2021/5/4:死・光路差

何もできない。何もしたくない。

0と1の違いは何だろう、と思う。思うのは、0.1みたいな毎日が続いているからだと思う。いやもっと、0.0001ぐらいかもしれない。そういう毎日。0ではない、しかし限りなく無に近い一日。

好きな作家の連載の新作を読む。生命の、明滅について。

もとより、無から有への転換はあざやかなものではけっしてなく、それはいつからそこにあったのか、ほんとうにはその瞬間を、実感することも知ることもできない。だからまだ生まれたばかりの存在は、またすぐにひっくり返って無へと還ってしまうのではないか。​
「第12回 こうふくの明滅」 堀静香 『うちにはひとりのムーミンがいる』

読んでいる、と、スマホの画面には、緑色の、しかしほぼ透明に近い淡い色の、その色合いがいかにもその生命力の無さを表しているような、虫が止まった。人差し指で弾き飛ばそうとしたら、その薄い緑色の虫は画面の上でするりと圧潰して、さらにそれをもう一度指で払うと虫の身体の固体の部分はどこかに消え、代わりにその指の軌道に沿って、粘性のある体液が画面にこびりついた。今、その体液の筋が虹色に見えているのは、多分液晶から出た光がその体液の中を多重反射して、すると透過光に光路差が生まれるので、波長ごとに干渉方向に違いが出て分光されて見えているのだと思う。爪で何度擦っても、その筋はカスのようになるばかりで一向に取れなかった。

死はそう、分光じゃないかと思う。人格の分解じゃないかと思う。時に死が美しくも見えるのは、その分光の虹色を見ているのではないかと思う。あの人、根は優しい人でね、あの時こんな言葉を言ってくれてね、負けず嫌いでね、カッとなるとつい手を出す人でね、笑顔が素敵な人だったのよ、一日に煙草2箱も吸ってたのよ、あなたの成人式にはこっそり泣いてたんだから、色、赤とか、黄、色。その分解された色とりどりの人格が二度と統合されることはない。それが、死ぬということだと思う。

少年野球でヒットを打つことだけが人生のすべてだったような、そんな日々が確かにあった。「係累」とはつまり累ねられたものであるように、過ごした日々の積み重ねはそれだけ死を躊躇させるものになるのだろう、か。今こんなにも生活は、0に近いけれど。

アスファルトに垂れた重油の虹色のように、死は輝いている。それが美しくないことも知っている。だから、この統合された人格を今日も生きている。美しさも、美しくなさも自分で、だから、それこそが生きているということなのだろう、か。

じゃがりことコカコーラ・ゼロを飲んでいたら一日が終わった。雑にじゃがりこをガリガリ噛んでいたら上あごに突き刺さって、だからコーラを口の中に含む度に沁みる、そんな、今日も0.0001ぐらいの一日だった。

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