皮人
妻がパートに出かけていった.
その後姿をぼんやり眺めていると,バタンと扉がしまった.一人になった.
冷蔵庫がジーとうなる音が耳朶を震わせた.
少し暑かったが,窓を開けるのは億劫であった.俺はごろりと横になると天井を見上げた.
ヒマでなすすべもないことを天井の節穴を数える,というが,まさしく俺は無意識のうちに天井の木目模様を視線でなぞっていた.
テレビをつける気にもなれず,益体もないことを考えたりをしばし続けるうちに,ふと横にあった空の灰皿が目に入った.
ガラス製で八角の縁にすいさしをのせる溝の入ったさして個性もないこの灰皿は,長年使ううちに汚れがこびりつき,どうにもみすぼらしい体であった.
俺は灰皿を持ち上げると,ひっくり返して裏側を透かしてみた――ものの汚れがひどく,なんの像も結ばなかった.昔,買ったばかりの頃は光がガラスの中で反射してきらきらしていたようにも思えるが.
俺はすっかり飽きてしまって,元の場所に戻そうとした.
灰皿の底を通して,俺の腕がわずかに透けて見えたとき,なにか動くものが見えた.
灰皿を片手に腕の上にかざしてみた.
そうしておいて,灰皿のくもったガラスを覗き込んだ.
そこにはくろぐろとした巨木の中をゆらゆらと動く木の棒のようなものが映っていた.しばし見るうちにそれは胴・足・手を持ち,足を動かすことで歩行する――まるで人間のようなものであることが了解されてきた.巨木とは俺の腕の毛根にほかならない.
灰皿を除いた.
そこにはなんの変哲もない俺の腕があるだけである.おもいきり腕に目をちかづけて,凝らしてみても白いとも黒いとも言えない肌のあちこちから黒い毛がまばらに生えているだけで,この奇妙な動体は見つけられないのだ.
そのくせ,灰皿の底を覗くとそいつは確かに歩いている.俺が見ていることなど気がついてすらいないようだ.
これはなんだ.
俺はしばらく観察するうちに,この奇妙な動体が一体だけではないことに気づいた.
毛でできた森のうちからもう一体,別の動体がふらりと現れたのである.かれらはやがて連れ立って歩きはじめた.
妻が帰ってきた.
俺は興奮気味に,この奇妙な動体をみせようとしたのだが,かれらは気まぐれな質のようでついに姿を見せなかった.
パートで疲れた様子の妻は,俺が晩飯を用意しなかったことに腹を立てた.
かれらは俺が一人でいるときにだけ現れるようだった.
これはおそらく妄想に違いない,とも思うのだが,曇ったガラス越しのかれらがふらりふらりときままに俺の腕の上を歩き回るのを見ていると,到底これがゆめともまぼろしとも思えないのだった.
それから俺は仕事から帰るとかれらを探すのが日課になった.
どうやら彼らは群れで暮らしているようだった.
そして,その住まいは親指の付け根と腕の連絡するあたりの少しくぼんでいる谷間であった.――というのも,かれらを見失うのはいつもそのあたりだったからだ.
三度目に妻に見せようとしてかれらが現れなかったとき,妻の目にはかすかな狼狽が見てとれた.以来,俺はこの不可思議の住民たちを妻に見せるのを諦めた.俺が話題に出さなくなったことで妻の態度も徐々に元に戻っていった.
幾日かが過ぎ,あるいは幾月かが過ぎた.
俺の仕事は波があり,ちょうど繁忙月の終わり頃,常日頃の入浴を欠かさない俺はつい入りそびれた.それも二日続けてだ.
やっと担当していた案件がひと段落つき,俺は同僚に誘われて一杯呑んでから帰途についた.
家につくと,ふと目についたあの灰皿を手に,かれらを探した.
容易に見つかった.
半ば酔いのさなかで,俺はかれらをぼんやりと眺めた.あることに気づいた.
かれらは身体のあちこちに卵の殻の欠片のようなものを付けていた.なかには全身を欠片でおおっているようなものもいた.
しばらくして,これは服なのではないかと思い当たった.
