哲学-主題 市川雛菜についての覚書 壱

市川雛菜の話します(宣言)
最近ロラン・バルトにハマってるので覚書って描きがちになりそうな気がしますがその話は一旦置いといて。
前回の記事の最後あたりで話したと思いますが、今回は市川雛菜について少し語りながらって感じです。

市川雛菜は哲学である

いきなりどんな話をするのかと思う方もいるかもしれませんが、話は大体単純なものです。前回語ったこととは正反対で簡潔な。
https://note.com/honchi08/n/nebf1f528d6a6
↑大体はここの話から始まる思想ですのでご紹介を。
要約しますと『ゲーム内に存在するデータ上のキャラクターに関する普遍論争』においてここで語られている市川雛菜は『唯名論者』であると言うことです。

少し分かりにくいと思うので、詳しく語っていきたいと思います。
我々はゲームを周回すると思います。
シャニマスで例えれば、何度もプロデュースをすることで、『フェスアイドル』は同一種が複数生まれてくると思います。
あえて言うなら、市川雛菜Aと市川雛菜Bと…が
ここで現れる複数の市川雛菜を『普遍的な市川雛菜』としてひとまとめにして良いのかという話です。
上の記事の中ではゴミ箱に『入るまでやる』浅倉透はそう言う意味では実在論者(普遍浅倉透的思想)であり、『今の、雛菜だけの、プロデューサーでいてくれる』為に『ちょっと前に戻ったら「絶対にアイドルやらない方がいいよ」って雛菜に言う』市川雛菜はそう言う意味で唯名論者(普遍市川雛菜は存在しないと言う思想)であるという話をしています。
市川雛菜は市川雛菜でしかなく、また『この』市川雛菜でしかありません。
彼女には彼女と彼女以外しかなく、そこには圧倒的な断絶が存在しています。
が、彼女はまた拒絶という態度も望みません。
完全な理解そのものは不可能でありながら、理解を極限まで望み、問い、語りかけ、共に歩んでいく。
これ、何かに似てると思いませんか?
哲学です。

市川雛菜とは積極的断絶である

-ここまでは2021年7月11日

わざわざ時期を書いてるのは、この前の『意識の流れ的記述』の一部になります。
あくまで思想、考察的な流れに関しては出来る限りクリーンに示していきたいと思いまして
今回は
https://note.com/misuto323/n/nb7867ef92b64
↑の記事を読んだ際に家に積んであるスラヴォイ・ジジェクの『暴力–6つの斜めからの省察』を読んだほうがいいのではと判断した結果になります。
ちょうどこの記事(哲学-主題)の上の内容では、市川雛菜の圧倒的断絶の話をしていましたが、このURLの記事ではどちらかというと断絶の『間』、命懸けの飛躍的な要素があったので、寛容の論理について語っているとどこかで書かれていた気がするこの本を読むべきだと考えたからです。

-ここからは2021年 7月16日

寛容という概念はよく大切なという枕詞とともに紹介されます。もちろん、何でもかんでも認めないと言った不寛容な態度の人間が現代を生きていけるとは考えられません。が、その寛容はある種非対称的だとも言えます。
寛容のパラドックス(ジジェクの解説を聞く中でこの単語を聞いたのでジジェクを辿りましたが、元はカール・ポパーが唱えた概念らしいですね)と呼ばれるこの概念は雛菜的と言える可能性を秘めているとも私は考えます。
対称性。それこそが雛菜の求める関係なのではないでしょうか。

市川雛菜とは開けた存在である

『そっか〜…… そんなに雛菜のこと、知ってるのか〜 ……プロデューサーは、雛菜じゃないのに』
この言葉は、WING編にて、プロデューサーが雛菜と打ち解けあった際の雛菜の一言です(今回はその状況自体が必要な情報というわけではないので、ざっくりとした説明になりましたが、ご了承ください)。また、その後の『アイドルにはなれると思う?』という言葉は雛菜の形而上学的には一行の価値がありますが、そこに対しては今回は考えないでいきたいと思います。覚書弐とかでまた。
この言葉では、雛菜にとって他者が全て不必要な存在だと切り捨てられているわけではないということが明らかになります。

雛菜らしくあることを否定せず、かと言ってそれを放置するのでは無く、積極的に介入しながらもその芯を否定しないこと。これはまさに、雛菜に対して寛容ではなく、明確な理解のようなものを前提としなければ出来ない営みであり、またこれは対照的な関係であると考えられます。
雛菜と言い合い、そうでありながらも浅倉透を通して絶えず交流を続けてきている。これもまた一種対照的な関係と呼べるのかもしれない(要考察)
上の二人はPと樋口円香の話であり、この調子でいけば浅倉透と福丸小糸に関しても対称な関係が構築されていると思いますが、今回の覚書はここまでにしたいと思います。何しろこれ結構体力を使うと気付いてしまったので。

一先ず、今回の考察の中で大切なことは、雛菜は他者と自分の間に明確な断絶があることをはっきりと認識しており、そうでありながら他者から理解され、対等な関係にあって欲しいと心のどこかでは願ってしまう。そんな思春期らしい矛盾を抱えたある種『普通の一人の乙女』なのではないか。という事です。
こう言っている私も、普段はシャニマスは非記号的に捉えるべきだと唱えているような人間なので、こんな実在性を奪ってしまうような試みが大好きというわけではないのですが、どこか、こんな記事を書き連ね続ける事でいつか本当の実在性というものが分かるのではないか、という一抹の希望を抱えながら、雛菜のような矛盾した人生を送っていくわけです。

あとがき

今回の記事に際して、本当に複数の記事や考察動画を参考にさせていただきました。私はこういう記事を書くときにはめちゃめちゃ一心不乱にいろんな記事を見て、その夜に風呂で色々考えてっていうのをやりながらある程度形になっていった考え方をまとめるっていう順次方式をとっているので、ここの考えがこの記事で…と明確な対応関係を作るのは難しいですが、どの記事も示唆に富んでいて面白いと思います。

少なくとも、この記事を書いた7月16日までに『スキした記事』の中に入っている記事(『1人の女の子を考える〜市川雛菜②』まで)は読んで考えの一部になっていると思います。

という事で、次回はシャニマスかどうかわかりませんが、またいつかs

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