学や理科で培われるような思考力の涵養などは期待していない
    ここでの「思考力」は「論理の運用能力」のことと解釈しました。英語を単なる道具として扱うことを考えた場合は、これは紛れもなく正しいことだと思います。論理の力を鍛えたいなら、圧倒的に数学を学ぶべきです。しかし、僕としては英語を単なる道具として終わらせるのはもったいないと思っているので、これとは少し異なった論点を提示することにしています。論理の運用能力(思考力)というよりは、さらにその前提、すなわち言語自体の認識と解釈に関わるものです。英語を学ぶことによって日本語(母語)を相対化してみることができる、とはよく言いますが、この点についてもう少し具体的な説明を後半の方で試みたいと思っています。

■Naokimen

英語学習のモチベーションはある程度はあるに投票しましたが、それは英語が楽しいからやるという積極的な理由ではなく必要だからやるという消極的な理由からです。具体的には、進もうと思っている研究分野では海外の人と共同研究するということが頻繁にあり、英語を話せないと話にならないので、そのうち主にスピーキングに関して英語学習したいと思っています。
英語そのものはあまり好きではないですが、それは英語が少し苦手(特に単語を覚えるのが苦手)なことにもある程度依存すると思っています。つまり、ある程度英語ができるようになったら海外の映画を見るなどして楽しめるだろうなと思っています。

  • ゆーろっぷ
    専門にいくとやはりその分野の研究が優先になってしまい、英語は必要に迫られたらという感じになってしまいますよね。しかも文脈もアカデミックなものに限られるでしょうし……。気が向いたら学術の文脈を離れて英語に触れてみる程度がちょうど良いのかもしれません。

■YY 12

英語学習を中学校から6年以上やってきて必要最低限の読解や情報収集は出来るので、これ以上頑張ろうというモチベがあまりないように感じます。それよりも興味もあって知らないことだらけのものがたくさんあるので、必然的にベクトルはそっちに向かっています。もちろん「必要最低限できる」と考えるのは「井の中の蛙」であって、そこで満足することはよくありませんし、検定や試験のためにもやらなければならないとは思っていますが、それは言ってしまえば義務感であるように思います。
ただ、英語を学ぶことが必ずしも苦痛というわけもないですし、(単語とか覚えるのも別に嫌ではない)あれば身を救うので4より一個上にしました。

  • ゆーろっぷ
    僕個人としては、最近は情報収集云々とは異なった視点から英語学習について考えてみているので、もしかすると新たな見方を提供できるかもしれません。と同時に、おそらくこの視点はYYさんの興味のベクトルとは違う方向性を持ったものなので、何も響かない可能性もありますが笑。

■Hiroto

めちゃくちゃ俗な理由:東大の院試にTOEICが必要ないっぽいので、数学に限った英訳和訳ができればよく、必要に迫られていない。
理念的なやつ:英語で会話するシチュエーションになったらそれはそれでそのときどうにかすると思います。そのときに備えて今から準備しておくモチベーションが何一つ湧き上がってきません。(数学の)論文などがさらっと読める程度の英語力と、英語で情報をリサーチできる程度の英語力があれば十分です。僕には今のところリーディング能力のみで十分ということです。そのリーディング能力も日に日に落ちているので、それは少なくとも文章に触れることで維持したいのですが、あまり積極的な動機ではないので、やはりモチベはあまりありません。

  • ゆーろっぷ
    仮に英語がただの道具であり、自分が必要なときに使えればいいのであれば、多分僕も英語を学ぶモチベーションはほぼゼロだと思います。その上でモチベを保っているのは、ちょっと変な視点を持っているからかもしれません。

■イヤープラグさざなみ

1日目のアンケート:
私は幼少期にアメリカに4年ほど住んでいたことがあったせいか、英語の発音を課題に感じたことがありません。また、中高の英語の授業では、ほとんど文法(理論)を介さずに感覚で理解していました。在米経験によって語彙が猛烈に伸びたわけではないのですが、上で書かれているような暗唱・音読を繰り返すことによって新しい単語や表現も覚えることができました。リスニングについても、CDから自分の話している声が流れてきているようなもので、自分が発せられる声は自然に聞き取れますから、聞き取りに苦労したこともありません。「良い発音」ができることのアドバンテージを感じていました。

2日目:
もちろん完璧ではありませんが、ある程度の基礎体力というか、そういうものが身についているので、必要に迫られない限りはこれ以上英語の能力を伸ばす動機はありません。英語の勉強よりもやりたいことがたくさんあって、僕の中で英語の優先順位はかなり低いです。

  • ゆーろっぷ
    興味のあることが別にあって、英語の能力も今のままで十分であるとなると、やはり優先順位としては下になってしまいますよね。英語「自体」に強い興味がある人は、ジェイラボの中にはほとんどいないのかもしれません。ただ、興味はないにしても、このWSで何かしら考えるきっかけを作っていただければ嬉しく思います。

