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5gのお裾分け

「ゆたかさ」と言われても、正直、実感がわいてこない。経済的な「ゆたかさ」を手にした者でないからであろう。そんな私だが、母がお裾分けする姿から、「ゆたかさ」について、少し考えさせられることがあったので、書いてみようと思う。

まず、お肉屋さんでのこんなシーンを思い浮かべてほしい。

お肉の量り売りを買うとき、ショーケース越しに店員さんに、

「このお肉500gください。」

と、注文すると、店員さんは、ショーケースの中のトレイを引き出してきて、スケールの上に敷いた包みの上に、さっと肉を乗せる。

495g

肉を加え、

505g

「どちらにしますか。」

と聞かれたら、あなたは、505gを選択するのではないだろうか。

でも、もし、500gしか買うお金がなかったら、495gを選ぶしかない。その場合、たった5gだけど、お肉を食べるのを我慢しようと考えるのが、私の母だった。一方、505を選択できる場合、その5gを、ひとり占めしようとはしないはずだ。必要不可欠な500gに上積みされたこの5gも、家族みんなで分かち合おうとするのではないか。私は、このちょっと足された5gこそが、ゆたかさの本質ではないかと考えている。

私が幼かったころ、実家は、経済的に裕福な方ではなかった。いつも、食卓に上るものは、簡素な食事ばかり。切り詰めた生活の中では仕方のないことだったのだろう。そんな中、余裕ができたからかしらないが、たまに、トンカツとかステーキが食卓に載ることがあった。当時、実家では、父、母、私の3人暮らし。でも、たいていトンカツやステーキは、一枚だけ、どどーんと私の前に置かれてあった。父や母の分は、トンカツやステーキの両端を申し訳程度に切り取って、それぞれの取り皿の上に置いてある。

「さあ、お食べ。」

と、言われても、ちっとも、うれしくない。同じものを同じように分けて食べて、美味しいねって食べたかった。でも、父や母の気持ちがよくわかるから、複雑な気持ちで「美味しいね、美味しいね。」と言いながら食べていたことを思い出す。

そんな実家も、経済的に持ち直し、私も、結婚を契機に実家を離れることになったのだが、父が死んだ今、申し訳ないことに、母は、実家で一人暮らしをしている。私が実家にいる頃から、母は、裏の畑で野菜を作ってわが家の腹の足しにしていたのだが、それが次第に本格的なものになり、最近では、夏は、トマトやきゅうり。冬は、ネギや大根など、さらには、試しにと言っていたスイカやトウモロコシまで本格的に作るようになってきた。ただ、近頃、母は、歯が悪くなり、噛めないと言って、自分で作った野菜もあまり食べなくなったのだが、それでも、毎年、せっせと野菜を作り、収穫すると、「トマトができたから、取りにおいで。」などと電話してくる。ありがたくいただいて、私の家族みんなで食べて、その一部で妻が作ったジャムなんかをお返しに届けに行く。そんなやり取りが今も続いている。母は、また、いわゆるお裾分けのつもりなのであろう、ご近所にも野菜を配っているようで、実家に帰ると、必ず、お隣さんが旅行に行った時のお土産だという饅頭などに出くわす。

母を見て思う。

初めは、腹の足しに作り始めた野菜だったろう。私も、実家の野菜には、十分すぎるほどお世話になった。でも、あの当時、私たちは、経済的な豊かさからは程遠い生活をしていた。そんな状況の中でも、母は、私に、たまにしか買えないトンカツやステーキのほとんどを分け与えてくれた。貧しさの中で、分け与えることは、誰かが犠牲になること、犠牲になることを強いることではないか。そして、犠牲になるのは、たいてい母だったと、今さらながらに思う。

そんな状況から、経済的に立ち直った実家だったのだが、母の野菜作りは、ますます拡張していき、家族三人では、食べきれなくなった。その頃から、ご近所にお裾分けをするようになったのだが、母の最初の思いは、多分、食べきれなくて腐らせたらもったいないから、食べてもらおうくらいのものだったのではないかと思う。

そして、私が実家から去り、父が死んだ今でも、母の野菜作りは、ますます進化している。歯が悪いと言って食べないから、もはや自分で食べる分はほとんどない。今では、すべて、誰かにお裾分けする分となっている。

母を一人ぼっちにするから、寂しさのあまり、そうなったんだ。という声が聞こえてきそうだが、ご心配なく、実家とわが家とは5km圏内で、しょっちゅうとまではいかないが、まあ、しばしば実家には顔を出している。

不思議なことに、母が自分で野菜を食べなくなった頃から、母の野菜が美味しくなってきたような気がする。母は、最近、野菜のことを話し出すと、とても楽しそうで、目を輝かすとはこのことかと思おうほどの表情をする。やはり、自分の作った野菜をお世辞なしに美味しいと言ってもらえるのがうれしいのだろう。

貧しい中で分け与えることは、誰かに犠牲を強いることにつながるかもしれないが、お肉の例でいうところの、少し足された5gを分け与えることは、楽しみや喜びにつながるのではないか。そして、それが、10g、100gと増えていくにしたがって、ますます楽しみや喜びが増えていく。このことこそが本当の「ゆたかさ」ではないかと、母のお裾分けを見続けて、つくづく思う。

では、私にできる5gのお裾分けって、なんだろう。私は、母のような畑を持っていないし、野菜作りの技量もない。

そんな私でも、文章で、自分の思いを伝えることができるのではないか。0gの文章だけど、その思いが共有されたとき、やはり「ゆたかさ」を感じるのではないかと思う。幸いnoteをはじめとしたSNSが発展していて、自分の思いを伝えることが容易になっている。みんなが、もっと、自分の思いを発信して、共有できれば、世の中全体も「ゆたか」になるのではないかと思う。

また、投資も、広い意味で、社会に対するお裾分けではないか。当然、リターンを考えての投資ではあるが、それにも増して、社会に対しての応援と考えればどうだろう。少し足された5gを社会の応援に使うなんて、素敵ではないか。毎日5gずつ、いろんなところに分散して投資すれば、それこそ、社会全体へのお裾分けができる。ひとりひとりでは、小さな額だけど、みんながお裾分けすれば、社会全体が「ゆたか」になっていくと思う。

温暖化をはじめとする地球環境問題や、人種差別、経済格差、ネットでの悪質な誹謗中傷など、世の中には、解決されていない課題がまだまだ山積している。そんな課題に対しても、小さな2gのお裾分けだけど、役立たせることができないかと考えている。少しでも、課題の解決に役立ったのなら、母がお裾分けのために作った野菜の美味しさが増したように、私のゆたかさも増していくのではないかと思う。

私は、家族を養って行くだけで精一杯で、大きな財力もないけれど、できる範囲で、いろんな形の2gのお裾分けを、母を見習って、やっていきたい。

(おわり)

この記事は、ひふみ×noteで、投稿コンテスト「#ゆたかさって何だろう」に参加しています。

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