聖なる一滴

 その土地は赤い土と石が益体もなく広がるのみの埃っぽい荒野であった.ところどころ低木が密度の高い枝をそぞろに伸ばしている.雨期には荒野は一面,足場の悪い泥地になり,乾季には干上がって一滴の水も残さなかった.森が発達しないのは悪魔の仕業だということだったが,山脈から流れてきた塩が溜まって植物の生育に適さない不毛の地になったのだとも聞いた.
 私は街から車で数十分をかけてやってきた.この地にやってきたのは仕事の他に依頼を受けてのことだった.
 私はさる研究機関で測量師の職にある.あちこちの測量地所に出向いては記録を取るのが主な仕事である.もともと学問を志したわけではなく,それ以前に長いこと下級の役人として勤めあげたのが,急に仕事も人生もつまらなくなり,擲ってしまった.半年ばかり死人のように家で寝て過ごしたのを見かねた知人の紹介でありついたのが,つまり僻地の測量という仕事だったのである.学生の時分に少しばかり研究で齧っていたのを知人は律儀にも憶えていたのだ.ともあれ私の話はいい.
 ふだん公私ともに世話になっている古物商の男が――先の知人とは別であるがこれも同じくまさしく善人に分類される愛すべき男である――ある時にこのようなことを言ったのである.私たちは連日雨が鬱々と降るある夕べに近くのバーで酒を飲んでいた.次の太陽の出る頃――この辺りでは雨期の終わりに水浸しになった地平の向こうに虹が架かる頃合いが仕事にせよ恋にせよなにごともよい機と言われている――に訪ねてほしい男がある.その男は子どものときからの付き合いとなる旧い知人で,長じて僧となった.しかし,ある時辞して,かの荒野に居を移してしまった.以来,世捨て人とも隠者ともつかぬ暮らしをしている.もとより奇矯な質が荒野の瘴気にあてられたのか,年々ひどくなり,もともと尠かった人付き合いは漸減を繰り返し,とうとう古物商ただひとりとなった.然るに半年ほど便りなく,どうしているのやら云々.云々.
 古物商は人は好いが,話を畳むのが不得手であった.あるいは人が好いから話を勝手都合で畳むことができないのかもしれぬ.つまるところ,測量のついでに友人の世捨て人の様子を見てきてほしいと言いたいのであろう.私はこうしたお節介がときに人を死から呼び戻すことを身を以て知っている.私は承諾した.
 男の家は荒野の只中に唐突に現れた.ひときわ高い木が立っており,その陰に隠れるように小ぶりな小屋が建っていた.小屋の脇には土嚢が積み上がっており,家の脇には井戸が掘ってあった.
 車を停めた.私は家の様子を窺いながら近づくと扉を二度叩いた.返事はない.扉の取っ手を回すと鍵は掛かっていなかった.
 僅かな間の後,扉を開いた.中に入ると,むっとした空気が篭もっていた.室内は乱雑であり,本や器具類が散乱していた.机の上にいくつも瓶や鉢が転がっている.どれも底のほうに黒い滓がこびりついていた.
 人はいなかった.
 実験器具が陳ぶ机上で,一冊のノートが開かれているのに気づいた.開かれていたのは最後の頁で,それまで数頁にわたって文章がびっしりと走り書きされていた.世捨て人によるものなのだろう.私はその場で読みはじめた.私は世捨て人の残した手記を最後の一文,終止符まで読み了った.けして達筆でないが,高等教育を受けたと思しき文体とどこか常軌を逸した字画で綴られる静謐な狂気があった.私はなにかただならぬ悍ましいことがこの男の身に起こったことを知った.
 次に引き写すのはその抄版である……