Day3 言葉が「できる」とはどういうことか

■ゆーろっぷ

多忙ゆえ、個別の返信は少し後になるかと思います。ご了承ください。
Day2のアンケートについての全体の傾向としてみられるのは、やはり英語は情報収集などのための単なるツールであり、日常生活で必要となることがあればモチベーションはあるし、逆に今のレベルで十分ならば学ぶ動機もない、といったところでしょうか。今回のWSでは、これと少し違った視点(英語という言語の捉え方)を提示する予定にしていますが、どういった反応を示すかは人それぞれかもしれません。
ともかく、Day1, 2 では、上記のような英語に対する個人的な感覚について考えていただきましたので、これらを踏まえつつ、ここから少しずつですがメインテーマの方向へと向かっていきたいと思います。
今日の問いかけは、特に Day1 の「得意/苦手」に関わる内容です。Day1の意図としては、英語が得意/苦手とはどういうことかを考えるきっかけを作ってもらいたいというのがありました。これについて、もう少しだけ深掘ってみたいと思います。
話を簡単にするために、2人の人物、AさんとBさんを考えてみます。そして、(あえて英語ではなく)日本語の能力に関する2人の特性が、次のようであるとしましょう。

Aさん:訛りなく流暢に日本語で日常会話がこなせる日本人(日本語母語話者)。コミュニケーション能力が非常に高い。ただし、深い(抽象度・専門性の高い)内容について議論することは難しい。
Bさん:抽象度の高い内容を日本語で理解し、それを適切な日本語で表現できる外国人(非日本語母語話者)。ただし訛りがあって会話も不慣れで、日本語を流暢に話せるとはとても言えない。

さて、皆さんはAさんとBさん、どちらが「日本語ができる」と感じますか。アンケートで聞いてみたいと思います。

■アンケート

日本語がより「できる」のは...
:1: Aさん    9
@YY 12, @コバ, @Naokimen, @蜆一朗, @Yujin, @Takuma Kogawa, @ジパング, @イスツクエ, @にしむらもとい
:2: Bさん    5
@Hiroto, @Daiki, @チクシュルーブ隕石, @Shun, @Tsubo

■ゆーろっぷ

補足:Day3のアンケートについて
このアンケートの目的は、「どちらが日本語ができるか」という議論に決着をつけるとかそういうのではなく、あくまで「ことばが『できる』とはどういうことか」を考えていただくことです。ゆえに、AかBかという二項対立的な状況設定になってはいますが、あまりそれにとらわれないでほしいとも思います(設問の作り方が悪いというか、簡単のためにあえて悪くしているというところはあるので)。ただ、それも踏まえてなかなかうまい問いかけの方法が思い浮かばなかったので(申し訳ない)、アンケートの範囲を超える話題であっても気軽にコメントしていただければと思います。

■Hiroto

自然言語は他者との対話のツールであるという立場に立つと、Aのような気がしますが、なんとなく自己(=特別な他者)との対話を重視したい気持ちがあります。
言語ができるということと、コミュニケーションができるということを分けたいという感覚です。コミュニケーションができることが最初は言語の本質だったはずですが、それを一側面として捉えた方が良いくらい、自己との内的な対話は重要であると思います。

  • ゆーろっぷ
    ほぼ同じような論点を、言語の機能の分化という言葉を用いて説明する予定でした。
    「自己との内的な対話」という表現が気になるところではありますが、これは「思考」と同一視できるものでしょうか。他者とのコミュニケーションの特別な形態というニュアンスを込めてのものだとは思いますが、解釈が間違っていたら教えてください。

  • Hiroto
    その通りです。思考をカッコつけて言いました。

■Daiki

Bさんの「それを適切な日本語で表現できる」が決め手でBさんに入れました。伝えたい「こと」を適切な日本語で表現できるのは、伝えたい「とき」に表現できる(する)Aさんより日本語が出来ると考えたからです。
この部分がなければ、Bさんは、ただ思考“は”できる人なので、Aさんに入れていたと思います。

  • ゆーろっぷ
    「適切な」という文言は自分の中ではキーワードにしたつもりだったので、そこを読み取っていただけて嬉しいです。本当はAさんの設定のところでそれと対になる要素を入れるべきでしたね、、

■チクシュルーブ隕石

言葉ができる事についてスピードが最も大切な要素ではないと感じたためBさんの方が日本語能力に長けていると思いました。この問題は「頭の良さ」についての議論とある程度類似点があると考えています。僕個人としては頭が良いと言った時に思考のスピードが速いことよりも思考の深さを持っていることの方が適切だと思います。

  • ゆーろっぷ
    おっしゃる通り、Aさんの設定としては、表面的なコミュニケーション能力はある(その場限りの「暫定解」を大量生産できる)が、思考の「深さ」を出すことはできないということを表現したつもりでした(Bさんはその逆)。
    「頭の良さ」というのは「思考のスピード」を問題としているものと(個人的には)捉えていますので、類似点があるとしたら、頭の良さではなく「知性」についての議論の方が僕の感覚としては近いです。

Day4 小休止

■ゆーろっぷ

Day3のアンケートでAさんの方が優勢なのは予想外でした。そちらに入れた方の意見が聞けていないので、新規の投稿はもう少し待ってみたいと思います。

■Naokimen

Bさんの「抽象度の高い内容を日本語で理解しそれを適切な日本語で表現できる」というのは、外国語の能力よりも知性・論理的思考力などの別の能力の方に依存していると思ったので外国語としての日本語能力という観点では日常会話がこなせるAさんの方ができると思いAさんに投票しました。

  • ゆーろっぷ
    ことばが「できる」ということと、「抽象思考力がある」ということを分けたいという感覚ですかね。この点は僕ももう少し考えないといけないところでした。

