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補論『囚われのいじめ問題』を受けて

 このマガジン『いじめを再定義する ーなぜ学校はいじめを認めないのかー』では2011年の大津いじめ事件を一つの軸にいじめ問題を考えてきました。事件から10年の昨年、大津いじめ事件を再検証する『囚われのいじめ問題――未完の大津市中学生自殺事件 』が出版されました。
 この本はかなり衝撃的な内容で、報道の仕方や過去を今の視点で振り返る証言の問題で事件がいじめだったという方向に傾いてしまったのではないかという疑問を投げかけています。
 細かく書くと膨大な量になってしまうので一つだけ例を挙げると、自殺練習の強要を教育委員会の調査で発表しなかったことが隠蔽と大きく報道されましたが、実はこれは自殺練習の証言者が全員「そういうことがあったと聞いた」と伝聞の形だった為教育委員会が発表しなかったのでした。これは後日新聞などでは報道されたのですが人々の意識が刷新されず、「大津いじめ事件では教育委員会の隠蔽があった」という認識だけが人々に残ることとなりました。

 私は『いじめを再定義する』の中で、大津のいじめ事件は少なくとも加害者(とされる)側は自分がいじめたとは思っていないかなり特殊な事件なのではないかと考えていました。
 しかし、『囚われのいじめ問題』はそれよりさらに踏み込んで大津いじめ事件を「いじめかどうかは分からない」と結論づけます。この本を読んで、実は大津いじめ事件は特殊ないじめ事件というより、ほとんどのいじめ事件がこういった特殊性を帯びているのではないかと考え直しました。

 いじめは主観的な評価によるものです。「相手がいじめと感じたらいじめ」という定義もさることながら、第三者がこれがいじめであると判断することも客観的ではなく主観的な評価です。それはつまり、数や勢いといった力によって正しさが押しつけられる可能性があるのです。下手をすれば「これはいじめである」という判断が圧力となって、そうでない見方を押しつぶすいじめの様な働きをしてしまうことが考えられるわけです。

 こういったことを防ぐ為にどうしたらいいのか。
 本編でも書いたように、いじめの被害を主観的な評価と切り離すことが有効であると考えています。いじめがあったかどうかではなく、客観的にどんな被害があったのかを評価し、対応するのです。
 私の定義する「いじめ」はその被害が大したことでないと過小評価されたり見過ごされたメカニズムを指します。いじめがあったかどうかではなく、起きた被害がどんな「いじめ」によって見えなくなってしまったのかを考えるわけです。

 いじめ問題の改善には既存のいじめの枠を考え直すことが必要なのです。
 


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