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クロノスタシス

君の横顔が美しかった。それと、君ほど歩幅が合う女性はこれから出会わないと思う。どうかしてるよね。まったく。

結局のところ僕は君のことを何も知らない。350mlの缶ビールを片手にタバコを咥えていた。タバコの銘柄さえも僕にはわからない。君が僕に声をかけた理由もわからない。

「ライター持ってますか?」

ふと、背中から声をかけられた。雨上がりの夜。日付が変わるくらいの時間に僕は散歩をしていた。夜遅くに君は僕の前に現れた。突然のことで驚いたが、さっき買った100円のライターを渡した。それを渡すとき、手と手が触れた。太陽の子供みたいにあったかい手。黒い長髪に黒い服、黒い大きな瞳が印象的だった。身長はあまり高くはないが低くもない。瞳の奥に何か見えそうで見えない、届きそうで届かない感情が映っていた。大学生にも見えるし、社会人にも見える。もしかしたら高校生にも見られそうだ。慣れた手つきでタバコに火をつけた。その仕草に気品すら感じてしまう。

「ありがとうございます。ついでに少しこの道歩きませんか?ついでってなんのついでですかね。えへへ」

こういう場面の断り方を僕は知らない。流れに任せて2人で歩いた。この道は都会の喧騒から隔離されていて好きな道だ。川のせせらぎや遠くに走る電車の音が心地よい。等間隔に街灯が置かれていて、常に自分の影がついてくる。この道を歩いている人を集めたら、残業もリストラもハラスメントもない素敵な社会が作れそうだなってくだらないことを考えていた。

春が終わりを迎えて、夏が芽生えてきている。夜風がそう教えてくれた。桜なんかとっくのとうに散った。あの頃の華やかな面影もなく今は緑色の葉が満開だ。むしろこっちが正しい桜の姿なんじゃないか。花弁が散った後の桜がかわいそうって君は言っていた。タバコが吸い終わると、まだ残っていた缶ビールを口につけた。

「ビール飲みます?私ばっか飲んじゃって悪いですよね。えへへ」

こういう場面の断り方も僕は知らない。近くのコンビニエンスストアで君は缶ビールを2本買った。ついてきてくれたお礼にと1本くれた。さっきよりも君の手は温かくなかった。僕の体温が上がったから。風になびく長い黒髪が美しかった。君の香水の甘い匂いはなぜか覚えている匂いだった。目の前の白球を追い続けた日々を、駆けずり回ったあの日々を思い出させてくれるような。

「最初で最後っていいですよね。特別感のある無責任さが」

儚い声をしていた。瞬きした瞬間に目の前からいなくなってしまいそうだった。君の隣を歩けるのはこれが最後なんだろうってことだけは、出会った瞬間から知っていた。君はビールの最後の一口を飲んだ。

「永遠なんて永遠訪れないから、今を楽しみましょうね。えへへ。家こっちなんで。ありがとうございました」

時計よ止まれ。 僕は残ったぬるいビールを飲み干した。君のポケットにライターが入っていたことは内緒にしておいてあげるよ。



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