■YY 12

ほとんどNaokiさんと同じです。
一般的にいえば、「日本人は日本語ができます」がそれは抽象度の高い内容を適切に理解・表現できることより、滞りなくなく会話ができることを指しているように思えます。Bさんは特定の文化の自然言語ができるというより、そもそも言語運用能力や抽象思考に長けている印象です。
ただ、日本語で十分な思考ができるのは「その文化の思考形式・習慣」も理解し染みついているということだと思うので、それが適切にできるBさんが「日本語ができない」というのは言いたくないですね。

  • ゆーろっぷ
    「日本語ができる」ではなく、「日本語力が高い」とした方が良かったかもしれません。「できる」という言葉、意外とニュアンスの把握が難しいですね。

■蜆一朗

3日目の質問についてです。本当は昨日のうちに投下するべきでしたT^T。
「言語ができる」という表現を見てパッと「コミュニケーションが取れる」ことだと思いました。B さんも相当日本語の能力は高いと思いますが「適切な日本語で表現できる」というのはおそらく書き言葉のことであろうと読み取りました。その意味でアンケートには迷わず A さんに入れています。
その後も考えていたのですが、日本語が「できる」ということの意味を考えたとき、母語としての話者のほうがやはり優れているのではないかと思います。B さんは日本語を読んで日本語を書いたとしても思考はおそらく英語を介して行っていると思いますし、僕たち日本語話者はその逆で英語を読み英語を書く際には日本語を介します。表現の手段としてではなく身体的に染み付いた言語のほうに分があるのではないかということです。論文を読む中で単語や表現の「適切」な使い方を会得しようとしているという個人的な話をしましたが、それもやはり小さいころから触れてきた言語のほうがやりやすい気がします。

  • ゆーろっぷ
    表現の手段としてではなく身体的に染み付いた言語のほうに分があるのではないか
    非常に重要な指摘だと思いました。何かが「できる」という言葉は、意識することなく身体に染み付いた技能について用いるのでしょうね。これは完全に語の選択を誤ってしまいました。もっと「表現する」という経験を積まなければなりません……。

Day5 英語学習における目標地点について

 ■ゆーろっぷ

今日も新たな問いを投げかけてみたいと思いますが、その前に、先日の問いについて触れておきます。
Bさんの外国人設定については、「話し言葉によるコミュニケーションを苦手としている」ということと、「外国語として日本語を学んだ上で、その表現の形式と意味内容との対応について、しっかりと自覚しながら運用している」ということに対する理由づけ以上の意図はありません。その上で、僕の意図を正確に伝えるためには、ここでは「できる」という言葉を使うべきではありませんでした。Aさんに票が傾いたことから、逆にこの言葉の意味合いが浮き彫りになったかと思います。
蜆さんへの返信でも書きましたが、何かが「できる」ということは、その技能が身体化されていて、意識することなくその動作が可能であることを表します。もともと「できる」という言葉は、「何かが自然に生じる」という意味合いで用いられていた(用いられている)ので、この語義からの連想なのでしょう。それを踏まえると、日本語がより「できる」のはどちらか、という問いに対する答えとしては、やはりAさんの方が適切になる気がします。会話は最も深く身体化された言語機能であるからです。
今回の質問の意図としては、「言語運用能力が高いということはどういうことか」ということを考えてもらい、以下に述べる話題につなげていきたいということがありました。そうすると、やはりアンケートにおいては、「日本語ができる」という表現を用いるのではなく、「日本語の運用能力が高い」とした方が適切だったかもしれません(こうしても票自体は割れそうですが)。語の選択を誤りましたね……。
気を取り直して、今回の質問の肝である「言語運用能力が高いということはどういうことか」については、一定の線引きを示しておこうと思います。

「(自然)言語運用能力が高い」とは、自然言語が生み出す解釈の「ズレ」を認識できていることである。

Hirotoさんから同様のコメントをいただきましたが、コミュニケーション(会話)ができるということと言語ができるということを、ここでは明確に区別しています。もちろん、言語が担っていた大元の機能はコミュニケーションで、それは今も本質的には変わらないわけですが、やはりその方向性というものは大きく分化してきたと言って良いでしょう。では、会話以外にどのような役割が出てきたかというと、

思考の原風景(イメージ)の固定と共有

です。要するに思考そのものな訳ですが、思考力とは少しニュアンスが違うので、言葉を付け足しておきました。思考力は思考のスピードの速さを指すことが多いですが、イメージの共有においてプライオリティとなるのは、言語化の対象となる思考の原風景と、言語化されたものが表す意味内容の乖離をできるだけ少なくすることです。それに必要な能力を、便宜的に知性と呼んでおきます。
このWSにおいては、知性という観点から見た言語の機能を、言語が担う役割の中核としてみなします。もちろん、知性が会話力に常に優位であるとか、そのような主張をしたいわけではないです。しかし、ジェイラボ内のある程度フォーマルな場では、「学び」「イメージの共有を目指すこと」を目的として活動しているはずですので、言語の役割を意識した上で知的な言語運用の力を高めていくことは、その目的を達成するために必要不可欠であろうかと思います。
消費を目的とせず、あくまでイメージの共有(共通了解)を目指すためのものとして言語を運用する。そのようなものとして言語を捉えてみたとき、言語の能力の向上に対して、英語学習はどのように寄与できるのでしょうか。それは英語をどのように学ぶかの問題であり、それはすなわち、英語学習における目標地点を考えることの必要性を示すものです。プロの料理人を目指して修行するのと、ただ料理教室に通ってレシピをなぞるのでは、全く学習のプロセスが異なります。英語学習も同様で、どのように英語という言語をとらえるのか、どのように役立てるのかということによって、目標レベルやそれに応じた学び方にも大きな差異が出てくると言って良いでしょう。
英語学習においてどのレベルを目指すのか。しかし、そもそもこんなことを考える必要はあるのでしょうか。だって、今の時代、英語くらいできないとダメじゃん。そのような言説は今では暗黙のうちに正しいとされているわけですが、やはりその是非についてはきちんと考えなくてはなりません。その理由の一つには、先述したように、目的(目標)によって言語の学び方は大きく変わってくるからというものがありますが、より根本的な問題もあります。それは要するに、学びの動機が内的なものに基づかない、価値観の押し付けによる「思考停止状態」であるということです。では、その思考停止を抜け出したとき、外国語である英語を学ぶ意義というものは──特に、あくまで「母語」によって行える「イメージの共有」を言語の中心的役割としたとき──本当に存在しているのでしょうか。
今日は「英語を学ぶ意義」についての意見は述べません。アンケートでは、あくまで自分の尺度でその意義についてぼんやりとイメージしていただき、英語を学ぶとしたらどのレベルを目標とするのか、そもそも英語を学ぶことは本当に必要なのだろうか、そのようなことを、Day2 のモチベーションに関するアンケートも踏まえて考えてもらえたらと思います。

