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改訳「煙草屋」アルヴァロ・デ・カンポス(フェルナンド・ペソア)

これは、2015年に友人により誘われて参加するようになった、「改訳委員会」での初めての出題、アルヴァロ・デ・カンポス(フェルナンド・ペソアの別名です)の詩を、結崎が改訳したものです。改訳作業は、澤田直訳、池上岑夫訳を参照した。バスクに嫁いだYさんによる、電子メールによるこの出題はミステリアスで、ほとんどだれも顔も知ることのない人々とメールのやりとりだけで進むペソアをめぐる応酬は、脱線と注釈を繰り返し、100通以上は間違いなくかわされ、たちまちわたしを興奮の渦へと巻き込んでいった。参加者9名の改訳についての批評(12,000字)も、書いていて楽しかった。

煙草屋
アルヴァロ・デ・カンポス(フェルナンド・ペソア)
結崎 剛 改訳



私は何者でもなくて、
何者にもならず、
何者かであろうともせずに、
さて、世界の夢の一切を内包する。

部屋の窓。
世界中の、幾百万のうちの、何者とも知れぬ
(たとえ何者であるか知れても何も知れやしない)私の部屋の窓、
その下には人々が行き来する、
いかなる思考も近づくことすらできぬ、
リアルな、あまりにもリアルに過ぎて、知り盡すことなど不可能なほどたしかに、
壁をじっとりと湿らし髪の毛を白くする死や、
すべてを載せて無へと疾走する運命の、
物事の神秘が、石疊や人間どもの下敷きにされている路がある。
きょうの私は惨敗で、まるで真理を知るかのようで。
きょうの私は醒めていて、まるでそのうち死ぬようさ。
物事に親しみが湧かず、思うことと言えばただ、じゃあな……
するとそうしている間に路からこっちとこの部屋は列車になっていて、
頭のなかで汽笛が鳴る、
出発の時のように、神経を搖さぶり、骨々を震わせて。

きょうはと言えば、考え、発見し、そして忘れた男のように困っていて、
それで二つに引き裂かれている。
向かいの煙草屋を外部に実在すると認めねばならず、
さりとてすべては夢で、一切は内部に実在すると感じているからだ。
しくじってばかりさ。
けれど目的もないから、すべてが無意味なことだった。
丁稚奉公にやられたものの、
裏窓から逃げ、
大きなことをしてやろうと野良に出たが、
けれどもそこの奴らも他の連中となんら変わらず、
出会えたものと言えば草や木々だけだった。

窓際から離れ、椅子に座って、これから何を考えようか。

これからどうなるかなどいま何者ですらない者にわかるはずがない。
考えたものに成るのだと? なら様々に考えている。
それにどうしてそんなにそう同じことを考えるのか不思議なほど多く、
この瞬間私が夢みているように、
じぶんは天才であると考える輩は五万といる。
おそらくは一人たりとも歴史に名を留めることなく、
来たる征服の日の堆肥として残るだけ。
おのれを信じることすらできない。
精神病院はどこも、信じることのできた狂人に溢れ、
なにものも信じることのできない私とどっちが真面で、狂っているのか、
なにものも信じられずに……
世界中の部屋や屋根裏の一室に、
いまこの時もじぶんは天才であると夢みる者がどれほどいることか――
どれほど崇高で、気高く、透明に――
そうなのだ、実に崇高で気高く透明に――
耳を傾けられることもなく、陽の目を見ることもない、
実現するかもしれない願いが、あることか。
世界は征服者として生を受けた者のためにあって、
征服を夢みる者のためではない。
私はたとえ道理が敗者にあろうがナポレオン以上の連勝を夢想し、
キリスト以上に多数の人々を想像の胸に抱擁し、
カントにも書きえぬ哲学を密かにこしらえ、
さりとて屋根裏部屋の住人に過ぎず、
たとえ屋根裏に住んでおらずともおそらくは一生そうで、
いつだって他のことをするために生まれ、
いつだってやればできるはずな、
いつだって扉のない壁のまえで開けてもらうのを待っている、
鶏小屋のなかで無限について歌うばかりの、
塞がれた井戸の底に神の声を聞く人間で、あることだろう。
おのれを信じる? 信じたくない、私も他の一切も。
自然よ。陽の光を、雨を、髪をそよがせるほどの風を、
熱しやすいこの頭に寄こして。
他のものは、来るものは来い、さもなければ来るな。

私たち病める心臓の星の奴隷は、
ベッドから起き上がるまでは世界征服していたのに、
夢から覚めるとこの世界は透けていてくれず、
身を起こすと別物になっていて、
家を出るともう大地で、
太陽と銀河が果てしなく広がっている。

少女よ。
チョコレートを食べなさい。
世界にはチョコレート以上の形而上学はない。
いかなる宗教もお菓子屋ほど教えはしない。
そうだとも、汚い少女よ、食べるがいい。
おまえのように心底に食べられたらいいのだが。
けれども考えこんで、ほんとはアルミ箔に過ぎない銀紙を剝き、
投げ棄てる、これまで人生にそうしてきたように。

