資本主義社会における神経症

マックスウェーバーは
自分が救済リストに載っているか不安なので、証が得たくて、神に calling(召命)された職業の、成功こそが救いの証だとして、神経症的に労働反復し、資本主義ができあがった
と述べていましたが、これはウェーバーが自身の著書、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にて、「カルヴァンの二重予定説」を基にした一つの考察でありました。

しかし、西欧の高度な資本主義社会の形成がカルビニズムによる神経症的不安からの反復行為によって成された、なんて少々納得がいかないですね。
真理はさておき、エーリッヒフロムは著書『自由からの逃走』にて「歴史を動かす力は社会経済的条件、イデオロギー、社会的性格である」と述べています。

社会的経済的な考えはマルクスの唱えた「上部構造と下部構造」の考えを引用し、イデオロギーは先ほど述べたウェーバーの考えを引用しています。そして、フロムが特に注視したのは社会的性格でした。

ルネサンス以降の西欧諸国は合理主義へと向かいしました。
それは中世にはなかった個人的自由の獲得を意味します。例外を除き、中世では、生まれた土地から一生踏みとどまらなくてはいけなく、自己を個人としては認めず、単に狭い世界における自分の社会的役割という点でのみ、自分の存在を意識していました。それはつまり、生まれた時から明確な地位を持っており、商人や職人などは製品を一定の価格で売らなくてはいけないため、役割を果たせば一定の安定した生活を与えられていました。資本主義社会と異なり競争はないため、コミュニティ内での帰属感もありました。中世の崩壊後は、資本や市場の競争が増大するとともに、今述べた中世的社会組織の衰退が加速し、多くの市民は生まれた時からあらかじめ決められていた地位を持たなくなっていきました。同時に一定の価格のもとの商売や生活を強いられることはなくなりました。

このことは多くの市民は個人的自由を獲得したことを意味します。一方、狭い閉ざされた生活は終わり、世界は際限のないものとなることをも意味します。市民は帰属感を失い、孤独で孤立していくようになります。つまり、中世崩壊によって獲得した自由は人々に、以前に享受していた安定感と疑う余地のない帰属感とを奪い、孤独と不安を与えたのです。
そんな時代に、宗教改革によるカルヴィニズム並びにルッター主義があらわれました。それらの教義は不安と戦うための解決策を提供しました。ここではカルヴィニズムに焦点を当てますが、この二重予定説はある特殊な心理要素を含んでいました。
フロムはこう言います。「カルヴィニズムは、神の言葉に従い努力を継続する教義と、努力は救済にとってなんの役にも立たないという教義の両義性を含んでしまっている。
しかし、心理学的に考えれば、そうでないことが分かる。不安状態、無力と無意味の感情、特に死後の世界についての懐疑は、誰にもほとんど耐えられないような精神状態を示している。
このような恐怖に打たれた人間は、誰でも努力を怠ったり、生活を楽しんだり、また未来に起こることに無関心であったりすることはできないであろう。
この耐え難い不安の状態や、自己の無意味さについて萎縮した感情から逃れるただ一つの道はカルヴィニズムで極めて優勢となったまさにその特性だけである。すなわち熱狂的な活動と何かをしようという衝動の発達である。
このような意味の活動は脅迫的な意味を帯びてくる。それは内面的な自信ではなく、不安からの逃避である。
(重要なので長く引用しました(自由からの逃走-p99))」
フロムは、冒頭のマックスウェーバーの考えを補足したと見てとれます。そして、不安からの反復というのは「何かしよう」という強迫神経症による埋め合わせであると考察されていました。

以上述べた教義は近代社会化に対して心理的な準備を与えたが、いっそうの孤立を招いたとフロムは言いました。人々は失われた第一次的絆の代わりに、第二次的絆を探すようになります。ここで登場するのがマゾヒズム的努力とサディズム的努力です。前者は個人が圧倒的に強いと感じる人物や力に服従しようとするものです。後者は強く支配的であり、他人を自己に依存させ、完全に道具としてしまうものです。両者とも耐え難い孤独感と無力感から個人を逃れさせようとするものであります。
以前に述べた社会的性格とは、ナチス政権下のドイツにおけるこのように人の社会心理分類したものであります。この社会的性格は社会的条件によって変化し、性格という媒体を通し、イデオロギー的現象に影響を与えるとフロムは考えました。
つまり、歴史を動かす三要素は個々に独立しているわけではなく、密接に関わり合っていることが分かります。


さて、マゾヒズムとサディズムを逃避のメカニズムと呼びますが、サディズムは他人に対して破壊性と混合した絶対的な支配力を目指し、マゾヒズムは自己を一つの圧倒的につよい力のうちに解消し、その力の強さと栄光に参加することを目指します。特にマゾヒズムのうち、自我を捨て去り、巨大な権力に服従することを、自我を捨てた機械とみなし、機械的画一性という。ちょうど戦後に三島由紀夫が唱えた「からっぽの極東の一経済大国」においてその例はみられます。

また、社会学者の宮台氏は「僕らは世界の主役ではないと感じている。なので不安になる。不安なので「資格だー!」とか「日本すげー!」とか、」と言いました。これはマゾヒズム的傾向が
これは近代個人主義社会と現代社会で通ずるマゾヒズム的努力としての神経症的不安であると考えられます。

では、その中でも思考停止にTwitterなどで排他的コメントを呟く彼らを宮台氏は言葉の自動機械化と呼びましたが、これはフロムの言う機械的画一化の症例と考えられるでしょうか。

今回、資本主義社会と神経症というタイトルで書きましたが、特に決定的な考察と結論は述べず、書き殴りになってしまいました。

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