百田尚樹と見城徹

ついこの間、百田尚樹先生の『永遠の0』と『影法師』を読ませていただきました。 ここ最近、小説を読むことが少なくなっている私ですが、とても面白い内容でした。 

それとは別に、少し前に見城徹先生の『読書という荒野』という本も読ませていただきました。 この本の中でも、百田尚樹先生が紹介されているのですが、今回は、そこではない場面からの引用を以てこの3作品について語っていきたいと思います。

理想と現実との擦り合わせ

私は、政治の話をするときには必ず話しますが、政治(この場合は広義的な意味ではなく、政府が主として行う統治に関する政治を指させていただきます)とは理想と現実の擦り合わせだと認識しています。Aという理想と、Bという現実があり、それを擦り合せることで実現可能な案Cが生まれる。 そんな様にして政治は行われていると思っています。 

似た様な内容の言葉が『読書という荒野』にも書かれています。「読書体験を通じて、左翼的な理想主義に一度も傾倒していない人を信用できない」と。本の中に存在する理想に触れて、そして常に存在する現実に触れて、人は現実への嫌悪感を一度は募らせる。そうして理想に傾いた後に現実を知る。漫然とではない、真剣な左翼活動への傾倒は私としても理解できるものがあります。 だからこそ私は全てにおいて真剣に取り組んでいる人間は尊重する姿勢なのですが。

ここからなんとかして綺麗にまとめていきたいと思います()

理想と現実の二元論は、『永遠の0』『影法師』の二つにも見えていたテーマだと私は思います。戦争という戦いの中で個としての生を望む宮部や、大坊潟を作ろうとした勘一は、だがしかし現実の中でもがき苦しんでいきました。 彼らと私たちを重ねることはそう難しくないと思います。 そして、この作品の中で私達が学べるものは決して少なくないと思います。

理想に生き、現実に捩じ伏せられ、それでもなお理想を目指した彼らの勇姿を、私は無駄だと切り捨てることは出来ませんし、理想に辿り着いた人間はまた結果論や才能という言葉だけで切り捨てることも出来ないと思います。

理想と現実の振り子の中で私達は生きている…その考えをいつも持ち続けることこそが私達が生きていく中で必要なことの一つだと思います。

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