対コロナ政策は福島と同じミスを冒そうとしているのではないか
学校の休校など人々の生活に大きく影響を与えているコロナへの対策。ウィルスは見えず、それ故に怖いものですが、見えない恐怖というのを私達は一度9年前に体験したはずです。
そう、それは福島第一原発事故の放射能。あの時も福島県を中心に見えない放射能の怖さと日本は向き合いました。しかし、私はあの時の政策は間違っていたのではないかと考えます。詳しくはこのnote連載『放射能を見えなくさせたものとその処方箋』を読んでいただければと思いますが、ここにもコロナと関連する部分を書きます。
確かに放射能は見えません。しかし、見ようと思えば間接的に見ることはできます。その場所の線量を計ることもできますし、線量計を持ち続ければ個人の被曝量を計ることもできます。低線量被曝はトータルでどれくらい被曝したかでガンで死亡する可能性が数%上がるかもしれないというものです。どれくらい被曝したかは極めて重要なことです。
しかし、政府は被曝量ではなく単純な原発からの距離で避難するかどうかの線引きをしてしまいました。実際には避難の円の中にも被曝を受け入れて住むという選択肢もあったし(実際チェルノブイリではそういう人もいます)、逆に避難指示した場所以外の被曝も無視してはいけません。しかし、そういったことはなされず、福島に住む人々はだんだんと放射能の値から関心を失っていきました。見えない放射能をいっそう見なくなってしまったのです。
放射能の被害もありますが、避難の害も大きいものでした。避難によって生活の基盤を狂わされた人が大勢出ました。本来なら避難のデメリットと比較しながら避難の計画を考えるべきだったと思います。
これは今のコロナの状況に非常に似ています。
休校や様々な経済活動の自粛は当然大きなデメリットを伴います。ただ、やみくもに止めればいいというものではありません。そのデメリットを考えながら慎重に行うべきことです。
その為にはコロナのウィルスを見える可することです(ここからはあくまで感染症の素人の意見なので、細かい数値ではなく方向性での話とお考えください)。
コロナのPCR検査は感染者の濃厚接触者に重点的に行うべきです。大事なのは個人の感染の有無ではなく、感染者の流れを追うことによってウィルスを見える可することです。そして、感染者+濃厚接触者(未検査)の人数によって、各地域の活動の制限を考えていきます。全国一律に休校等を要請するのではなく、感染者+濃厚接触者の人数が一定数を越えた地域にだけ休校等を要請していくのです。こうすることによって、経済的、社会的損失を最低限にすることができます。現状の休校はいつどういうタイミングで解除するのかが分かりませんが、この方法なら休校解除のタイミングも地域の感染者の数を基準に考えられます。
放射能とコロナに共通する対策の大事なことは二つです。
一つは見えないものでも間接的に見ようとすることはできること。それをしないと対策の適切さを評価できないし、正しく怖がることもできません。
もう一つは対策によるデメリットを評価すること。避難指示、休校措置。対策には必ずデメリットがあります。そのデメリットと対策によって防げるものとを比較して対策の是非を考えないといけません。
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