■アンケート

英語学習をする上での目標は(目標とするなら)
:1: 日常会話程度の内容理解だけならなんとかできる
:2: 簡単な話し言葉は理解・運用できるが、抽象的な議論は追えない
:3: ある程度抽象的な議論は追えるが、その内容を表現することは難しい    1
@にしむらもとい
:4: 深い内容を理解し、自分の言葉(ただし英語)で効果的に表現できる    12
@Tsubo, @Hiroto, @蜆一朗, @チクシュルーブ隕石, @Yuta, @Daiki, @イスツクエ, @Naokimen, @YY 12, @Shun, @Yujin, @イヤープラグさざなみ
:5: 上記以外の目標がある(具体的に記述)    4
@Takuma Kogawa, @西住, @シト, @コバ
:6: 特に英語はできなくても良い

■Hiroto

英語学習を本腰入れてもしするなら、4が目標になろうかと思います。
するかしないかは今のところで言ったらしないに傾いていますが、やるならとことんやりたい気持ちがあります。
あ〜英語だとこんな風に表現できる(orこんな風にしか表現できない)のか〜と感じることが、そっくりそのまま日本語での「解釈のずれ」を認知することにつながると思うため、やはり表現しようとするプロセスは必要だと思います。

  • ゆーろっぷ
    Day6では、「英語だとこんな風に表現できる(orこんな風にしか表現できない)のか」の部分を、少し具体例を交えながら語ってみたいと思います。

■チクシュルーブ隕石

僕は4番の選択肢にかなり理想寄りの気持ちを持って投票しました。これから学習する上で最低限3番まではできるようにしておきたいですが、4番の選択肢を達成できるようにするためには抽象的な議論を自分の中で咀嚼してまとめ直し表現するというある種の編集力みたいなものと相当数の経験が必要なのかなと思います。自分の中でそれらの情報を咀嚼する時に脳内で日本語を使うか英語等の他言語を使うのかという選択が「ズレ」につながるような気もします。

  • ゆーろっぷ
    4番の選択肢を達成できるようにするためには抽象的な議論を自分の中で咀嚼してまとめ直し表現するというある種の編集力みたいなものと相当数の経験が必要
    これはまさにそうで、日本語を介さず英語で情報の加工作業をやる場合、インプットだけでなくアウトプットの能力も必要になるので、やはりかなりの時間をかけないと身につかないのだと思います。

■Takuma Kogawa

英語で深い内容を理解し、英語で表現することにはあまり興味がありません。自分は英語脳ではないため、左記の例では「英語を読む→日本語で理解と表現→英語に翻訳」のように日本語(母国語)を介さないとうまくできない状況が多いと感じています。これはよくも悪くも英語が外国語である一面であると割り切って無理に克服しようとせずに英語と付き合っていきたいと思います。
具体的には、日英片方の言語の表現物しかないものを互いの言語圏に紹介する(翻訳家に近いかも)が英語との付き合い方の目標の一つです。自分の日英の言語運用能力を完璧にしたいとは思いませんし、完璧にはならないと思っています。幸い薬学系の知識と社会学系の興味はあるため、英語が得意な人の力を借りながらそういう分野について表現できたら自分が楽しいかなと思います。

  • ゆーろっぷ
    日英片方の言語の表現物しかないものを互いの言語圏に紹介する(翻訳家に近いかも)が英語との付き合い方の目標の一つ
    なるほどと思いました。英語との付き合い方の1つの例として、参考にさせていただきたいと思います。

■蜆一朗

僕が英語を勉強する目的はすでに述べたとおりですが、大学で研究をしようと思うとどうしても4が到達目標になるのだろうと思います。ここ2,3年のことについてはしばらくそんな感じでずっとゆったり英語をやるつもりです。
博士課程を出た後のことについては「無限に本を読みたいな」くらいのことしか考えていない(アホ)のですが、学部1回生のころのゼミで英文を読むのが楽しかった記憶があり、哲学・歴史・数学の外国語の本を読めたら楽しそうだなと考えます。そのころにはもはや英語で自ら表現する意欲はなくなってしまっているかもしれませんT^T。

