見出し画像

シャニマス「浅倉透」と「市川雛菜」が持つ哲学の対照性について

***共通コミュにはなりますが、市川雛菜の決勝後コミュのネタバレが含まれます。***

はじめまして、シャニマス(というよりもアイマスそのものの)歴が一週間弱の本間です。

「ダ・ヴィンチ・恐山」という株式会社バーグハンバーグバーグに所属してるライターが定期的にシャニマス(ないしアイマス)がとても良いものだと激励しているので、徐々に食指が動かされて、ついに始めてしまいました。

私が最初に選んだのは浅倉透でした。中性的なルックスに惹かれるという点で恐山さんと同じですね。うれしはずかしー

なので現在は、彼女が所属するユニット「noctchill(カナ表記はダサいので英字で書きます。彼女ら一切の美しさを損ねてはならない……)」を中心にコミュを追っています。

事の発端は恐山さんと彼の友人「ナラハシ」さんがスプラトゥーンをしながらシャニマスの話をする動画。その動画にて「1:08:35」からナラハシさんが浅倉透について、「1:26:14」から恐山さんが市川雛菜についてそれぞれ語っている内容からになります。


浅倉透はW.I.N.G.の準決勝前に願掛けをします。「これ、あのゴミ箱に入ったら勝つ――」しかし浅倉はそれを外してしまい、プロデューサーから心配されます。「えっ…… ま、負ける……のか?」浅倉は不敵に返します。「ふふっ 入るまでやる で、勝つから」

このやり取りから浅倉透の「今その時」に対する執着心の薄さが伺えます。また、ナラハシさんも動画内で言及していますが、このやり取りにはゲームシステムがそのまま反映されているように思えます。実際、準決勝で敗退したとしても、プレイヤーは新しくゲームを始めて優勝するまで繰り返し挑む事ができます。

この「ゲームシステム」というものに着目すると、浅倉透と市川雛菜の対照性が見えてきます。

市川雛菜はW.I.N.G.優勝後、プロデューサーに対して突然こんなことを言います。「……………… 雛菜ね〜…… ちょっと前に戻ったとしたら 絶対にアイドルやらない方がいいよって雛菜に言う!」優勝後の台詞としては余りにも不自然な為、思わずプロデューサーも「え……!?」と反応します。しかし雛菜の話を最後まで聞くとその真意が覗けます。「――そしたらこれからも 今の、雛菜だけの、プロデューサーでいてくれるでしょ? 今ここにいる雛菜が、いちばん楽しくて、しあわせなのがいい〜〜」

こちらは余りにも現実離れした喩え話をしているので、浅倉透よりもより直接的に「ゲームシステム」を突き付けて来ているように思えます。確かにこれはゲームなので、W.I.N.G.を優勝した後もまた一からプロデュースを始められますし、その度に彼女らは成長を強いられます。そして、一度プロデュースを終えた市川雛菜(フェスユニットになった市川雛菜)を再度プロデュースする(ステータスを上昇させる)ことは出来なくなります。

実際、私自身、恐山さんとナラハシさんの動画で市川雛菜のエピソードを聞いた後、それをこの目で見る為に何人もの「市川雛菜」を作りだしました。

画像1

さて、ゲームのリプレイを推奨する浅倉透と、ゲームのリプレイを抑止しようとする市川雛菜。この二人の持つゲームシステムに対する哲学はとても対照的だと言えます。

ではここから、話を少し飛躍させます。
それは「彼女達は自分がゲームのキャラクターであるという事実に気づいているのでは?」という疑問です。何せ、彼女達を彼女達たらしめる為のその哲学が、本来彼女達の知らない(とされている筈の)ゲームシステムから影響を受けたとしか思えないからで、さらに言えば、彼女達が「私は『THE IDOLM@STER SHINYCOLORS』のキャラクターである」という真理(もしくはそれに近い所)に到達したとしても何ら可笑しくはないからです。

彼女達は大衆から(ゲーム内の大衆もそうですし、我々がいる現実世界の大衆からも)アイドルとして認識されています。すると必然的に彼女らは大衆から「動機」を求められるようになります。イベントコミュ「海に出るつもりじゃなかったし」では動機付けに対するnoctchillの葛藤を垣間見る事が出来て、タイトルからもそれは十分に伝わってきます。

これは私の持論になるのですが、人間が自分の生き方に動機付けをしようとすると「私とは何か」という問いを避けては通れないように思えます(就職活動の自己分析などがそれに当たります)。では「THE IDOLM@STER SHINYCOLORS」というゲームの中にいるキャラクターが、真に「私とは何か」を突き詰めようとすると、どういう答えに辿り着くのでしょうか? あわよくば彼女達が「私は『THE IDOLM@STER SHINYCOLORS』のキャラクターである」という真理(もしくはそれに近い所)に到達しても何ら不思議ではないように思えませんか?

つまり、彼女達は、自分が自分である事の意味を考えた時、「私は『THE IDOLM@STER SHINYCOLORS』のキャラクターである」という真理(もしくはそれに近い所)に到達しており、その結果、浅倉透は「『浅倉透』のゲームデータは全て自分」という哲学を持ち、市川雛菜は「プレイヤーにプロデュースされているその時の『市川雛菜』のみが自分」という哲学を持ったのだと考えられます。これらの考え方はどちらも「自分がゲームのキャラクターである」という真理と向き合った結果として、とても現実的で真っ当な考え方、心理の働き方に沿った結論だと思います。

これまでの事を考えると、浅倉透から感じられるアイドルらしからぬ「達観性」や、市川雛菜から感じられる浅倉透やプロデューサー、さらには「今ある楽しさ」に対する異様な「執着性」にも納得と共感が多少は出来るのではないでしょうか。

もし、あなた達がゲームの世界に閉じ込められたら(もしくは閉じ込められているとしたら)、その時はひょっとすると、彼女達の哲学が参考になるのかもしれません。


P.S.

「じゃあ、樋口円香と福丸小糸はどうなんだいっ!」

すみません。わかりません。W.I.N.G.もまだ優勝していません。

さらに付け加えて元も子もない話をすると、彼女らが「自分がゲームのキャラクターである」という真理に気づいていようとなかろうと、彼女らは、「自分がゲームのキャラクターである」が故に、「自分がゲームのキャラクターである」ことを主張できないので、私達プレイヤーは「彼女らが『自分がゲームのキャラクターである』という真理に気づいているかどうか」を探ることが不可能なのです(隣人が哲学的ゾンビかどうかに頭を悩ませても決して結論は出ないのと同じです)。

ただ、今は一つの視点として「浅倉透以外のnoctchillメンバーは、浅倉透に対して、何かしらの対照性を感じているんだろうな」と思っています。浅倉透はその名の通りの性格で、まるで色即是空を体現したようなキャラクターなので、並みの人間であれば浅倉透という人物と対峙した際に対照性を感じるのは必然だろうと思います。noctchillを読み解く鍵は浅倉透が握っていますし、他のメンバーもそれには気づいていますが、浅倉透は何も握っていません。

画像2

画像3


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?