卵の殻のようなものは俺の皮膚の剥がれたものであろうか.
翌日.
俺はさらにかれらの服が発達しているのを目にした.色の異なる欠片をつなぎ合わせた服を着ている個体がいた.それは明らかに何らかの模様を表現しているように思われた.
進化している.俺は自らの腕の上で起きつつある不可思議に妙に厳粛な気持ちになった.
夕食を摂っていると,妻に今日は入浴するように言われた,彼女も小綺麗にしておきたい質で,そのあたり,性質のあった夫婦の筈だった.俺が忙しさのあまり,生活がおろそかになっているのを気にしているのだ.
俺はかれらの身におきた不可思議が,――文字通り,水に流れてしまうことを恐れた.
しかし,妻の言うことももっともである.
その晩,湯船に浸かり,数日来の疲れを癒やした.その日は灰皿には触れさえせずにそのまま寝た.
恐れていたとおり,かれらはふたたび一糸まとわぬ姿となり,その数も減らしていた.
俺は知らぬうち,毎晩のように創世記の大洪水をかれらに課していたに違いなかった.俺が毎日覗き込んでいたのは,神話級の大災害を乗り越えた営々たくましい種族の生き残りだったのである.
しかし,風呂に入らないわけにはいかない.
それからも風呂に入るたび,かれらについて思う日々が続いた.
一方で,心の裡のどこかでかれらの存在を疑わずにはいられなかった.
ふつうに考えて,灰皿の底を覗き込んだくらいの光学的倍率などたかがしれている.それこそ,かれらは動き回っているし,胴に手足がくっついているのが見えるのだから,そこまで小さいはずがない.
皮人,とかれらに名付けることにした.
皮膚の上に住んで,皮膚の欠片を身に着けている種族だから,あながちおかしな命名でもない.
それから俺はかれらについて時間を見つけて調べていた.かれらは一体なにか? 俺の妄想の産物か?
図書館で渉猟してみたが,かれらのこととおぼしきことが書かれたものは見つからなかった.
妻が義両親に誘われ,一週間の旅行に行ってもよいかとおづおづと訊いてきた.俺は当初渋るフリをしていたが,じきに折れてみせた.
数日,妻は実家と密に連絡をとり,宿を決め,往路復路を確保した.妻は冷蔵庫内の作り置きと,二三の家のことをよろしく頼むと言って出かけていった.
一人になると,俺はさっそく灰皿を取り上げると,皮人たちの蠢くのを眺めた.
かれらは知るよしもないが,これから一週間,――ちょうど創世記で神が天地創造に費やしたのと同じ期間,皮人たちはこの世の楽園を享受するに違いなかった.
二日たった.
いつかのようにかれらは服をまとうようになり,また,以前は気づかなかったが,皮の欠片を積み上げた家のようなものが散見された.集落のようだった.その傍らには定間隔に欠片が立て掛けてあり,――俺にはそれが何なのかわからなかった.
午後半休をとって,午後過ぎに帰宅した俺は少しばかり午睡をとった.覚め,灰皿ごしにかれらを見ると,いつになく活発に蠢いている.その量はもはや数十,百を数えるように思えた.
かれらの動きをつぶさに見ていると,どうやらかれらは二組に分かれて争っていた.つまり,かれらは戦争をしているのだった.
合戦は程なく終わり,負けたほうは勝った方に隷属する流れになったようだった.
皮人たちは争うこと,従えることを覚えていたのである.
翌晩,帰ってすぐに電話が鳴った.
妻が安否を気にしてかけてきたのだった.
困ったこと変わったことはないか,との謂に俺はなにもない,と言った.三分ほどの他愛ない話ののちに電話を切った.久しぶりの親子水入らずの旅は案外に有意義なのだろう,と思った.妻の弾んだ声を久々に聞いた気がした.
皮人たちの中に,王とおぼしきものが現れていた.
集落の中心に住み――この頃になると夜になってもかれらが見えなくなることはなくなり,俺の腕の上で堂々と居住するようになっていた――複雑につぎはぎされた手のこんだ服を着ていた.かれらにとって,服の複雑さは権力の象徴だった.