  • ゆーろっぷ
    僕個人としては、英語を理解することとその内容を英語で表現することは切り離せないと考えていますが、表現の部分は日本語で代替するとすれば、そこまで「英語での表現」にこだわる必要はないのかもしれませんね。ただ、英語で書かれた書籍の内容理解に役立つことの他にも、英語での表現を意識することの恩恵は多いのではないかと思います。今日の投稿で触れます。

■西住

英語は大学受験の指導に使うためだけにやっています。

  • ゆーろっぷ
    めちゃくちゃ潔くて笑ってしまいました笑。そのような英語の付き合い方もありだと思います。

Day6 英語を学ぶ意義とは何か

 前日のアンケートで問うた目標地点についてですが、僕個人としては、せっかく英語を学ぶのなら、抽象的な内容まで含めて「表現できること」を目標にしてほしいと願っています。これは英語を学ぶ意義を踏まえての話なので、詳細は以下の投稿に譲る予定ですが、ここではその詳細に入る前に、今まで繰り返し使ってきた「意義」という言葉について、類義語である「意味」と比較しながら深掘りしてみたいと思います。両者の語義としてはかなり被っているところが多いので、一般的な定義を確認するというよりは、僕自身がこれらの語を用いるときの意味合いの線引きをするという方が近いかもしれません。
 ある行為の「意味」を問うとき、我々は通例、その行為が持つ「一般的な」価値や、その行為の結果として得られるものについて注目し、それが「ある/ない」ということを問題とすることが多いです。「その努力に意味はあるか」言うことがありますが、それは「一般的にみて、その努力の結果として何か価値あることを得られるか」ということをニュアンスとしては伝えているわけです。一方で意義というものは、一般論とは異なり、より個人的な感覚や価値観に基づいた、その物事固有の価値を表す語です。「自分なりの意味」というニュアンスでしょうか。世間一般から見れば極めて「無意味」な時間にも、後で振り返って何らかの「意義」を見出す、そのようなことも多いでしょう。
 と言っていると、今の文脈でそんな線引きすることに何の「意味」があるのか、というツッコミが入りそうですが笑、大丈夫です。ちゃんとあります。
 英語を学ぶ「意味」を問うと、大抵は「実用性があるから」という極めて現実的な答えと、「視野が広がるから」というふわふわした回答が出て議論が終わってしまいます。これはもちろん、「意味=一般に通じる価値」を問うているのだから当たり前です。しかし、英語が実用で使えるだけで重宝される時代ではないですし、かと言って学びの動機を極端に抽象化してしまうと、なかなか学びの「実践」につなげていけません。そんなこといちいち考えず英語くらい学べばいいだろう、と開き直るのも手ではありますが、目的によって英語学習のやり方は変わってきますし、そもそも英語を「楽に、短時間で」身につけるのは不可能です。「得ることは失うこと」とはよく言ったもので、英語を学ぶのに時間を費やすなら、他の専門知識を身につけた方が良いということもありえます。だからこそ、自分自身の英語に対する向き合い方、英語を学ぶ「意義」というものを問う「意味」があると言えるでしょう。1日目にしれっと「英語学習に対する『自分自身の考え方』を改めて見直していただきたい」という趣旨のことをお話ししましたが、英語学習の「意味」ではなく「意義」をこのWSのメインテーマにしたのには、以上で述べたようなことを考えてもらいたいという意図があったのでした。

 さて、7日目は問いを投稿しない予定なので、今日で最後のアンケートとなります。本題である英語を学ぶ意義についてのものです。もちろん、ここでいきなりそれを問うても、今までの流れがあるとはいえ考えをまとめるのは少しハードかもしれませんから、ひとまず僕の個人的な考えを共有してみることにします。前提として、言語の中心的役割は「思考の原風景の固定と共有」であり、それを目的とした言語運用能力の向上を主眼に置いたとき、英語学習はどのような点で寄与できるか、といったことを中心に語っていきたいと思います。

(1) パターン・類似性を発見する
 語彙・文法を効果的に学習し、適切に運用するためには、まずはその言葉や文構造が表す内容の「パターン」もしくは「類似性」を発見することが必要です。英語をある程度学習したことのある方であれば、例えば英単語の形態に注目して、それと似た単語の意味合いなどから目当ての単語の意味を推論する、ということを行なったことがあるでしょう。このような学習法はある程度メジャーなわけですが、語彙の学習に限らず、類似性に着目してパターンを見つけていくという過程は、多くの学習プロセスで見られることです。そして、より一般化されたパターンを見つけるためには、時に既存のパターンを疑い、思考をフラットにしてみることも必要になってきます。
 例として定冠詞・不定冠詞の文法を挙げてみましょう。学校で冠詞を習うときには、「定まっているものは the、定まっていないものには a」などの大体の規則をまず教えられ、次に例外──例えば「固有名詞に冠詞はつかない」などの一般から外れた用法──について扱います。しかし、この規則についての更なる例外を挙げることができる場合もあるのです。英語部で輪読していた『英語独習法』という本にいい例があったので、引用させていただきましょう。

(A) Before you head out for a day of sight-seeing, stop at Doutor in the lobby for a matcha latte.
(B) Before you head out for a day of sight-seeing, stop at the Doutor in the lobby for a matcha latte.

