生きることが辛い時

生きていることが辛くて仕方ない時、
なぜ私は生きているんだろう?
と考えてしまう事が私はどうしてもあります。
虐待は両親、祖母からの人格否定だけでなく、父親からの身体的暴力も小学校低学年からずっとあったため、小学校3年生の時に教師に自殺の仕方を教えられてから(今思えばすごい話です)死への方が生より自分には身近な思考でした。
生きている事に意味はない。
この考え方は、思考をする必要がないので合理的なのではと思っていたのですが、ハイネやコクトー、ワーズワースや谷川俊太郎さんの詩を読んだ時や心を揺さぶられる本を読めばやはり感情は動いてしまうし、やはりリストやシューマン、ヴェートーベンを聴いたりすれば気持ちが満たされるタイプなようで、何も感じないように。
そう自分の感情を殺して生きて過ごす事めやしてみたりしましたが、ふと考えてしまう。
なぜ生きるのか?
なぜ生きているのか?
なぜ生きていなければいけないのか?
心の状態で、考え方もこれだけ変わってしまいます。

今、私は食事が出来なくなりイノラスを薄めないと飲めない状態なのですが、ふと
心に浮かんだ事があります。
それは仏教の般若心経なのですが、覚えられても意味はわからない事ばかりでした。

執着があるから、いつまでも心が自由にならない?
苦しんだ事、辛い事、悲しい事、寂しい事に執着し続けて囚われ続けているから生の逆にも執着してしまうのだろうか?

生きたい気持ちをもう自分で許していいんじゃないか。
BTSの Answer:Love Myselfを聴いた時、長年の苦しみの思考の答え合わせがされたような気がしたのは、きっと私だけではないと思います。

自m感情でものを考えてしまう部分は完全には直せなくても、魔笛を聴きまくって泣いて、ゲーム(苦手ですが無料の簡単なパズルなどひたすら同じ動作だけしてその事しか考えない)、音楽、手紙(返事が来るまで生きていようと思う)
自分自身を傷つける事はやめて、許容される範囲の事に逃げる。考えない。
これは、集中力すらない時は要求されても勧められても余計に辛く苦しくなるだけなので、自分の心と向き合う気持ちになれるまで無理にやる必要は全くないと思いますし、絶対に勧めたりしないで欲しいです。

何も考えられず、何も出来ず、ただぼーっとしている私は思考停止状態な日のほうが多くても、私は小学生の頃に聴いた
What a wonderful world が、大人になればこんな風に感じるんだろうか?
と思いながらずっと年齢を重ねて来ました。
そんな今年の春、花を見て春がきた。Lovelyだ、と感じました。
桜を見ると武陵の歓酒しか浮かばなかった私が、春をLovelyだと感じたんです。
その時、50歳、60歳、70歳まで生きると人生をLovelyだと思えるんだろうか。
子供の頃に聴いたあの曲のように。

まだ私は食事が摂れずにいますが、生きたいていたいという気持ちを潰さないように、病院の先生だけを信じてなんとか1日生きる。
ここまで来ました。
痛みを感じるのは心があるから。
それなら美しいものを見よう。
美しいと思うものに心を動かす事にしよう。
心は悲しみや苦しみだけのものでは、きっとないんじゃないか。

トンネルは長いかもしれません。
でもまたきっと悩んで苦しんだ先に答え合わせがあるかもしれない。
なので、0.1%でも生きたい気持ちを今は最優先にする、そう決めて今日はイノラスを飲みます。薄めても良いそうなので燃料だと思って飲みます。
入院は嫌だという私の抵抗なのも活力に変えたいと思います。

サポートして頂けたら、1日を気持ちよく過ごせるように大切に使わせて頂きます。