王に隷属する皮人は数百を数えるように見えた.無数の手足の生えた棒が王を中心に傅き,王の気をひくためにさまざまのことをした.ある者は力を鼓舞しようと,別の皮人を胴体のところから割ってみせた.割られた皮人は地に落ちると見えなくなった.またある皮人は奇妙なポーズを次々ととってみせた.しばらく見ていて,これは自身を使ってなにかしらの意思の伝達をしようとしているのではないかと思った.つまり,旗振りないしは文字ではないか.
褒美として,王は自らの着込んでいる服から小さな欠片をむしり取ると気に入った者たちに与えた.その者たちは自らの服のもっとも目立つ位置に欠片を取り付けた.
五日めに俺が帰宅したとき,かれらはなにか大規模な計画を始めたようだった.
皮膚の皮があちこちに積まれ,それを運ぶ者,積み重ねする者,監督する者・・それらがひとつの生物のように秩序だって,なにかしらの計画を進めつつあるようだった.
寝る前にもう一度見ると,それは巨大な円状の輪郭をしていた.塔を思わせた.
皮人たちは忙しなく一致団結して働いていた.それはさながらからくりの複雑に連動して一個の動きをかたちづくっているようにも見えた.
俺は飽きもせず,かれらの組織だった挙動に見入っていたが,いつのまにか眠ってしまった.
風呂にはいっていないせいか,自分の脂の匂いがすこしきつくなったように感じた.
かれらの塔はいつか灰皿の底の光学的不可思議のベールを越え,俺の肉眼でも見えるようになるのだろうか.
――すでに俺は,かれらが肉眼では見えないこと,妻の前にはけして姿を表さないことは些細なこととして気にもとめないようになっていた.
翌日,会社から急ぎ帰宅すると,俺はとるものもとりあえず灰皿を手にとった.
皮人たちの大事業はかなりの程度進捗しているようであった.
俺はかれらの建造物を覗き込んだ.それは塔というよりは,すり鉢のような形をしていた.周囲を円状に囲ったその裡は高い建造物というよりは深くえぐれていた.すり鉢の中心に皮人たちが集まり,しきりと動き回っている.
さらに目を凝らすと,かれらは地面を掘っているのだった.
掘り出されたうっすら灰がかった乳白色の綿のような塊があちこちに散らばっており,運ぶのを生業としているらしい皮人の一団が円状の囲いの外へと運び出していった.それは俺の肉の組織に違いなかった.
かれらは天上を目指すのではなく,宿主への体内へと掘り進むという選択をしたのだ.
俺は驚愕のあまり,しばし呆とした.身体を掘り返されているというのに痛みはなかった.
しかし,俺のこの身体の裡に奇妙な皮人たちが無数に侵入し,這い回るのを想像するだに悍ましかった.無数の皮人たちが俺の腕の皮という皮を掘り返し,体内に這入りこむ.しかもかれらは人の何百何千倍もの速度で文明を進捗させるのだ.
俺の身体はどうなる?
――気づくと俺は風呂場で湯を沸かしていた.
服を脱ぎ捨てると,躊躇なく湯船に浸かった.
かれらの文明の到達点,円状の鉱山が水没していく.四方から押し寄せる水がなにもかも呑み込んでしまう,かれらは皮の欠片とおそらく油脂とでできた存在に違いなかった.今,この瞬間になにもかもが水にふやけ,溶解し,押し流されてしまう.
民草も欠片で着飾った王も,はじまりの一週間で築かれたなにもかもが溶けて――
俺は心地よさとともに罪の意識に似た後ろめたさも感じていた.
次の日の夕方に妻が帰ってきた.
風呂から上がると,旅先での土産話を聞きながら,二人で乾杯した.
ふと,俺は灰皿を取り上げたがそのまま戻した.
俺の素振りを見て,吸わなくなったよねと妻が言った.そういえば随分煙草を吸っていない.
このまま禁煙してしまおうかとぼんやり考えていると,おかえり,と妻が言った.
逆じゃないかと言い返そうと思ったが,妙にしっくりきて代わりにこう返した.
おかえり.
了
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