 「固有名詞に冠詞はつかない」という規則に従えば正しいのは(A)となりますが、状況的には(B)が自然です。ここでの「ロビー」には the がついており、おそらく話し手と聞き手が今までの話の文脈で共有している場所なのでしょう。その「ロビーにある特定のドトール」についていうので、話し手は聞き手がそのドトールについて理解するだろうという前提で話をするはずです。その状況で「ロビーにある特定のドトールね」というニュアンスを伝えるには、the Doutor とする方が、誤解の少ない、より適切な表現として受け取られるはずです。なぜなら、時間的には the lobby よりも Doutor の方が前に来るので、the をつけないと、聞き手が「どのドトール?」と混乱してしまう可能性があるからです。
 上の解説では、定冠詞についての言語化されない意味合いを暗黙のうちに用いました。この意味合いを無理矢理言語化するとするなら、定冠詞や不定冠詞というものは、相手との共通の状況理解を基盤としつつ、1つに定まるものなのか複数あるものなのか、といったことを、「名詞に先行して」伝えるためのものであると言えるでしょうか。しかし、この説明の仕方からもわかるように、言語のパターンというものは規則として厳密に記述することが不可能です。このような点で、数学などの人工言語とは性質が異なります。もちろん、数学などの学問で自然言語を用いないわけでは決してないですが、その気になれば、論理記号などの使用によって解釈の幅をゼロにすることはできるはずです。
 規則を厳密に記述することができないという自然言語の特性については、母語(日本語)も全く同様に持ち合わせています。それでも日本語というものが使えているのは、幼少期に自らの「学びの力(類推・推論の能力)」によって「日本語のパターン」を無意識に形成したからですが、その形成過程の無自覚ゆえに、そのパターンは当たり前のものとして捉えられがちです。しかしながら、外国語のパターンを発見する際には、時に自分の情報処理のシステム自体を検討してみることも必要になります。特に先述の定冠詞・不定冠詞の文法などは、日本語のシステムには存在しない分類方法の一つですから、それを深く理解するためには、日本語の感覚にとらわれず、そこに意識的に注意を向けてみる必要があるわけです。
 繰り返しになりますが、自然言語について言えば、言語によって対象の分類の仕方・情報処理のシステムは異なり、さらには同じ言語の中でも、状況によって例外が無数にあります。このことは、母語(日本語)をできるだけ正確に運用するためにも、しっかりと認識しておく必要があるでしょう。ある言語におけるパターンの体系とはその言語の特性そのものであり、それをきちんと把握しておかなければ、言語化の対象となる心的イメージと、その言語表現の意味内容との乖離が大きくなってしまうからです。日本語という言語の特性に対する自覚を促すという意味でも、外国語の学習は自然言語運用能力の向上に役立つのではないかと思います。

(2) 類似性の中の差異を発見する
 私たちはよく、類似の単語がもつニュアンスの差異について検討が必要な場面に遭遇します。上で述べたような「意味」と「意義」の話もそうですし、少し前のWSでは、所長が「経験」と「体験」という2つの語句を比較して、両者の違いについて確認していたと記憶しています。言語をより効果的に運用するためには、キーワードとなる語句の選択が適切かどうか、それをよく考える必要があるわけです。
 外国語学習における類義語の知識の学び方は、母語の運用における適切な語の選択においても直接役立つものです。例えば、類義語のニュアンスを確認したいとき、まずはコロケーション(よく一緒に使われる語の組み合わせ)を調べてみることが多いでしょう。コロケーションはいわば「自然な言語表現」であり、そのような一緒に使われる語をヒントとして、その単語独特の意味合いというものを推論できる場合があります。この方法は、普段何気なく使っている日本語の言葉を、意識的に「区別」して用いる場合にも全く同様にして適用することができます。「経験」と「体験」の例はわかりやすいのでこれを引いてきましょう。

経験値とは言うが体験値とは言わない。
経験論とは言うが体験論とは言わない。
逆に臨死体験とは言うが臨死経験とは言わない。

 「経験値」「経験論」「臨死体験」は自然なコロケーションですが、各々の表現において「経験」と「体験」を入れ替えると不自然になってしまうわけです。これは一緒に用いられる語の特性によるものだと考えられるので、そこからニュアンスの違いを推論し、一般化していくことが可能になります。
 ある単語の意味を深く知り、それを適切に使うためには、意味的に関連する単語の類似性と差異が理解できている必要があります。そのような「類似の中の差異」を、具体例を通した発見的手法によって一般化していくということ。それは、言語の訓練だけでなく、他の様々な分野の学習にも応用できることでしょう。

 類義語に関連して、言葉の多義性についても触れておきたいと思います。言葉の多義性というのは、読んで字のごとく、ある一つの単語がその中に複数の語義(意味)を含むようなことを指しますが、これも適切な言語運用を行うにおいて非常に重要となってくる知識です。そしてある意味、外国語を学ぶ面白さというものはここにあると言っても良いかもしれません。
 ある言語における言葉の多義性の体系というものは、いわばその言語特有の「世界の切り分け方」です。例えば、「甘い」という単語。これだけだと、おそらく味覚についての語義くらいしか浮かばないとは思いますが、英語に直そうとしてみると、意外と多くの意味があることに気が付きます。味覚についての「甘い」であれば sweet、考えなどが「甘い」のであれば optimistic や wishful、身内に対する態度などが「甘い」のであれば indulgent、さらには結び目などが「甘い」という意味であれば loose など。このような簡単な日本語ひとつとってみても、他の言語であれば全く違う単語が当てられるような概念が1つの単語で表されている、というのはよくあることです。
 逆もあります。先に挙げた体験と経験などはいい例です。実際、英語ではどちらも experience という1つの単語で表されますが、日本語では区別して使っています。また、別の例を挙げれば、日本語では「疲れる」と「飽きる」は言葉の上で区別された概念ですが、英語では tired という1つの単語で言い表します。ここからもわかるように、各言語にはそれぞれに独特の多義の構造があります。そしてそれは、その言語特有の「世界の見方」を反映していると言っても良いでしょう。母語とは多義の構造の異なった外国語を学ぶことで、日本語独特の、今まで意識していなかった「世界の切り分け方」を再発見し、それを言語運用に活用していけるようになるはずです。

