ビッグデータと没主体化

前提として、マクルーハンの「これまでの人類史がメディアパラダイムの変遷の歴史である」という銀河系の考えを元とする。

メディアパラダイムとは、各時代ごとに主導権を持ったメディアによって作られた社会的アプリオリであり、マクルーハンは、人類はこれまで4段階のメディア生態系を経験してきたとする。それは声から始まり、文字、活字、と続き、電気までを指す。そして現代の社会ではこれらメディアを包括しつつ、AIやロボットなどを介した新たな性質をも組み込んだ、ネットワークメディアを主軸としつつある。

本来、ネットワークメディアは、マスメディアなどの中央集権的媒体の分散化により自由な言論空間と、より多様なメディアを提供する存在として期待されていたが、アーリーアダプター層からレイトマジョリティ、ラガード層の割合が高くなるにつれて、リテラシーの相対的な低下や無法地帯化といったネガティブな側面が浮き彫りとなる結果となった。それに拍車をかけた原因の一つがSNS(特にInstagram、Twitter、Facebook)の功罪であると考える。所謂スレ立てなどの作業が省略化し、敷居が低くなったことで、誰もが発信できる媒体となったことが大きな理由である。ここまでは2010年辺りから度々議論されてきた内容であるが、その後に流行り出したAIとビッグデータが新たにネットワークメディアの社会的位置づけを変えることとなる。

ここで、冒頭で述べた各時代におけるメディア形態に影響しつつ、汎知のあり方も変わっていく。(以下の文ではデータ、知識、情報を区別して考えていきたい)
声メディアにおいて、データは共同体内で口承という形で外部記憶化され、-神話などの物語として語り継がれる-  文字メディアでは、百科事典などに「知識」として外部記憶化されていく。そして活字メディアにて、膨大となった文字メディアを書籍という形で複製され、「知識」として記憶されていった。かつての汎知は取捨選択の元、必要なデータのみを「知識」として外部記憶化していたことが分かる。しかし、ネットワーク化された汎知は必要とされていなかった知識をも取り入れることで、「情報」としてデータベースへと記憶される。この知識から情報へ軸が置かれていることを一つの注目点としたい。例えば、
ページランクというある情報を得点化することで優先的なリンク先を表示するアルゴリズムなどが使われ出すように、知識から情報への流れはデータが一種のプラグマティックな扱いをされているのではないか、と考える。

そんな汎知の最新形態(メディアに露出を始めた年月を辿ると2010年11月)こそビッグデータである。今まで述べた汎知と異なり、ビッグデータは、いかなるデータをも絶え間なく取り入れ、自律性を有した存在、ルーマンの言葉を借りるなら、オートポイエーシスに近い存在こそビッグデータと言われている。そして、取り入れたデータは機械学習、深層学習を介して、人間の認知し得ない範囲(具体的には多次元ノードで構成される中間層)で処理される。

我々が馴れ親しむメディアがこのAIによって統制されたビッグデータによって処理されはじめた今日、わたしは利用者側にとっての主体の自動化、没主体が顕著化すると考える。まずこれまでのインターネットの普及に伴い、マスメディアの相対化が顕著化され、人々は意思決定を自ら行う必要性が高まっているという事実は度々指摘されてきた。
ここで、AIを取り入れたSNSメディアは、利用者が知らずの内に提供した意思決定としての活動ログを「情報」としてNoSQL(非構造データをも構いなしに保存できるDB)に送信し、分析され、再度ユーザーによって提供する循環が起きる。このプロバイダ側の提供とは、例えばベイズ推定によって成されるレコメンデーションなどである。つまり、意思決定の機会を、大きく言えば、主体そのもがAIが行う循環の一部分化され、自動化されてしまうということだ。(勿論、プロバイダ側はバックエンドでレコメンド機能などを実装していくのだが、採用するアルゴリズムによって結果は変わってくることはフィルターバブルに関する著書で語られている。)
余談であるが、この現象の本質はハイデッガーのゲシュテルによって予言されていたとされる文献がある。

AIに統制されたビッグデータとSNSが、個人としての没主体を顕著化させると考えたが、この仮説のもと、個人の影響が社会全体にどう及ぼすのかは、是非研究してみたい事柄である。
例えば、ケンブリッジアナリティカ事件はまさに研究の大いなる資料になり得る。実際、自動化された主体が、プロバイダとしてのFacebookが提供するレコメンドに誘導され、大統領選という国単位の運動にまで発展させている。

ここからはあくまで推測の域であるが、主体の自動化が起こった社会は最終的に情動のみで動く社会、ポストトゥルースが現実のものとなっていくのではないかと考えている。では、個人単位としての没主体を社会全体としての情動にどう繋げて論を展開するのか。現時点での知識では難しいが、例えばルーマンの社会システム論のなかで提唱された、より規定なコミュニケーションによる社会形成の考えを取り入れることで説明が出来るかもしれない。

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