何者にもならないであろうという苦渋のなかから残るのは、
こうして書き殴られた詩句だけ。
それは不可能へと続くはずの崩れた通路。
けれどもみずからを軽蔑し、涙もなしに、
棄てるときだけはともかく堂々とあろうと目次も作らず、
私はみずからという汚れた衣服を物事の流れのなかに投げ棄てた。
そして裸のまま家にいるのだ。

私の慰め。此処にあらぬからこそ私の慰めとなるものたちよ、
生ける彫像として思考されたギリシアの女神、
高貴にして不吉なること妄りなるローマの貴婦人、
トルバドゥールたちが歌にする見目に彩なる雅な王女、
デコルテあらわな深窓の十八世紀の侯爵夫人、
私たちの父の時代に名をとどろかせた娼婦、
私の見当にもつかぬなら現代の女であれ構わない、
そなたが詩想を授ける者なら授けよ。
私の心は空のバケツ、
霊媒師が霊を呼ぶように、おのれを呼び出だしてみても、
何者も現れはせず、
しかし窓辺に寄ると、有無を言わせぬ明瞭さで路は見えてきて、
店が見え、歩道が見え、車の通るのが見え、
衣服を着ている生き物が行き来するのが見えるし、
犬が存在しているのが見えるので、
そういった一切がまるで流刑地に来たように重く圧しかかり、
他の一切と同じように疎遠なものになるのだった。

生き、学び、愛し、信じたこともあるが、
いまではただ私ではないというだけでいかなる乞食さえも羨ましい。
人々の衣服や、傷まみれの皮膚、その虚飾を見ているうちに思うのだ、
此奴は生きたこともなく学びもせず愛したこともないと
(生き学び愛することなく、それらを現実にすることができるのだから)。
分断されてもピクピクと動いている蜥蜴の尻尾のように、
おそらく此奴は存在していたに過ぎないのだ。

いまの私は別物で、
なるべきものになることをせず、
衣装をたがえて見間違えられ、
さりとて訂正することもなく、だからおのれを失くしたのだ。
取ろうとしたときには仮面は顔に貼りつき、
何とか外して鏡を見る頃には老けこみ、
しかも酔っぱらっていて、
これまで脱いだことのない衣装の着方がわからず、
仮面を棄て、外套掛けの影で眠った。
どうせ何もしやしないと
お情けで入れてもらった犬みたいに。
書くとは、自身の崇高さを証すことだ。

私が書いた無用な詩が秘めているはずの音楽よ、
煙草屋とひっきりなしに向かい合うのはもうたくさんだ、
酔いどれが躓く絨毯か、ジプシーが盗んでくる安物のマットのように、
踏みつけられることなく、
在り、意識され、創られたごとくに、
現れよ。

だが店の入り口に現れたのは煙草屋の主人で、
奴が佇んでいるのを眺めながら、半ばふりかえった首と
よくわからずにいる私の魂は所在なかった。
奴はいつか死ぬだろうし私も死ぬだろう。
奴は看板を残し私は詩を残すだろう。
時が看板を消し詩を消すだろう。
それから看板のある路が滅び、
詩の言語が滅びるだろう。
こうしたことのすべてを乗せて回るこの星もいずれ滅して、
太陽系とは異なるどこかの星で人間みたいな何かが、
詩に似たものを作りつづけ、看板の下で暮らし、
いつだって何者かと向き合っていて、
いつだって等しくどちらも要らなくて、
いつだって有り得ぬことも有ることもどちらも馬鹿げていて、
いつだって深部に潜むものも表面に顕わなものもどちらもたしかで、
いつだってあれかこれかあるいはあれでもなくこれでもなくかくあって――。

ところが男がやってきて煙草屋に入る(煙草を買いに来たのである)。
突然もっともらしい現実が眼のまえに現れ。
勢いよく半ば身を起こし、たしかに何かを信じて、人間らしく、
私は詩を書こうとする。すべてに抗うために。

煙草に火をつけ、これから書こうとする詩を考え、
吸い込みながらあらゆる思考からの解放感を味わって、
まるでこれから行く道のごとく煙の流れを目で追い、
感覚が研ぎ澄まされあらゆる思弁からほどかれ、
形而上学は不機嫌の産物だという意識を楽しみつつ、
足を投げ出して椅子のうえで伸びをし、
煙草を吸い続ける。
運命が許すかぎり煙草を吸い続けることだろう。

(もしクリーニング屋の娘さんと結婚できたなら、
幸せになれるかもなあ)
椅子から立って窓際に行き。

男が煙草屋から出てくる(小銭をズボンのポケットに入れながら)。
ああ、あいつなら知っている。形而上学とは無縁なお人よし、エステーヴェスだ。
(煙草屋の主人が入口に現れ)
男は人智を超えた本能に誘われたかのように振り向くと、私に気づき。
手で挨拶してくるので私も亦じゃあなと叫んでやり。
すると世界が理想も希望もなく眼前に再構成され煙草屋の主人が微笑する。




(20150302第2稿)


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