(3) その他(英語を選ぶ理由)
 以上で述べたことは、英語以外の他の外国語についても言えることなので、外国語を学ぶ意義の説明にはなっても、特に英語を選ぶ理由にはなりません。ということで、お情け程度にこの話題について触れておきます。と言っても、英語は単純に実用性があるのと、学びやすいというだけです。
 実用性については、まぁおそらく、誰も否定することができないのではないかと思います。ネットなどで検索するにしても、英語だと情報の幅が広がります。僕の個人的な話をすると、僕が現在死ぬほど愛用しているアウトライナーは、確か英語圏の動画を漁っていて見つけたものです。そのアプリについての情報は、日本語だけで検索していたら絶対に巡り会うことはなかったと断言できます(日本語の記事は当時1本もなかった)。英語を使うにしてもある程度のリテラシーは前提ですが、いずれにしても視野が広がるというのは間違いないかと思います。
 学びやすさもやはり英語を選ぶ最大の理由の一つでしょう。英和辞典、英英辞典、コーパス、シソーラス、英文校正ツール、自動翻訳機… ツールの多さも圧倒的ですし、日本語で書かれた良質な教材も多いです。もちろん、中学高校とある程度(主に受験用ではありますが)英語に触れていることも大きいでしょう。

 ということで、長々と僕個人の考えを述べてきました。英語を学ぶ際、「表現することまでを目標にすべきである」とした理由も、ある程度察していただけたかと思います。以上で述べてきたようなことを実践するためには、必然的に「表現する」ことまで意識する必要があるからです。
 最後にアンケートを置いておきます。あくまで英語を学ぶ「意義」についてですので、個人で意見が異なるのはあって良いことです。僕が思う「意義」に反駁することもできるでしょう。皆さん自身が、自分なりの「英語との向き合い方」を見つけていただけたならば、僕としては嬉しい限りです。

■アンケート

自分にとって、英語を学ぶ意義は...
:1: ある    15
@Daiki, @Tsubo, @YY 12, @Naokimen, @蜆一朗, @シト, @チクシュルーブ隕石, @chiffon cake, @コバ,@ていりふびに, @Hiroto, @Yuta, @Yujin, @イスツクエ, @ジパング
:2: ない

■シト

Q英語で学習をする上での目標は
私の目標は英語で情報収集をし、その内容について日本語で深く考えることができるです。英語をしっかりとやろうと思っても4を目指そうとは思いません。しかし、結果として4を達成する必要はあるだろうなと思っています。
深い内容を理解はしたいですが、それをわざわざ英語で表現したい気持ちはないです。ただ、深い内容を真に理解するにはその文化に触れる必要があると思います。言語は文化を含んでいます。使い古されているもので有名な話ですが(受験勉強でもやるはず)、日本には米に関連する言葉が多いです。これに対して英語はライスのみです。この違いは日本は米を重宝する文化であるため米に関連した言葉が多いことによって生じています(雪に関連した言葉とかも有名ですね)。言語をしっかりと習得しないと真に理解はできないでしょう。そのために、自分の英語でしっかりと的確に表現できるようになる必要があると思っているという感じです。
ただ、そのとき私の日本語は日本語オンリーとは違うものとなってしまうので、はたしていいのかわかんないような気もします。これも何かを得るとは何かを失うということでしょうね。それが何なのかを理解し、それでもいいと思えたらするのがいいのかもしれないです。

  • ゆーろっぷ
    ただ単に「理解」と一言で言っても、一体それは何なのか、どうすれば「理解」をすることができるのか、という難しい問題が出てきます。しかし、「表現する」という行為は「理解」と表裏一体の関係にある、ということはやはり言える気がしますね。

Day7 まとめ

■ゆーろっぷ

おはようございます。今日はWS最終日ですが、新規のアンケート等はありませんので、これまでの振り返りやアンケートへの回答をしていただけると嬉しいです。

■Tsubo

英語学習をする上での目標は(目標とするなら)
国際学会などにおいて自分の研究を発表し,ディスカッションする・できるというのはもちろん大変有意義なことなので4.に投票しました.個人的な趣味の観点からも,例えば日本語における「もののあはれ」や「わび,さび」が指すニュアンスを他言語に完全に変換できないように英語には英語でしか表現できない概念があろうと思われるのでその「英語という言語でしか表現できない」世界を自由に扱えればこれほど楽しいことはないと考えたので4.に投票しました.現状の我が国では日本語の次に曲とか映画とか英語で記述されたコンテンツが多いのでそれを他人の頭を介さず直接解釈し,あわよくばそれを表現したいと考えてます.
日本とイギリスという国は,同じ大陸に対する島国であるなど共通点が多くあるので僕が文化的に親しみを持っており,そのイギリスで育まれた英語という言語を通じその国の文化や考え方を知りたいのかもしれません.