 私は職工の息子として生を受けた.両親は信仰に篤く私は幼少より両親とともに教会に通うことを欠かしたことがなかった.
 父は腕のよさと商売人としての勘所をどちらも持ち合わせていた.家は比較的裕福で,私は苦労せずに育った.自らは学のない出自であるのを恥ずかしく思っていたであろう両親の勧めもあって進学し,僧への道を歩んだ.
 神に仕えること,その歴史や深い教え――あるいはその裏に見える根源的な人間の愚かさ,そへの戒め,これらを深めるのは喜びであった.僧籍に入ったばかりの頃合い,確かに私は神を愛し,その前に傅く自らをも愛していたのだ.しかし,ある時私は唐突に神への愛を喪った.代わりに私はある考えに取り憑かれた――.それについて,あとから自分なりに考えたことを交えつつ書くことにする.
 最初の疑問が私を襲ったのは,皮肉なことに僧として初めて市民の集会で教壇に上がったときであった.まづは集った人びとをゆっくりと見回すこと――とは私の師が説教する際に落ち着いて話を始める心得として言ったことだが,顔という顔を見るではなく眺めまわしたときである.その瞬間に,私は衆前に立ちながら,けしてかれらを認識もしなければ理解も交流もできないだろうことを察した.あとから聴衆のひとりから聞いたところによると,初めての説教とは思えないほど堂に入っていたということだった.しかし,私自身はというと,神の教えを口にし,教典を引き,独自に研究した神学上の解釈さえ交えて語りながら,心の裡では浮かんだばかりの疑問を反芻していたのである.
 ここでこの疑いについて細かに検討することは紙面の都合もあるので控えるが,簡潔には,神と私の間に横たわる認識の不可能性に関する問いである.私如きの持ちうる認識,それこそ数十人程度を前にしてひとりひとりを碌に認識することすら出来ない脆弱なそれで果たして信仰は成立するのだろうか?この問いにはおそらく信仰という行為そのものが答えになるだろう.たれも自らが信じる神の全能を疑ったりはしない.自らの信じるという行為についても同じである.おそらく民の前で僧となったその瞬間に私は神の徒としては死んだのである.私は依然として神に傅いていたものの,もはやその行為にすら不純なものが混ざり込んでいた.
 私は研究を重ね,過去に神を視た者,その身に神性を宿した者,神を受胎した者…を渉猟し,すえにひとつの結論を得た.私の失われた信仰を再び得るためには神性をこの身に宿す他はない.私の理解――もっとも私は研究を進めるにつれ,不可逆に歪になり,かつて僧だった私がこのような思考に至るとは……――によると,神性とは私の仕えていた神のほかに超越的なもの聖なるもの高次な存在を包括する概念であり,形而上学の範疇である.一方で私は――少なくとも私自身の認識では――今この瞬間の現実に張りつけられており,私が神性を宿すにはなんらかの冒涜的な方法が必要なことは明白だった.方法は科学的な手順よりもむしろ神学的もしくは呪術や魔術の領域になるはずだ.
 私は次第に,それまでの信仰から外れ,異教や呪術,巫術のようなものにも神性は宿るものという異端な考えにのめり込んでいった.預言者はひとりに非ず,神なるものから啓示を受け取った人間は数多おり,その中から優れたもの,系統だったもの,純度の高いものが盲いた群衆に啓蒙されたのだと信じるようになった.
 ある異教の教典に載る受肉譚に曰く,奇蹟により受肉した外なる神を村人たちの無知によって殺してしまい,かれらは強欲にもその灰をめいめいが持ち帰るとある者は肥料に混ぜて田畑に撒き,ある者は餅に混ぜて食べてしまった.神を食べた当代は繁栄したが,子の代孫の代に飢饉や不妊,流行り病,殺人や発狂に次々と見舞われ,ひとつ残らず断家したという.また,似たような話で――力ある者や稀人,異人を弑して食べる,あるいは奪うことで繁栄と引き換えに呪いを背負い込む話はいまさら並べ立てるまでもなく,普遍的で世界中にある話だ.しかして示唆的である.
 しかし,神性の受肉は神なるもの聖なるものになんら縁故を持たぬ私にとって壁であった.神と私との間の細い径をたどるには,神を由来とする直接なものが必要である.
 私は四方手を尽くして多大な労を払ったのちに,ある筋から異教の神がものしたという旧い本を手に入れた.文字は殆どかすれて判別できず,ひどく悪筆――しかるに一片語すらも理解できなかった――でおまけに信仰する者の絶えて久しいという.真贋はわからなかったものの信頼すべき機関に鑑定を依頼したところ,一千年は旧い本に違いはないそうである.私は神が自らものした,という点に異常な昂奮を覚えていた.すなわち,この本には神の意志あるいは書いている時点での神の思考が直接顕れているはずで,神性の一部が本のかたちをとってあると見做してよい.
 なんらかのかたちで神の文字を肉として食べる方策が必要だった.
 私はある夜更けに,古書肆から仕入れたばかりの古書をめくっていた.黄ばんだ頁の上をもぞもぞと進むものがある.よく見ると丸く小さい昆虫で,蠢いている横に穴が空いている.古書は虫害にあっていた.私は無造作に虫を払った.歳月とともに脱色し澱んだ灰色になった絨毯の上に落ち,見えなくなった.私は絨毯と古書に空いた穴とをしばらく呆然と見つめていた.穴はたまさかうっすら残る単語の上に空いており,先頭におかれた「R」を半ば侵すように食い破られていた.虫の食べた文字はどこへ行ったのか? 虫の腹の中である.消化され,紙と色の成分は糞になるに違いない.では,それらが表象していた文字は? 文字の織りなす言葉は? それには神性が宿っていたのではなかったか?
 私はかの強欲ゆえに滅びた一族を想起した.神性を食べたものは――代償を払ったとはいえ――それを得たのである.ここには勁い関連があるに違いなかった.
 私は苦労して紙を食って成長する虫を新たに数十匹捕まえると小さな瓶の中に入れた.次に注意深くかの古書を入れた.さらに湿らせた布切れを入れた.繁殖のためである.これで,かれらが殖えに殖え,古書を文字通り食い尽くしたのち,かれらの身体には,神のものした字句が肉体を得ているはずである……
 古書は私の片手で支えられる程度の大きさであったが,文字通り食べ尽くすに至るまで二年を必要とした.私は日々,新たな虫を捕まえてきて入れ,萎びた布切れを入れ替え,黙して待った.それは滑稽であったが,さながら祈りでもあった.かれらは頭部を烈しく地に打ち付けて早鐘のような音を鳴らす奇行癖があり,私の家は始終,落ち着かない異音で満たされていた.
 ある朝に古書は夥しい虫と糞の山に埋もれるようにその形を喪った.緩慢だが活発に蠢いている虫の山には確かにある種の神秘が宿っていた.用意していた鉢を出した.私は慎重に瓶から虫だけを取り出し,鉢に選っていった.糞のほかに二年の間に世代交代を繰り返したせいで,死骸も数多かった.私はいくつか仮説を立て思考実験を行い,結局死骸も鉢に移した.すべてを移し終えると,慎重に虫の山を潰していった.途中,蒸留水を数滴加え,加熱し,さらに潰すを繰り返した……数日がかりで鉢の中は黒い泥が底に溜まっている有様となった.
 私は続いて,清潔な白い布で黒い泥を濾した.あとには透明な液体がスプーンひとすくい分ほど残った.
 ようやく準備は整ったのだ.私はこの聖なる一滴を干したのちも私という狭小な認識,自我を保てるか自信がない.今,あとにつづく人に径を示すべくこの手記を記している……あと少し,この一文を書き終えたら,私は神の一滴を口にし――人間の認識の外へと旅立つつもりだ.




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?