外国語の学習を通じ母国語の運用能力の向上を図る云々も僕は同意します.翻って,強固な母国語の運用能力を確立するまでは本格的な外国語の学習は必要ないと考えます.どっかで出てきたかもしれませんが,いくら複数言語での表現能力があろうとその表現したいものが生成されるのは母国語で行われる思考の運動であり,まず必要になってくるのはその運動を自由に行える能力だと考えるからです.
また,わざわざ憲法に明記してまで遍く国民に「読み書き」を学校で教えるのは,やはり会話より「読み書き」の運用能力が日常生活を送る上で,そして思考を育む上において根本的な能力であるからだと考えるので,抽象度の高い内容を日本語で読み,日本語で表現できるBさんの方が「日本語ができる」と思います.というか,日本語の運用能力を測る指標たる日本語検定でもTOEFLみたいに「抽象度の高い内容を日本語で読み書きする」能力を測っているんではないんでしょうか.

受験でも英語は得意でしたし,今でも読み書きと聞くくらいはなんとかなります.これは受験英語の賜物かもしれません.論文程度の英文なら,日本語のものと比べ理解度とか記憶力はどうしても下がりますが直読直解できますし映画も字幕さえあれば大体ききとれます.受験の時は解いた英文をひたすらシャドーイングしてました.会話はまあ,どれだけ崩れた英語使っても頑張れば人間も人間だから結局コミニケーション取れるでしょと考えているくらいには雑な英語しか話せません笑 まあ正直,ロシアを旅行した時も大体そんな感じでなんとかなったし日本で海外の人と英語で喋った時もなんとかなったので,日本人が考える「英語が喋れる」というハードルが高すぎるだけかもしれません.

  • ゆーろっぷ
    僕も「その言語特有の概念(世界の捉え方)」と、その裏にある文化に興味を持っています。英語は今でこそ世界標準語としての役割を担っていますが、元々はイギリス・イングランド地方の言語ですので、その歴史などが色濃く反映されていたりするのでしょうね。英語史なども学んでいかないといけないかもしれません。
    外国語の学習にも、やはり母語の能力(特に読み書きの能力)は大前提でしょう。何か情報をインプットしたときに、頭の中にあるモヤモヤしたものを固定しておくためには、わずかな意味合いの違いもしっかりと汲み取る豊かな語彙が必要です。複数言語を操る能力があったとして、それらがいずれもある一定の深さに達していないのであれば、その技能もなかなか有効活用していけないのではないかと感じてしまいます。もちろんそんなことを言っていると、その「一定の深さ」がどの程度のものなのか、それは本当に線引きできるものなのか、という難題にぶつかってしまうので、外国語を学ぶ適切な時期についてはなかなか答えに辿り着けないですね…
    英語を喋るということにおいて、「割となんとかなった」という経験は地味に大切な気がします。まぁ、ビジネスとかの場だと絶対受け入れられない考えだとは思いますが。

■コバ

日本語も英語もその他言語も、結局は他人が作ったものです。
この世界は「他人が作ったもの」でできていると言っても過言ではないと思います。
その「他人が作ったもの」との関係性の中で、「自分」は存在しています。
他人とはコントロール不可能な存在と通常考えられていると思いますが、一方「自分」がコントロール可能な存在かと言われるとそれも甚だ疑問です。
私が現在日本語を母国語としているのは、私が日本で生まれ日本で育ったからでありそれ以外の理由はありません。即ち、イギリスで生まれイギリスで育っていれば英語が母国語になっていました。
このように私自身日本語を母国語としていることがそもそも「偶然」でしかなく、自分自身も偶然の産物である(つまり根本にコントロール不可能な要素を多分に抱えている)ということを考えていくと、ただ日々漫然と生きているだけで手の届く範囲(私の場合は日本語)にしか興味を向けないのは、自分自身の偶然性、また「他者への自覚」を失っていってしまうことになると感じています。
自分中心で日常生活全てを塗りつぶしてしまうのではなく、日々少しだけでもいいので他者(今回の文脈で言うなら英語)に触れようとすることに私は意義を感じます。
他者(英語)を知ろうとすること、私にとってその根本は「愛」だと考えています。

  • ゆーろっぷ
    この文脈で「偶然」「他者」が出てくるとは思いませんでした。英語それ自体というよりは、英語(他者)に積極的に触れようとする意志を「抱くこと」に意義があるということですかね。
    僕も究極的には「ただ英語を勉強したいから勉強する」という理由でやっている感覚がありますし、英語を学ぶ動機のプラクティカルな部分においては、他者の視線(表現するということ)を中心に据えたいと考えています。そのような意味では、コバさんの感じる「意義」と比較的近いところがあるかもしれません。

■ゆーろっぷ

Day7 まとめ
1週間ありがとうございました。オリエンテーションとしては最後の方が少々長文になってしまいましたが、参加してくださった皆様に改めて感謝の意を示したいと思います。
僕がこのWSを通して伝えたかったことは、究極的にはこれだけです:

普段何気なく使っている日本語を改めて捉え直してみるために、英語を学んでみてはどうだろうか

僕自身の未熟さゆえ、うまく伝えられたかはわかりませんが、自分なりに精一杯「語って」みたつもりであります。少しでも考えるきっかけやヒントとしていただけたなら幸いです。
ということで、英語部の初回WSは以上です。改めて、1週間ありがとうございました。また次回のWSで、主催者・参加者双方に学びのある「物語」を提供できれば良いなと思います。皆様お疲れ様でした。


以上がログとなります。最後までお読みいただきありがとうございました。

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